2010/04/23

井上和郎「あいこら」 - フェチは、別腹!

井上和郎「あいこら」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「あいこら」
関連記事:西川魯介「あぶない! 図書委員長!」 - その有する、ささやかな『うそじゃなさ』

話題の井上和郎「あいこら」は少年サンデーのラブコメ、2005~2008年に掲載(少年サンデーコミックス, 全12巻)。だが『ラブコメ』というにもけっこうストレンジな作品で、そのヒーローの≪ハチベエ君≫は、『1人の女の子』に恋をするというような、まともな少年ではない。
では、おなじみの≪あたる君≫のようにハーレムを建設したいのかって、それともまた異なる。われらのハチベエ君は『パーツフェチ』なんだそうで、女性の体の部分部分(パーツ)のフォルムに対して、異様なる固~いこだわりを持っているのだ。
ゆえに彼は、その理想のパーツの持ち主らに接近していくのだが、もちろんそれは、ふつうの恋愛活動ではない。そのいわく、

 『何がハートだ!!
 そんなもん1ミリも 求めちゃいねえ!!
 パーツこそがすべて!!
 パーツこそが正義!!』(第7巻, p.16)

…とはまた、何ともやばいヒーローがいてくれたものだ。『女体に興味があって、女性のハートには1ミリも興味がない』とは、ふつう(はっきりとは)言えないことで。

そういえば現在のサンデーには、若木民喜「神のみぞ知るセカイ」というラブコメが載っている(はずだ)。そんなに読んでないけれど、これはギャルゲー(恋愛シミュレーションゲーム)の達人で≪神≫とまで呼ばれる少年≪桂馬くん≫が、現実の恋愛にはまったく興味がないという、それとなくも同工異曲な作品になっている。女性そのものではなくして≪女性っぽい記号≫を、彼らは追い求める。
そしてハチベエ君にしろ桂馬くんにしろ、びみょうにもちょっとカッコいいと思えるのは、どちらもエゴイストのニヒリストではありながら、しかし異性に対して甘えようというこんたんがない、そこに多少のヒーローっぽさがある感じ。

ところでなんだが、関連記事において筆者は、フェチ満載の西川魯介センセのお作品について、こんなことを書いていた。
『はいぼく氏の論調だと西川作品は、フェティシズム(萌え)を超越して崇高なる愛にいたるようなものだという感じだが、しかし筆者にはそうは見えていない。
フェチ(萌え)もあるなら愛もある、と、そこでは2つのものの並置がなされているにすぎない。ところが西川作品のその点にこそ、一片のささやかな“うそじゃなさ”が存在するのだ』

これを見てから「あいこら」の話に戻ると、全編のど真ん中くらいでハチベエ君は、彼の追い求めるステキパーツの持ち主の1人≪天幕桜子≫との、わりとまともなラブに堕ちてしまう。そしてこんどは、『心(ハート)を大切にしない 者に、真の愛は 生まれない!!』(同書, p.51)などと言い出しやがる。
この事態を重く見たハチベエ君のフェチ仲間らは、彼がたまらないようなパーツを彼に見せつけて、ハチベエ君の『パーツ愛』をよみがえらせようとする。じっさいふつうの恋愛に堕ちたからといってハチベエ君は、パーツに対する執着心を失ったわけではないのだった。そこで彼は、『天幕への愛』と『パーツへの愛』との間でジレンマに苦しんでみせる。

と、そこへ、彼たちの学校のOBでフェチ道の導師みたいな≪油坂先輩≫が現れ、ハチベエ君に、『フェチの偉大なる先人達の言葉を授けよう』、と言うのだった。そしていわく(すっごく大きな文字で)、

 『フェチは、別腹だ!!』(同書, p.56)

いさいははぶくが、要はそのことばに説得されてハチベエ君は、『恋もフェチも全力投球!! 完全燃焼だぜ!!』と声高らかに叫び、今後もフェチ追求はやめないゾ…との意思を固めてしまうのだった。
そこまで読んで『はあ…』とため息をついて、このシリーズの第8巻以降は、いまだ見ていない。にしてもずいぶん正直なことが、描かれた作品だとは思える。

フロイト「性欲論3編」(1905)にも書いてあることだが、倒錯者という方々は一般に、その人格や生活がまるっきりおかしいわけではない。『通常は正常にふるまいながら、性生活の領域だけにおいては、あらゆる欲動の中でももっとも制御しがたい性欲動に支配され、病的な行動をする人がいるという事実』(フロイト「エロス論集」, ちくま学芸文庫, p.70)。
かつ、フロイト様の言われたこととは少し異なるのだが、かの名高き淫楽殺人者のペーター・キュルテン(1883-1932)にしたって、暴力なしのふつうっぽい性交などはいっこうに愉しめなかった、ということはないらしい。それがまた、やはり『別腹』であったらしい。

と、フロイト様は、『全般的にはわりとまともそうな人間が、性的行動において異常』ということを言われており。また観察は、1人の人間が性的に、ノーマルっぽい行動と異常きわまる行動の両方を(自発的に)こなす、という事実を示している。

この観察事実をふりかざして、『恋もフェチも』、あるいは『パンツも中身も』、さもなくば『2次元も3次元も』、あわせて追求するという態度が、ありえなくもなかろうが。しかしそれをことばではっきり言ってしまうことは、『フェチの求道者』や『ギャルゲーの神』を自称するよりも、なぜかよっぽどできにくいことだ。
つまり現実には知らないけれど、ネット上には『3次元ごとき(の女性ら、そのイメージ)には興味がない』を言い張っている方々が、少なからずおられるもよう。これを言い張ることが、単に生身の女性に縁がないというよりは、まだしもかっこいいらしい。
それに対して『3次元もよくね?』などという言説を返したら、『不純!』と断じられて終わるような気がしてならぬ。『2次元にしか興味がない』は、後ろ向きにしても一種のカッコつけだ。

だから『フェチは別腹』という主張は、分かりきっておりつつ認識したくないことが言われている、と考えられてもくる。言い換えて、2次元でばかりあれしている方々は『別腹』ばかりを満たしておられる、甘味ばかりを召し上がっている、ということにもなりつつ。

また。ここにおいて、一部のメガネフェチの聖典かとも言われるラブコメ、魯介センセの初期作品「屈折リーベ」(1996)を参照すれば。そのヒーローたるフェチ野郎くんは、ヒロインのメガネっ娘から『そんなに 眼鏡でなきゃ 駄目なのか!?』と迫られて、何か考えた末に『メガネでなきゃダメだッ!!』と、大断言する。それを聞いて呆れかえったヒロインは、自分のかけていたメガネをフェチ君に渡して、その場を去る。
西川魯介「屈折リーベ」ジェッツ・コミックスと、それきり疎遠になってしまってから、数週間後。何かのはずみでフェチ君は、次のように自分の考えを改めるのだった(「屈折リーベ」ジェッツ・コミックス版, p.168)。

 『「メガネだから 好きになった」 んじゃない!
 好きになった人が 「たまたまメガネだった」だけ なんだ!』

とはまたごりっぱな自己欺瞞もあったもので、そんな『たまたま』がこの世にあるわけはない。われらのフロイト様がいずこかで正しくいわく、『物理の世界に偶然はあろうが、心理の世界に偶然はない』。
ただしこのフェチ君が、単なるメガネ好きからヒロインに執着しているのだ、とも考えない。『中身よりもパンツに興味がある』、というばかりではないような感じだ。そのようにどっちつかずな自分の心理を、このフェチ君はことばで表せない。

そしてこのことを「あいこら」以降のわれわれの見地から言い直せば、すなわち『フェチは別腹』、『恋もフェチも』、というわけなのだが。または筆者がかって書いた、『フェチもあるなら愛もある』、という並置並存の状態なわけだが。
しかし「屈折リーベ」のヒーローのフェチ君は『恋もフェチも』、という考えには、思いいたらない。それがなぜなのか『分かりきっておりつつ認識したくないこと』なので、その想念は無意識へと抑圧されている。そして気分だけ、フェチをびみょうに卒業したつもりになっているらしい。

そういえば「あいこら」作中で油坂先輩は、『フェチは死ぬまで治らない』、みたいなことを言う。そして恋愛はフェチ心をいったん抑圧するけれど、しかしけっきょくは抑圧しきれないものなのだとか。
と言われた通り、恋愛を自覚した「屈折リーベ」のフェチ君にしたって、お話のさいごでフェチが治っているわけではない。そこらがまあ、その作品の有する『一片のささやかな“うそじゃなさ”』かなあ、と考えつつ。

かつまた。うろおぼえだが、ジャック・ラカン様がセミネールのどこかでいわく、『精神分析の実践は、人間の中にどうしようもなく存在する≪法(オキテ)≫、ということを教える』、とか何とか。そうしてフェチ君らやギャルゲーマニアらといえども、自分でかってに作ったオキテをかってに守ることによって、そのかってな世界の中で自分を『ピュア』であり『イノセント(無垢, 無罪)』だ、と考えたいのだ。
さらには、世間から見ての犯罪者といえども、自分を悪いと考えている人間はめったにいない。ねずみ小僧が≪義賊≫だという話に対抗して、いかなる泥棒も1人の貧民(自分)を救っている、とは言える。これはラカン様のみ教えを、逆に見て言われることだ。つまり、いかなるド悪人も精神的に破綻していない限りは、何らかの彼なりのかってな≪法(オキテ)≫を守っているので、その世界の中で自分を無罪だ、と考えているのだ。

で、「屈折リーベ」のヒーローのような自覚あるフェチ野郎にとって、『恋もフェチも』を『言う』ということは、彼なりの守るべきオキテから踏み出してしまうこと、らしいのだった。かつ、われわれの卑近な観察からも、『2次元も3次元も』を言うことは、何となくカッコ悪いのだった。
『女性っぽい記号には興味がある、女性には興味がない』。これがふつうは言えないことなのに、それよりもさらに言いにくいことがあるのだ。で、『恋もフェチも』あわせて追求したい、というカッコつけ以前のホンネを言わないことによって、その独りがってな≪法(オキテ)≫を守ることによって、フェチ君たちはその≪自我≫をいつくしみ守っているらしいのだった。

そうしてだ。『フェチは別腹』、『恋もフェチも』、というたいへん言いにくいこと、その外傷的な認識を、はっきり描いてくれている、この「あいこら」という作品。それを、少なくとも1つの大したしろものだとは考えながら、この堕文はここらでいったん終わる。

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