2010/04/27

佐藤まさき「未来人間GOGOGO」 - セックス と 誕生 と、エロビデオテープ

佐藤まさき「未来人間GOGOGO」第1巻 
参考リンク:作者公式「未来人間GOGOGO」
関連記事:佐藤まさき「ボクら超常倶楽部です」

月刊少年チャンピオン掲載の、SFスペクタクル下ネタギャグまんが。詳細は不明だが2000~02年くらいに出ていたもので、少年チャンピオン・コミックス版は全7巻。
それがだいたいどういうお話かというところを、その第1話からご紹介すると…。

物語のヒーローは、近未来2042年の高校生≪五剛号(ごごう・ごー)≫。モヒカン刈りの頭に全身タイツを身につけて、さらにその上からブリーフをはいている…というおかしげな少年だが、これはどうやら未来のファッションらしい。
で、その号クンについて作者さまが言われるには、『性格はスケベでマヌケでケチで嘘つき…と、良い所ナッシング』。そのような号クンが、発明家の父の甘言につられて、≪タイム・ホール≫を通って過去へ行く、という実験のモルモットに。
すると、穴の向こうは1999年の日本の民家…とまで確認したところで、タイム・ホールの穴が小っちゃくなっちゃって、号クンは帰還不可能に! しかも、誰だか民家の住人が帰ってくるし。さあ、たいへん!

で、帰ってきたのはその家の長男の高校生≪佳司(けいじ)クン≫。何とかやりすごせないかと号クンが、部屋がうす暗いのをいいことに身をひそめていると。おもむろに佳司クンはいっきなし、学校で悪友に借りてきた無修正エロビデオを見始めるのだった。
そしてそっちが、だんだんと盛り上がってきて。ついに佳司クンが『えーと ティッシュ ティッシュ』…と言って手を伸ばすと、そのティッシュの箱の上で、手と手がふれあう(!)。
そこで佳司クンが顔を上げると、いつの間にかTVの手前の並ぶような位置に、彼の知らない少年(号クン)がいる。そしてこの見知らぬ少年のどうとも形容しがたい表情を、暗い部屋の中、ブラウン管の光が、横方向から照らし出している。

そして、その見知らぬ少年の2つの目、小さな目が、佳司クンを…ただ、見ているのだった。

その次の瞬間、佳司クンはびっくりして『うっ うわぁあ ああぁあ』と叫び、号クンもまた『しまったあぁ あぁあー!!!』と叫ぶ。
そこで号クンは『少し眠ってて もらうぜ!!』と言って、佳司クンをぶん殴る。がしかし、その次のシーンでは、逆にボコられた号クンが、ロープでギンギンに縛り上げられている。この2人、体格はそんなに変わらないンだが、なぜか佳司クンはケンカ無敗のつわ者、一方の号クンはぜんぜん非力で殴っても効かぬ…とは、今作の一貫した基本設定なのだった。

ていうところで民家の住人ら、この滝原家の主人で男やもめの父と、佳司クンの妹の中学生≪しほ≫が集まってきて、ドロボーかと考えられた号クンの処置を相談する。そこへ号クンの父が、異様に狭くなっちゃったホールからやっと顔だけを出して、自分らの事情を説明し始めるのだった。
どうにか話が通じたところで、五剛パパは滝原父に、『マシンが 直るまで 号を預かって くれませんか』と、超むしのいいことを言い出す。という相談の後ろで号クンは、しほがかわいいのでいっきなしちょっかいを出し、『手相を見てあげるよ』、などと言っている。そんな未来でもナンパの初歩テクは、いっこうに変わらぬらしい。

そんなありさまを見て滝原家のメンズは、号クンを預かるのは『イヤです』と、すなおに答えるのだったが。そこで五剛パパは、父2人のタイマンで、『大人同士の話し合い』、というものを申し入れる。
そして言うには見返りとして、未来テクノロジーの産物≪バーチャルエロ1919≫というエロビデオの超進化形、それを提供するのでどうか、と。すると滝原父は、『何かと思えば 私をエログッズで 釣ろうという わけか…』と言って、フッと鼻先で笑う。

かくて、『大人同士の話し合い』が美しく合意に達したので(!)、滝原父は佳司クンの部屋をさして号クンに、『今日からここは キミの部屋だ』と言うのだった(!)。すると、とうぜん佳司クンは面白くなくて不満たらたらだが、かくてわれらがヒーローたる号クンの、現代における生活が始まったのだ…ッ!(第1巻, p.5-35, 『第1次中間報告』)

…というのが、今作の第1話のあらましなのだったが。このお話には、表面的におかしいところは、別にそんなにはない。『戯画的』という意味でのおかしさはありつつも。だがしかし、何かおかしいことを付随的に語っていそうな気がする。

そのおかしいこととは、『誕生』という現象にかかわる≪外傷的≫なストーリーだ。

まずいっきなし、問題の≪タイム・ホール≫は一方通行で戻れない…これが、『産道』というものを思わせる。というところで状況をチェキると、この穴をはさんで結ばれた両家には、いずれも母がいない。追って滝原母は若くして死んだことが知られるが、五剛ママの消息はまったく分からない。
で、びっくりなことにタイム・ホールという穴が、両家における≪母≫の機能を果たすのだ。その穴はまず号クンというムスコを過去の側に『産み』出し、追って第2巻の巻末では、佳司クンというムスコを未来の側に『産み』出す。そのたびに『産道』は半ば閉じてしまうので、佳司クンもかんたんには現在に戻れない。

そうだとすれば、≪エロビデオ≫などという話題が第1話に2回も出ていること、その意味もまたおのずと知れる。まず、佳司クンがそれを見て何かにはげんだことが…その想像上の≪性交≫がその場へと、号クンを≪象徴的≫に、『産み出して』しまったのだ。
そしてその、『産まれてしまったもの』としての号クンは、≪何≫とも言いがたきふしぎな存在として、佳司クンを見る。そのまなざしの≪外傷性≫に耐ええずして佳司クンは、『うっ うわぁあ ああぁあ』と叫ぶのだ。

逆から見ても同じこと、とも言えて。その場面で号クンが佳司クンを見るまなざし、どうとも言いがたい目つき。それ自体が、何か異形のものの『誕生』を見てしまった…そのような目つきでもあるのだった。
いやなことばで『穴兄弟』なんて言い方があるが、このように同じエロビデオを見て同時にはげんでしまった2人は、互いを異形なる『兄弟』として、互いに産み出してしまったようなのだった(…ちなみに、このWヒーロー2人はタメ年)。

またその一方、滝原父は号クンについて当初、『こんなムスコもどきは超いらねェ』と、その意思がはっきりしてたわけだが。しかし≪バーチャルエロ1919≫という擬似性交マシーンの提供を受けたことと引きかえに、彼をムスコ同然の存在として受け容れる。その家を、『自分の家だと思って』…とまで彼に言う(第1巻, p.34)。
つまり滝原父は、擬似にしろ性交の結果として、≪享楽≫の結果として、出てきちゃったムスコが号クンだとみなし、それは責任をもって受け容れる…という、オトナの態度をとっているのだ。さすが2児の父ともなれば、『誕生』というイベントの≪外傷性≫にも慣れたもので(?)、そうはうろたえもせぬのが佳司クンとの差か。

なお、ずいぶん後のお話だが、未来へ行った佳司クンが現代に戻るため、タイム・ホールを修理せねばならなかったのだが。その材料を求めてのドタバタの最中にも『エロビデオ』というブツが登場し、敵のボスはそれを失くすまいとして死ぬ(第4巻, p.18)。さらにまた、金満キャラクター≪金丸君≫の登場シーンを華やかに描け…という金丸家からの要請を呑む代わりに、作者はわいろとして、大量のエロビデオを受け取る(第4巻, p.76)。

…するとだ。こんなんでは今作「未来人間GOGOGO」は、ヒトが『出る』という現象のたびに作中でエロビデオが機能する、そのようなきわめてふしぎなことを描いてる作品だ、と申さざるをえぬ(!)。つても、そんなにはふしぎではない…と、筆者は申しつつ。

ところでさいしょに、号クンの頭がモヒカン刈り、ということはお伝えしたが。その彼の顔をまっ正面から見ると、そのモヒカンの先端部は『▼』というかたち、逆三角形の茂みになっている。これはようするに、どう考えても≪恥毛≫というものがそこで表されている。

『おお、あの三筋の道……かくされた深い谷間……ひと叢(むら)の薮(やぶ)の茂み……道はせばまって、三つの道が一つに合わさるところ……』
(ソポクレス「オイディプス王」, 訳・藤沢令夫, 1999改版, 岩波文庫, p.123)

それがわりと男性のよりは、女性の恥毛に見えるかなあ…とは思いつつ、しかしそれはどっちでもよい。ギャグまんがのキャラクターには、『ペニス面』・『チンポ頭』、などと形容されちゃう人相、という人らがわりといるが、号クンもまたそれということ。
つまりそのヒト自体が、≪ファルスのシニフィアン≫なのだ(ラカン用語で≪ファルス≫とは『象徴化されたペニス』、≪シニフィアン≫は、『意味ありげだが意味不明な記号』)。それに並行するものとして、五剛パパの眼帯や、女装趣味の校長先生の頭頂部の1束の毛髪らもまた、≪ファルスのシニフィアン≫でありつつ。

で、そのようなふうに始まった今作は、彼らのロウな学園生活や、時空をまたにかけての冒険とかを描いていく。作品としては何せその、作画面でのがんばりがすごい! アクション的でスペクタクル的な描写もすごいが、号クンの百面相もすごい。決してあまりハンサムではないオトコの、≪何≫とも言えない表情を、超リアルに微細に描く…そんなことをがんばってる作品を、他にはあんまし知らない(…この方向性にやや近いのは、古谷実「稲中」か)。
そして、ともかくも読んで愉しい作品だとは思うのだが。…しかし作画面以外への感じを、端的に申しちゃえば。ギャグ面がパンチ不足でストーリー面はやや散漫、かなあ…という気が(!)。

まず後者について申すと、Wヒーローの関係性がさいごまで明確にならない、≪IQ200の天才未来少年≫という号クンの設定がほとんど生きていない、かといってスケベ方面でも彼が活躍しきれてない、かつWヒロインと佳司クンの三角関係ラヴコメ展開が、決着のつかぬまま終わってる…等々々、とはどうなんだろ? 
そしてそのストーリー面のおぼつかなさを、ギャグ面が不発気味なことが、また目立たせてしまうのだ。かんじんなギャグさえズビビッとキレてたなら、別にストーリーなんて、どうでもよくなっちゃうわけだし(!)。…等々と、ことばにすればずいぶんときびしい感じで、実はわりと好きな作品なのに。

そうして筆者的な読み方からすれば、佳司クンから見て号クンが、≪何≫であるのか…ということが最大の問題なのだ。つまりそれを、≪享楽≫をさし示す≪シニフィアン≫、と見たいわけだが。

なのに、佳司クンから見ての号クンのポジションがいまいちはっきりして来ないということは、佳司クンが≪享楽≫というもの、≪性交≫という行為、その帰結としてありうる『誕生』という現象…それらに対してもまた、態度をはっきりさせえない…ということなのだ。だから彼は、彼が思慕する≪未紗≫に対しても、彼を思慕する≪なな≫に対しても、はっきりとした態度に出られないのだ。
そういう意味で、佳司クンを中心とすればこのお話が、彼の友情も愛情も、両サイドで超ちゅうと半端に終わっていることには、ある種の必然性がある。かつまた、ネタバレっぽいことを書くのでご注意を願うが、そのさいごのエピソード『最終報告』。完全に未来へ還ったかと思ったら、また数ヵ月後に滝原家へと来襲した号クンが、すでに35歳で2児の父(!)。そして彼の意外とかしこそうな子どもらを、佳司クンに誇示する…というのが今作の結びになっていること(第7巻, p.184)、それにもまた、ある種の必然性がある。

すなわち。ひと足お先に号クンが、『誕生』という現象の≪外傷性≫を乗りこえ受け容れ、≪父≫として生きることをがんばっている。それを見て佳司クンもまた今後、そのような方向に向けてがんばり始めるのだろう。擬似的な性交と擬似的な誕生ではなくして、リアルの人的再生産を行うような方向へ。

なお、最終話のお話と言えば。タイム・ホールが完全に使用不可能になっちゃいそうなので、その前に号クンは還らなければ…というのが、その展開の始まりだが。そしてそれへのきっかけがまた、五剛パパが≪バーチャルエロ1919≫をへんに酷使したせいで…となっている。すると号クンは、お土産に過去のエロビデオを未来に持ち帰ろうとして、またひともんちゃくを起こす。
かくてしつこくも今作では、『エロビデオ』というアイテムが≪シニフィアン≫としてさし示す≪性交≫チックな行為らが、われわれが『産道』っぽいと見てるものを駆動し、そして『誕生』かのような現象らを起こすのだ。

また、その終盤での五剛パパの説明によると。過去へ来ているにしても号クンは、あくまでもその本来の時間のものであり。それがタイム・ホールを経由して、過去へニュ~ッと出っ張ってるだけらしい。ゆえにタイム・ホールが完全に閉じてしまったら、たいへんなことになり気味、という(第7巻, p.135)。するとこのヒーローは、そこまでず~っと、ヘソの緒がついたまんまで活躍していた…のようなコトになるかと(!)。≪エヴァンゲリオン≫かよッ!

それこれにより、申しては悪いが『散漫っぽいかなあ』とも見られた今作のストーリーだったが。しかしその結び方は、なかなかすじが通っている感じなのだった。

かつまたはっきりとは描かれてないが、佳司クンのラヴコメ方面も事実上はカタがつき気味で、彼は幼なじみの≪なな≫の方を選ぶだろう。
これは冒頭あたりから、びみょうに予告されていたことで。まずは天才らしき号クンの、ほぼ唯一の発明品たる≪ラヴセンサー≫で、佳司クンと未紗の相性は『-99%』、佳司クンとななでは『100%』、という数字が出ているし(第1巻, p.189。ただし佳司クンは、後者の数字を見てない)。だいたいWヒロインというも両者の扱いは決して同格でなく、ななは単行本のカバーを2回もソロで飾っているが(第4巻, 第6巻)、未紗にはそういうフィーチャーがない。

とまあ、『散漫』というなら筆者の方がよっぽど散漫に、長々と語ってきたが(すみません!)。そうして描かれた今作「未来人間GOGOGO」の、『SFスペクタクル下ネタギャグ』という方向性は、それを追った佐藤まさき先生の近作「超無気力戦隊ジャパファイブ」にて、より大きなものとして開花し結実するのだった…!



【おまけ・超余談】 今作の第4巻の巻末、6人のまんが家らが『ゲストコメント』をよせているところに、かのおおひなたごう先生が登場されている。そのコメントが、『佐藤くんは、どんどん絵が上手くなっているので感心する』…と、上から目線でしかも逃げた内容。
どうしてそんなにエラそうなモノ言いなのか…と感じたころの筆者は、ごう先生が意外に大ベテランだとは知っていなかった。またはっきり申すが、まんが作品をほめるとすれば、『面白い』ということば以外は意味がない。『絵が上手』などと言うごときは、『内容がつまらない』の言い換えにすぎぬ。しかしヒトとして、想ったことも正直に言えない場面はあろう。
で、それに対して佐藤センセが返してるコメントが、『実はこの作品のタイトルはおおひなた先生の名前から拝借しました』(第4巻, p.186)。これにはびっくりした…! ギャグまんがの題名と主人公の名に、とくべつ親しくもない先パイ作家の名前を流用したなんて、たぶんこの例だけだろう。なぜそのような『暴挙=快挙』があったのか…ッ!?

0 件のコメント:

コメントを投稿