2010/04/07

種村有菜「桜姫華伝」 - ≪性交≫は、不可避でありかつ不可能

種村有菜「桜姫華伝」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「桜姫華伝」

題名の読み方は、『さくらひめ かでん』。筆者にはたいそうなじみある作家さまが、2009年1月からりぼん掲載中の伝奇ファンタジー。りぼんマスコットコミックス版は、第3巻まで既刊。というわけなんだが、その第1巻だけ読んだところでひとこと。

これはどういうお話かというと、ときは空想的に描かれた平安時代、ヒロインの≪桜姫≫は14歳。天涯孤独の身の上ながら、≪王良親王≫の許婚として、王都近郊のいなかで大切に育てられている。
ところが桜は異様に自立心が強く、よく知りもしない親王との結婚に、まったく乗り気でない。そこへ身分を偽って王良親王が、彼女を嫁取りに迎えに来る。その態度がまた、ちょっと感じ悪い。
思いあまって、桜は家出を敢行する。ところがその逃避行の過程で彼女は、『満月を見る』という禁じられていたことを実行してしまう。すると、今作中で≪妖古≫と呼ばれるドロドロした人喰いの化け物らがとつじょ出現し、桜を襲ってくる。

…ここから少々難解な設定が出ているところで、まず桜の正体は『かぐや姫の孫』。妖古を退治することは、そのかぐや姫の一族が身中から出す秘剣によるしかできない。だから妖古らは桜をねらっており、満月の鏡を媒体として、その居所をさがしていたのだとか。
そうして桜は、おなじみのなつかしい≪神風怪盗ジャンヌ≫のような姿の戦闘モードに変身。おぼつかないながらも秘剣≪血桜≫をふるって、妖古の退治に成功する(第1話・完)。

で、それから王良親王がちょっと態度を変えてきたので、『愛があるなら』いいかなと、結婚に対して前向きになった桜。そして、もうすぐ初夜のお床入り…というところへ、妖古が出現。
それはかんたんに退治したが、けれどその直後、びっくりなことに、王良に率いられた近衛兵らが桜に矢を射かけてくる。どういうことかって、王良が言うには、そもそもかぐや姫の一族と妖古とは同じもの(!)。つまり桜もまた、不老不死の人外なのだとか。
そして王良の父と祖父(先代と先々代の帝)は、月の姫の一族に魅入られたために、妖古に殺されたのだとか。ゆえに王良はその一族には恨みありまくりなので、『ここで死ぬんだ! 桜姫!!』と叫んで彼は弓を引き、その矢は桜の胴体の真ん中をつらぬく(第2話・完)。

その場をなんとか逃げのびて、やがて気がつくと桜は、忍者を名のる少女≪琥珀≫に看病されている。三日三晩、琥珀の家で寝ていたらしい。そして琥珀は王良の配下なのだが、『たぶん』連絡不行き届きのせいで、現在の桜が追われる身だとは知らない『らしい』。
そして桜が自分をチェキすると、彼女の胴体をつらぬいたはずの矢傷が、まったくない。しかも彼女は、琥珀を見ていて『おいしそう……』と、あらぬところに食欲のうずきを感じる。それではやはり、自分は妖古と同じ化け物なのかと桜は、(後略)。

というあたりで、第1巻は終わり。ふとんの中にてそこまでを読んで筆者は、『さすが“有菜っち”、おもしれえことを描いてくるよな』と、つまらぬ感想をつぶやいて寝た。
ところで筆者は、起きているときと寝ているときとで、考えることが異なる。比較すれば、眠りの中での方が、多少はましなことを考えているのでは…と自覚しているのだが。

そして筆者が、読後の眠りの中で考えたことはこうだ。
この「桜姫華伝」というお話の核心は、そのヒロインが≪性交≫を、するかしないか、というところにある。そしていったんは『愛がある(らしい)なら』と言って初夜を迎えようとした桜だが、しかしその初夜は、『男が矢によって女体をつらぬく』という象徴的行為によって代替される。
桜と呼ばれる≪主体≫において、王良との間に『愛がある』ということが確信されていないので、その初夜は代替と延期をこうむっているのだ。そしてその主体の『想像』において、彼女自身は無敵のスーパーヒロインと人外の化け物を兼ねるものであり、かつ一方の男子は『それ』を憎むものなのだ。

だからこれに続く桜姫の冒険は、『愛がある』か否かを彼女がねちねちと確かめるもの、さもなくばその愛を作っていくためのものになるのだろう。で、それが片づいたところで、性交が実行されて物語が終わるのだろう。

古い(が新しい)メルヒェンの「シンデレラ」とか「いばら姫」とかのお話には、ヒロインが『待つ』というところに明らかに、1つのポイントがある。シンデレラは一夜が明けるのを待ち、いばら姫は100年間も待つ、というところが大きく異なるにせよ。
けれども桜をはじめとする現代の≪姫≫たちは、待たずに闘う。そして彼女らの勇ましさは、≪王子≫らに対し、『拒絶しつつの媚態』というふしぎなものとして機能する。それをいっそのこと、なさるべき性交を延期するための闘いである、とも言い切りたいところだ。
よって彼女らにおいて、『性交は、不可避でありつつ不可能である』。ところが少女まんがにおいては、『それでいい』、と言いうる。性交が『ありうること』と認識されたところにそれは始まり、性交がなされてしまえばそれは終わる。

なんてまあ、そんな見方がすべてとは自分でも思わないので、この「桜姫華伝」の続きは楽しみにしつつ。今作については、いずれまた。

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