2010/09/17

田丸浩史「レイモンド」 - まんがにおける≪自由≫とは何か

田丸浩史「レイモンド」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「レイモンド」

トキワ荘世代のまんが家による入門書や創作論を見ると、だいたいは、次のようなことが書かれてあったような気が?

『まんがとは、ペンと紙だけであらゆることが表現できる、きわめて自由なメディア』

と、そこまでは必ずしも言ってないとしても。しかしまんがという媒体について、『きわめて不自由なしろもの』と言われている例は、いまだ見たことがない。

がしかし。いまの21世紀におけるまんがについて、『きわめて自由なメディア』と考えている人々が、いったいいずこにいるのだろうか? 逆に申せば、いずこにそのような『自由』を表現し体現している作品らがあるだろうか?
で、だ。媒体のつごうや社会的制約による不自由…ということらは、問題でないとは言えないが、しかしいまは度外視する。いまここでは、誰かの頭の中にある何らかの壁、それによる不自由、ということを考えてみたい。

たぶん皆さまもご存じの、田丸浩史先生のご創作、「レイモンド」について(2005, ドラゴンコミックス, 全3巻)。これは現代日本の女子小学生の机の引き出しから、≪レイモンド≫と名のる米海兵隊員のような黒人(のアンドロイド)が出てきて、映画「ターミネーター」の設定をちょっと変えたような理由で、彼女の護衛をかってに買って出る、といったお話だが。
で、その海兵隊型ロボットのレイモンドが、未来のおかしな道具らを現代に持ち込んできて、まいどまったくいらんような騒ぎを引き起こすのだが。

ここでわれわれが、『それは「ドラえもん」のパロディですね?』などと言っては負けなので、それは避けたいのだが。かつ、さりげないが(?)、『レイモンド』という題名と主人公の名前にしても、いわゆるアナグラムで『ドレイモン』とでも読ませたいのかな…と考えないでもないが。

そうして、筆者の談議は≪作者≫というものをまったく問題にしない前提だというに、にしてもこれを見ちゃっては、『どうしてそんなに不自由なの?』と、作者さまに聞いてみたくもなってしまう(=大惨敗!)。

すなわち田丸先生に関しては、その最大の…というよりも唯一の傑作「ラブやん」(2000)にしてから、だんぜんきっぱりと『それは「ドラえもん」のパロディ』だというに。さらには作家さまがどっかで語ってらしたけど、未刊行の「やくざもん」という初期の読みきりが、また『それは「ドラえもん」のパロディ』であるらしいし。
そもそも古く、高橋留美子先生の「うる星やつら」(1978)にしてから、『それは「ドラえもん」のパロディですね?』ということが言われているというに。だのにどうして“われわれ”は、この21世紀にまで、その挙を反復し続けないではいられないのだろうか? 確かに「ドラえもん」は面白いお話だとは認めるが、にしても、なぜそんなにまでそこへと粘着する理由があるのだろうか?

…もしもそこいらを分かると、これが大傑作に化けるのやも知れないが。というよりも、明らかに原作のほうがずっと面白いという場合に、『パロディ』が成り立っていると見うるのだろうか?

でまあ。筆者がつい先日、この「レイモンド」の最終巻を読んで、思わず『しょうもなっ!』というつぶやきを発したことは、ともかくだ。
…いや、そもそもこの本、体感的にはその内容の30%くらいが、田丸センセと誰かとの対談によって占められており、そんなでは田丸センセへの特殊な興味を前提としてできているとしか思えず、まるで田丸ファンクラブの会報みたいなのだが。かつその対談が、最初の方はまだしも、追ってどんどんまともな話題がなくなっていき、最終巻では目を通すのもむざんかつあほらしい、というありさまだが。
しかも、さっきからこの堕文に、『田丸センセは…』うんぬんというフレーズが多いのは、そのような、この本が演出している『へんに作者をスター扱い』(?)というムードに自分が巻き込まれているわけで。それが、まったくもって不本意なのだが!
(にしてもちょっとはほめておくと、多少ならずロリコン的な興味があれしてそうな作品の中で、かんじんのヒロインが粗暴な腹黒いちゃっかり者…というところは、ちょっとよい)

トキワ荘時代のまんが家先生たちが言ってらした、『まんがは自由なメディア』というテーゼ。それを現在のまんが家の1人であらせられる田丸浩史先生は、「ドラえもん」と「ターミネーター」をてきとうにこき混ぜて、ロリコン風味をまぶし…といったような、先行の物語資源らを『自由に』乱用・流用(アプロプリエート)しちゃってもよいかも、という『自由』にすり替えておられるのではないだろうか?

で、ここでは、そうした田丸センセの創作態度について難色を示したいとか、そういうわけでは別にない。『そうだ』と断言もいたしかねるが、おセンセの『パフォーマンス』は、見かけ上の自由さが実質的にはとんでもない不自由であると示す、作家人生そのものをかけてのギャグ実践にも見えなくはないので。
そもそも『これ』が、あまりにも中途はんぱな創作であることは、まったく“誰”にでも分かることであり。そんなものを人々が囲んでいる状況、それこそが笑うべきこっけいでありグロテスクなのやも知れぬ。

また、別の言い方をすれば。こんにちのまんが界で、そのていどのものをご創作として提出されているのは田丸先生1人だけとも思えず、むしろ明示的にだんぜん空疎なだけ、田丸作品らはちょっとあいきょうがある方やも知れぬ。何度も申し上げすぎだけど、「ラブやん」はすぐれた例外として。

さいごに1つ、あるかもしれない誤解をといておくと。『パロディ』(正しくはアプロプリエーション)という手法を即・面白いものかのように考えるのは、『だじゃれ』というものを即・面白いものと考えるオヤジの発想と同じだ。まれには面白いダジャレもあるように、まれには面白いパロディもある、そのていどに考えたほうがよい。

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