2010/09/22

佐藤秀峰「海猿」 - パンチラと ウンコとゲロ と 人命救助(字余り)

佐藤秀峰「海猿」 
参考リンク:Wikipedia「海猿」

この「海猿」は、『リアリティと社会性あるヒューマンドラマの名手』くらいに評価されていそうな劇画家・佐藤秀峰(さとうしゅうほう)先生の出世作。1999~2001年のヤングサンデーに掲載、単行本は全12巻(ヤングサンデーコミックス)。TVと映画でたびたび映像化されているので、そちらでも有名なタイトルらしい。

ところで、この作品と作者さまについては、筆者はぜんぜん詳しくない…というか、むしろ『ついさっき知った』と言いたいくらいだ(!)。だいたい自分は大してまんがに詳しくない、ただ≪ギャグまんが≫というものに粘着してるばかりなんだけど。
それがどうしてここでの話題になっているかというと、それらが単なる1つの作品・1人の作家だというのでなく、まんが界全般に対する『何か』だと、ついさっき知ったからだ。

と申してから確認しておけば、ギャグであろうとなかろうと、すぐれたまんが作品とは『社会に対しての“何か”』であるものであり、よってまんが(にかかわる実践)には、一種のジャーナリズムを志向するもの、という性格が必ずある。ただ単に、≪創作≫であるばかりではない。
その反証に見えそうなものとして、かのつげ義春先生を筆頭に、世捨て人さながら(?)の作家さまたちの細々とした創作活動があるわけだが。しかしそれらにしたって、このせせこましい一般社会とコマーシャルなまんが界に対しての『何か』と見られうるからこそ、びみょうにも存在意義を認められているわけで。

で、つげ義春先生らの『リトリート(退却, 後退)』戦術とはもろに正反対な方向を志向しながら、こちらの佐藤秀峰先生もまた、現にあるまんが界、その業界の構造、等々にそむいておられる勇者だと、ついさっき自分は知ったのだ。
あまりくどくならないように、自分の知ったことを説明させていただこう。数日前、ツイッターの『TL』上のリンクをつついて『サイゾー』のサイトに飛ばされた自分は、そこで次の記事の見出しを見つけたのだった。

『日刊サイゾー:「マンガを正当なビジネスにしたい」マンガ家・佐藤秀峰 爆弾発言の裏にある思い』

この『爆弾発言』らによる騒動もたぶんひじょうに有名なので、どんだけ自分が世間にうとく『情報』を知らないか、ということは痛感させられる。オレってまったく、どっちかと言ったらつげ先生的なヤツなんだなあ(よく言って)…ということはともかく。
いろいろ調べてみると、秀峰先生がWebによって出版社や編集者とのトラブルの『暴露』を始めたのは、2009年02月からであるらしい。そして上のサイゾーの記事はおろかにも日付が不備だが、しかしURLから推理すると今2010年6月のものかと思われ、ここまでの一連のことの総集編的な記事になっている。
この間に先生は既存のまんが出版界との関係を大いに縮小し、そして自ら立ち上げたオンラインコミックサイト『漫画 on Web』(*)へと、その活動の場の中心を移されたのだった。

で、佐藤秀峰先生のこの間のさまざまな発言と行動らについて、いま自分がひとことで、総括したり評価したりするということもむずかしい…。とりあえずは、七分三分あたりまでそれらには共感している、くらいの立場を示しておいて。

ところで先生のおしゃべりをうかがっていると、その底流には、こういうメッセージが常に流れていそう。すなわち、『作品は作家が作るもので、編集者などは本来いらない存在』。
で、そこからもうひとつ広げたら、こんなことも言えるのではなかろうか。『まんが作品らはおのずと売れるもので、出版社はそれの事務関係をやっているだけ』。いや、そこまでは言っておられないのだけれど!
もちろん先生は、世には売れない作品と売れないまんが家らの方が圧倒的に多い、という事実はしっかりと認識されている。にもかかわらず、作品らはおのずと売れるもの、のようなニュアンスがそのご発言に見られるのが、ちょっとオレには面白いのだ。

そしていま言われたようなテーゼらは、あえて申してみれば、『小中学生的なまんが観』なのではなかろうか? 自分が子どものころ、まんが誌の編集者の仕事は、原稿のさいそくと、あとは受けとったものを印刷所に運ぶだけ、くらいに思っていた。それは子どもの考えだが、そんなむかしの自分の思い込みに、意外なところで再会しちゃったような気分になった。
が、それがコケの生えたようなまんが読みになってくると、それだけでもなさそうということが分かってくる。さらに進んでは、まんがというものを『“プロデュース”されたもの』、とばかり見るようなギョーカイ通の読者になったりもするが…(オレはならないが)。
しかしそいつらの大人げありそうなりくつを、われらの佐藤秀峰先生は、超あっさりと一蹴しておられるのだ。

そしておそらく、先生の見方によれば、子どもの筆者が思っていたような編集者が、むしろ『いい編集者』なのだ。それが大した役にも立ってないくせに(!?)、あれこれと口出ししてきたり、または制作についての貢献を言い立てたりするのがうっとうしいらしくて。

 ――― 前掲『サイゾー』のインタビューより(*) ―――
【聞き手】 マンガ家と編集者の関係というと、週刊少年ジャンプ連載中の大場つぐみ&小畑健『バクマン。』や、土田世紀『編集王』でもその内幕が描かれていますが?
【佐藤】 『バクマン。』は読んでないんですが、『編集王』はアシスタントのころに読んでいて、「これからこんな編集者と付き合っていくのか、でも、ここまで悪い人たちはいないだろう」という思っていたら、もっと悪かったという(一同笑)。

これには思わず、筆者も爆笑をきたしたが。…だがしかし、すべてのまんが家たちが、編集者について、同じように感じているのではなさそう。むしろ編集者のおかげで何とかなったという報告もかなり多い、その半分くらいは社交辞令だとしても…という事実もまたある。
ここにて筆者も、聞いたことのあるいくつかの『編集美談』をご紹介したくはなったけれど、しかしいまはそれを控えて。

で、佐藤先生は、彼が主宰される『漫画 on Web』にて、編集的な行為の介在しない創作らを、よい意味でのビジネスにしようとされている。その媒体に、有名無名を問わず、あらゆるまんが家の出品を『無審査で』受け容れる、と宣言して。
そしてその、作家たちが自治する場から、新たな人気作と人気作家らの登場するようなことがあれば、それがひとつの立証、佐藤秀峰先生による『編集者不要論』の立証にもなるだろう。なお、『漫画 on Web』の日記コーナーにも佐藤先生のまんが観・業界観が大量に出ているので、興味のある方はご参照なされては(*)。

かつ、一般のまんが産業に対するオルタナティブ(対抗軸)といえば、『コミックマーケット』という語によって代表される同人誌(即売会)、というものも無視はできない。Mid 1970'sにそれを立ち上げた方々は、明確にその『対抗軸』というところを意識されていたはず。それが現在まで、そういうものとして機能しているかどうかはともかくも。
で、それは(いちおう)アマチュアリズムからの挑戦だったわけで。しかし佐藤秀峰先生は、プロ中のりっぱなプロという立場から、いまの業界とその構造に『No!』をおっしゃっているのだ。売れている作家が業界に異議申し立て、というのはいままでにあまりなかったことで、そこが注目される理由ではあろう。その一方、売れてないまんが家のうらみ節なんて、基本的には人の聞きたがらぬ平凡なものであり。



そして話は、やっとここから作品「海猿」のことになるのだ。さきからうわさの『漫画 on Web』にて、太っ腹にもその「海猿」全編が無料公開されているので、とり急ぎ筆者はそれの第1話を見てみたのだった(*)。
するとだ。筆者もけっこう長くまんがを見ているけれど、連載作品の第1話として、これは申し分ない、すばらしい、ということは断言できる。今作の題材たる海上保安官らのつとめ、そこには大して興味がないにもかかわらず引き込まれ、さいごのヒキのところではほんとうにしびれた!

が、しかし。ここで筆者特有の、おかしい見方を申し上げてみれば。

晴れがましき新連載の第1話に、この作品が描いているものは≪何≫だろうか、と考えてみたら? するとまず、いきなり全編のヒーローが、パンチラを眺めながら脱糞しつつ登場、というところがすごすぎる!
ところでだが、『新連載の第1話にパンチラをフィーチャー』ということ、それはいい。大いにいい。それは少女まんがで(さえ)もよく使われて機能する序盤のパンチ(ラ)なのであり、矢沢あいの名作「天使なんかじゃない」の第1話にもそれがある。
がしかし、『脱糞しながらヒーローが初登場』、これは他の例を思い出せない。やや比肩しそうなものとして、山上たつひこ「喜劇新思想大系」のヒーローが放尿しながら初登場するけれど。にしても。

しかも続いて、『若手の美人記者』として登場したヒロインらしき人が、ヒーローにつられて便意を覚えてしまい…ということまでは、まだいいけれど。
しかしそのトイレの中のことを、やたら過剰にはっきりと描きすぎなのではなかろうか? ただし、彼女がトイレにこもっていたので下船しそこね、そして緊急の出動に巻き込まれ…という作劇の流れはうまいと思いつつ。

それからこの「海猿」第1話では、いろんな方々が嘔吐をなさる。荒れた海を往く小っさな船の上のお話なので仕方ないにしろ、ヒロインもヒーローも盛大に吐きまくり、かつわき役の方々もまた。吐かないのは、ベテランの船乗りたちだけだ。
で、またそれをはっきり描きすぎな気がするのだが…? ただし、そのわき役の吐いたものが手がかりになってお話が急展開、という終盤の作劇には、これもうまいと感心しつつ。

あともうひとつ申すと、わりにねちねちと描かれている、ヒロインらしき人のおパンツの色が黒、ということも何かのふんいきを作っていそうだが、まあそこは強くは言い張らない。
…ともかくもこの『ヒューマンドラマ』でありそうな作品「海猿」の第1話には、海難救助のスペクタクルにあわせて、『パンチラ・ウンコ・ゲロ』といったものらがみっちりと大フィーチャーされているのだ。しかもそれがまんざら対比的要素だけとも思えず、まずは作劇に組み込まれフィットしているものであり。
かつひょっとしたら、『ヒューマンドラマ』の訴える人間肯定の主張の一環として、そういうものらがことさら出ているのかもなあ…という気さえしてくるのだった。ゆえに筆者はびみょうには引きながらも、このお話のそういうところをいちおう肯定的に見たいのだった。

と、そこまでは作品自体の話だ。ところで筆者にはもうひとつ思うところがあって、過剰に『露悪的』で悪趣味にも近いようなお話や描写といえば、今作もそうであるヤングサンデー掲載作品らの大特徴、ということ。
ストーリー部門では、こちらもいつかは論じたい山本英夫や柏木ハルコらのお作らを、その傾向の代表と見つつ。また筆者の専門のギャグまんがについても、ヤングサンデーの作品らは、『ギャグにしたって、あまりにもストレンジ!』ということはたびたび申し上げてきた(*)。

で、今作「海猿」第1話の『露悪的』にも見える表現が、ヤンサン編集者の指示によるものなのか、それとも作者さまが掲載誌のふんいきを読んだ結果なのか…。それは、別にどっちでもいい。
けれどもわれわれはこの目ざましい作例から、こういうことを感じるのだ。すぐれた作品とは、作者の創意や能力はとうぜんとして、かつそれと媒体とのぶつかり合いや相乗作用によってこそ、生まれてくるものなのではなかろうか、と。



上の文中、サイゾーの記事からの引用について注記。聞き手の質問は意味を変えず表現を簡略化、佐藤秀峰氏の発言中の『という思って』は元記事のまま。

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