2010/04/29

三ツ森あきら「Let'sぬぷぬぷっスーパーアダルト」 - 見せかけのオキテ、無分別ないくじなし

三ツ森あきら「Let'sぬぷぬぷっスーパーアダルト」第1巻 
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ギャグまんグルメを自負する筆者が絶賛をおしまない1990'sのギャグまんが大傑作、三ツ森あきら「LET'S ぬぷぬぷっ」。その関連シリーズとして、今21世紀にふっかつしたものがこれ。1P単位のショート形式、竹書房『Dokiっ』とかいう媒体に掲載中、『いつから』というデータは不明(推定・2006年かそこら)。単行本はバンブー・コミックスとして、第2巻まで刊行中。

並べてみると、題名の表記が少々変わっているので、前作を「大文字のLET'S」とでも呼びたくなるところだ。対する今作は、「SA」とでも略称することにして。
で、関連シリーズといっても、両作に直接のつながりはひじょうにない。ともかくも作者が同じで、ふんいきに多少通じるところがあるかな、と、そのくらい。あまりにもつながりがないので、「SA」第1巻・巻末のおまけまんがで、かの「大文字のLET'S」が生み出したスター的キャラクター≪スシ猫くん≫が、読者に代わって『こんなモン サギだろ サギッ!!』と怒っているくらいだ。
いらぬ想像をあえてすると、前作から版元が変わっており、しかも前作はTVアニメにもなった作品なので、権利関係がめんどうだったのかも? そこでせめてもと、そのおまけまんがの中で、おなじみの設楽先生やデキナイ君らがちょこっと活躍しているが。

あと両作が異なっている点といえば、『スーパーアダルト』ということわりがついているように、今作「SA」はエロいネタに特化した内容。前作も少年誌掲載にしてはエロい内容だったけれど、こっちはそんなものではない。

で、やっとここらから『内容』の話になるんだけど。今作「SA」について、読んで笑えないということはないが。本の値段分の価値はゆうにある創作だ、とは思うが…。
しかし筆者は「SA」の内容について全般的に、「大文字のLET'S」にあったような張りつめたものが感じられない、というのが正直なところだ。前作の描いていた≪性≫が、その背後に必ず≪死≫の匂いを秘めたものだったに対し、こっちはたいそうふんいきがゆるい。

たとえば…と言って、あまり面白くないところを見ることになるが。題して、『レズビアン イン アパート』。女性2人がアパートの1室でたわむれているところに、大家のおばさんがどなり込んでくる。そして、『こんな“ネコ”なんか 連れ込んで うちのアパートは ペット禁止 だよー!!』と言って、受け役の女性を外に放り出してしまう(第1巻, p.26)。別に説明したくないが、レズの受け側を俗語で『ネコ』と言う。
堕じゃれじゃん…って、それはいいんだが、しかし何とも発想がふつうだ。むかしからエロ本のすみっこに載っている『艶笑』的な4コマまんががあるが、今作「SA」はそのようなものとして、たいへんに洗練されている…くらいの見方もできてしまいそう。まあじっさいに、掲載誌がほぼエロ本のようなものらしいし。

ところでその「SA」の中で異彩を放っている部分、筆者が大いに注目しているのは、第1巻のカバーを飾っているキャラクター≪パンダ君≫が描かれたシリーズだ。このパンダ君がほんとうのパンダなのか、パンダの着ぐるみを着た人なのか、そこらがよくわからないが、ともかくも彼はテレビの子供番組の人気キャラクターなので、『いやらしい事など見ても 聞いても考えても いけない』という立場にあるという(同書, p.6)。
だからパンダ君は、エロいことを『しない』ことを必死にがんばっており、それゆえに彼を求める女性たちから『いくじなし』と呼ばれてしまうのだった。よって彼が登場するシリーズには、『チキンハートストーリー』という副題がついている。

他の登場人物たちがためらいなく≪享楽≫を追求しエロい行為に走る、特に三ツ森作品ではいつも、女性らに恥じらいがほとんどない。その中でパンダ君だけが超かたくなに、その『純潔』を守っているのだ。そしてそれが、だんだんとおかしいことに発展していく。

 ――― 「Let'sぬぷぬぷっSA」, 『パンダ君(お見舞い編)』より(同書, p.48) ―――
われらのパンダ君が、何らかの重病で入院しているファンの少年をお見舞いに。すると少年は悲観的で、『ぼくなんかパンダ君と同じ“いくじなし”だから、手術を受ける勇気なんてないし』、などと言う。
いきなり痛いところをつかれて、パンダ君は冷や汗をかきながら、しかし『ボクはいくじなし なんかじゃ ないよ…』と言い張る。すると少年は、つきそいのナースをさして、『だったら今ここで あの看護婦さんと Hできる?』と、とんでもないことを言い出すのだった。『いくじなし じゃなければ できるよね? 僕に勇気を 見せてくれる よね!!』、と少年が言うのを聞いて、ナースはパンツを脱いでそれをスタンバイする(!)。
と、追い込まれて全身がズブズブ冷や汗まみれになったパンダ君は、『やっぱ手術 しなくて いいよ…』と、あっさり降参してしまう。そこで少年とナースはがっかりして、異口同音に『いくじなし』と、パンダ君をののしるのだった。

それからの展開を超かんたんに記しておくと、このように自らの純潔を守らねばならないばかりにパンダ君は、自分が死ぬことも辞さず、他人が死ぬことも辞さず、その他の部分での名誉を失うことも辞さない。
クリスマスの夜、よい子にしていたことのごほうびとしてサンタクロースが女の子を連れてきて、『この娘の処女をもらっとくれ』などと言う。するとパンダ君はサンタを金属バットでぶん殴って、『ボクは本当は 悪い子だー プレゼントなんか いらないんだー』と叫ぶ(同書, p.78)。
そして今作の第1巻の巻末のエピソードでは、パンダ君は孤島のプライベートビーチでバカンス中(p.126)。すると浜辺に人が流れ着いたので助けようとするが、しかしよく見るとその女性が、漂流中に服を流されて、ほとんど全裸。
それに気づいたパンダ君はきびすを返し、自分のコテージに引き返してしまう。『やがて 夜になり 潮が満ちれば 波が全てを 消し去って くれるだろう…』と、非情のモノローグをそこに残して。そうして夜のビーチには、気の毒な女性の『いくじなし~』という叫びがこだまするのだったが、しかしパンダ君は『僕には 波の音しか 聞こえない…』と、自分に言い聞かせるばかりだ。

…分析用語の≪超自我≫とは、『内面化されたオキテ』のようなものを言う。しかしジャック・ラカンとその系列は、それのふるまいについて、非合理性や『無分別さ』を強調している。前にも引用したかと思うが、J-D.ナシオいわく、『なによりも超自我は、見せかけ(semblant)の掟であって、無意識的で無分別な掟なのである』(「精神分析 7つのキーワード」, 訳・榎本譲, 1990, 新曜社, p.208)。
という、そのフレーズはどういう意味かということを、われらがパンダ君の大活躍は絵解きしてくれているのではなかろうか?

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