2010/04/28
平野耕太「進め!! 聖学電脳研究部」 - 人のいやがるクソゲーを、何の因果か…!
参考リンク:Wikipedia「進め!! 聖学電脳研究部」
コンピューターゲームばかりをしているという高校の部活を描いた、まあいちおう『ギャグまんが』と呼べる作品。2003年の角川コミックス版(全1巻)しか手元にないのだが、実は初出が1997年の古い作。いちど20世紀に新声社から刊行されていて、そっちもわりと古書店では見るけれど、『それも押さえよう』とまではさすがに想わなかった。
ところで今作については、内容以前にいろいろと見る点がある。まずは文字要素が横組みで、左から右へ読む作品になっている。これもそうだがゲーム誌やパソコン誌に出たものを中心に、いまは横組みのまんがの本はけっこうある(今作は、『ファミ通PS』とかいうゲーム誌に掲載)。
けれど、かろうじてでも『作品』と言えそうな横組みのまんがは、これ以外に知らぬ(外国のものは除外し)。今作にしたって読みやすいとは決して言えないが、しかし『何かあるのでは?』…という思いでがんばって読んだ。
次に、今作の登場人物らの多くは、なぜだか名前が、東京・足立区の町名になっている。いきなし主人公が≪西新井くん≫であり、ヒロインは≪綾瀬ちゃん≫。それからわき役の女の子らが梅田と梅島、カタキ役が北千住高校の番長の竹ノ塚クン、と。そうして筆者も足立区の者なので、ここらはいちおう気になるところだが。
しかし主人公をさしおいて大活躍する電脳部のブチョーは、≪寺門クン≫…と、足立区には関係ない名前になっている。そうすると、むしろこのヒトだけが真の登場人物であり、≪キャラクター≫と呼べるだけのしろものはこいつ(および、追って登場するその一族)だけ、ということが逆に知れる。ちなみに今作を読んでも、うわさの足立区がどんなところなのかは分からない(はず)…惜しくも。
で。転校生の西新井くんが入部した電脳部と称するゲーム部のブチョー≪寺門クン≫が、とんでもないアナクロなクソゲーマニアだったのだ。しかもこいつは、『ゲームキャラ以外の女の子には興味が』ない(p.40)、と言い張って、彼をしたう梅田と梅島の猛アタックをだんこスルーしまくる奇人でもありつつ。
そして、なぜにそんなやつがいるのか…ということがふしぎかのようだが、実は大してふしぎじゃない。われらのブチョーは、ようするに≪ナルシスト≫なのだ…と言っておけば、だいたいすむ。
彼はかわいい自分のプライドを護るために、常人らのいやがる≪クソゲー≫と『超マニア設定』をタテに使っているのだ。あまりにも大きな愛を求めつつ、それがもし得られなかったらどうしよう…という不安をまぎらすため、あえてきらわれそうな変人を演じているのだ。で、そんなポーズを本人がやめたいと思っているのでなければ、特に≪問題≫は存在しない。
しかしこの1997年的な時代、筆者もまたゲームマニアの方々のわりと近くに生きていたので、なつかしい話題が出ている作品ではある。クソゲーのブーム(?)もそうだし、「FFVII」が成功しすぎでちょうしづいたスクウェア社とか、何が偉いのか分からないが大物ぶっていたWARP社の社長とか。それと第7話(p.51)で言及される『コスプレ・ダンス・パーティー』なんてことは、いまでもどこかでなされているのだろうか…(遠い目)。
また、ちょっとそういう点から見ると、今作のヒロインの綾瀬ちゃんが、メガネっ娘でゲーマーでコスプレイヤーで、しかもりっぱな≪腐女子≫だという設定なのだが…(もちろん、実作に『腐女子』とは書かれていない)。
しかしその設定が、後の展開で、死ぬほど生きてないッ。
そんなヒロイン像が1997年時点では目新しかったはずなので、ブチョーの偏奇なる生きざまの描写に固執するよりも、そっちから押した方がよくはなかったか? そうしたら、ちょっと前にヒットしたアフタヌーン誌の「げんしけん」みたくいけたのでは? しかしこの作者サマが死ぬほどのヒネクレ者らしいので、『死んでもそんな、媚びたコトは描かねェ!』という感じだったのでございましょうか?
つまりこの作者サマのアチチュードとして、『オタクカルチャー』なんてものを軽く肯定し賛美しちゃおう、というのがない。そんな軽いもんじゃないんだということが、ひねくれたクソゲー賛美によって描かれている気配。しかし筆者の見るところ、「げんしけん」的なオタクさんらの無反省なナルシズムと、クソゲー求道者たちのナルシズムと、まあまあ五分の勝負じゃないかな…という気もしつつ。
次のようなことを言っててもしょうがない気がするが、面白くもないクソゲーに没頭している方々が現在もおられるなら、『自分がそこに何を求めているのか?』を、いちど考えてみてもよさそう。たぶんその行為によって、『そこまでもゲームを愛している自分』を確認したいのかなあ、とは考えつつ。
それが『何の意味もないストイシズム』であることは、まったく疑いえないが。けれどもそれが、少数の仲間の中では『1つのもの』と見られているなら、『それもありか』と考えざるをえない。
ここらにおいて、人を愛さないが人々にしたわれているわれらの寺門クンは、選ばれたごく少数の幸せ者だ、ということが知れてくるのだった。そのような1つの幸福を描いているということが、ひじょうにささやかな創作である今作「進め!! 聖学電脳研究部」を、わりと忘れがたい作品にしているポイントなのだろうか?
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