2010/04/12
荻野真「孔雀王」 - 貪瞋癡による身語意より生ずる所なり
参考リンク:Wikipedia「孔雀王」
4月11日・日曜日、親類の法事というつまらない用事で、鐘ヶ淵あたりまで出かけた。すると行った先のお寺が真言宗だったので、その祭事の進行に異色があったことには、家族一同で少々びっくりしたのだった。
異色というのは要するに、密教色があったということ。『では』と言っていきなりお経を詠み始めるようなものでなく、まずその前に取っ手つきの香炉をあっちからこっちに移動することをはじめに、坊さまが黙ったまんまでいろいろな儀式を執行するのだ。
うまくは説明できないが、金剛杵と金属の数珠をすりあわせて『しゃらら~ん』と、ウィンドチャイムのような音を出すとか。さらには祭壇に向かって『ぐっぐっぐぐっ』と印を結んでいるのだが、しかしその両手をふくさで隠して行っているので、予備知識なくば何がなんだかわからないところだ。
で、それに続いての読経を、参列者も参加で行わせるというというのは、このお寺さんの宗派の独自のところかもしれない。『○○山勤行式』と書かれたパンフをあらかじめいただいており、見ながらそれを詠めばいいんだけど。
『懺悔の文(さんげのもん)
我昔より造る所の 諸々の悪業は 皆無始の貪瞋癡による身語意より生ずる所なり
一切 我 今 懺悔したてまつる』
これはちょっと、ジャック・ラカンちっくなことが言われているな…とは誰でも思うようなところだ。特に、『無始の』とことわっている点にハッとさせられる。がしかし、似ているからといって同じに機能するのではないとあれば、さして意味がない。
『ラカン-と-密教』なんて切り口は、むかしもそうだがいまはいよいよ流行らない。と、そんなことを考えていたら、坊さんが真鍮のシンバルのようなものを『じゃーん、じゃじゃじゃーん、じゃじゃらーん』…と長く鳴らすことで、式次第は一段落したのだった。
『光明真言
おんあぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら
まに はんどま じんぱら はらはりたやうん』
という勤行式、約45分間。とま、そんなことがあって、≪金剛杵≫なんてアイテムをナマで見ることになるとは、ちょっとびっくり。そこで筆者がまんがっ子として思い出した作品が、密教バトルサスペンスの決定版こと荻野真「孔雀王」(1985)なのだったが。
そうしてこの「孔雀王」関連のシリーズが、現在にいたるも進行中なんだと思うけど。で、筆者的なその注目点は、ヒーローの≪孔雀クン≫がいまだに童貞らしい、という事実。
確かそのはず。かれこれ25年間も青年まんがの主人公をやっていて、孔雀クンてば、いまだ童貞。そのヒロインの少女≪阿修羅≫と、結ばれそうでぜんぜん結ばれない。
この2人はひじょうに好感がもてるキャラクターなので、きっと結末では幸せになってほしいなあ…などと筆者もふつうに思うけれど、しかしそういうものでもないかもしれない。さいご世界を救うために、この2人(のいずれか)が犠牲になるような、そんな結び方も考えられる。
でまあ気がつくことは、「孔雀王」シリーズが人間らのドロドロの欲望の闇を描くもの、『貪瞋癡による身語意』を描くものとしてスタートし、そしてバトル展開に転じてからもそのトーンは変わらないんだけど、しかしそのヒロインとヒーローの清潔さはキープされたままだ。
しかもその清潔さは、俗世間のPTA的な道徳を『逆に』転覆しているような激しいストイシズムによっており、そこが異様にカッコいい。筆者が孔雀クンにパンクロックを感じるのは、そういうところだ。現状ではシリーズの状況が不透明であるようなんだけど、いまだある種の期待をさせてくれるシリーズかと感じている。
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