2010/03/10

氏家ト全「妹は思春期」 - オレはアナーキーという手段を使う

氏家ト全「妹は思春期」第8巻 
参考リンク:Wikipedia「妹は思春期」
関連記事:西川魯介「あぶない! 図書委員長!」

関連記事で出かかった『フェティシズム論』を、丸っきり放置するのもどうかと考えた、責任感にあふれる筆者(!?)。そこでこの場は、氏家ト全「妹は思春期」で『メガネっ娘』が話題になったところを扱った旧稿を再掲して、お茶をにごしてやろうかい、と愚考いたす。
いちおう説明しておくと「妹は思春期」は、氏家ト全(うじいえ・とぜん)の2001年のデビュー作ともなる4コマ・シリーズ(KCヤンマガ, 全10巻)。超かんたんにその概略を申しておけば、むっつりスケベの兄と妹がお互いを無意味に挑撥しあうような関係を軸として、周りの人間らがまたそこにへんにからんでくる、的な。では、どうぞ。



 『Looking Through the Eyeglasses - いないいない/バァ』 (2006/12/15)

時間つぶしに書店へ寄ったら、いつの間にか氏家ト全「妹は思春期」の第8巻が出ていたので買い求めた(発売日・12/6)。
で、読んでみて。その内容は相変わらずだ、と言えばそうだけど…。だがその中の1つのネタから、少々の話をば。

 ―― 氏家ト全「妹は思春期」, 第196回・『メガネの効果』(第8巻, p.86)より ――
ヒロインらの親友で常人の≪アキ≫が、珍しくおシャレとして、だてメガネをかけている。変態少女の≪マナカ≫が、そこへ問いかける。
『それでアキさんは どの路線で いくんですか』
『え?』
『私のデータを 参考にしてください』
そしてマナカが示した円グラフは『メガネっ娘といえば』と題され、面積が多い順に、優等生・ドジっ子・おっとり・天然・お色気・M・その他…と色分けされている。
それを見てアキいわく、『私は 自分というものを 大切にしたい』。

『データ』って言うけど、どこから出たデータだよ…。と、オレまでがつっこんでも仕方がない。まったくしょうがない。そうじゃなく、これを見て気づいたのは。
マナカの示してくれた貴重な『データ』によっても(!?)、問題の≪メガネっ娘≫という記号には何ら実定的な意味がなく、そして時には、相反するものらを平気で同時にさし示している…という事実だ。ちなみに作中で時たま『メガネっコ』を自称している≪小宮山先生≫25歳にしても、ぜんぜんおっとりしてないし、しかも自ら『S』だと広言しているし。
しかしそうかといって、女の子の顔の上の≪メガネの有無≫に何の意味もないとはとても思われず、『きっと“何か”の指標であるにチガイない!』と、ある種の人々がそれを想定してやまないのだ。

よって≪メガネ(っ娘)≫とは、『意味ありげだが意味不明で、みょうに気になる記号』…すなわち、≪ラカンの理論≫に言われる≪シニフィアン≫に他ならない(←まいど“こんなこと”ばっかし言ってるが、意外とあきないもんだ…自分では)。
そういえば。いつも筆者は、『源初のシニフィアンとしての≪ファルス≫は、≪享楽の禁止≫と≪享楽の強制≫とを、平気で同時にさし示す』…などと申し上げながら実は、『それホントかよッ!?』と自分で疑ってるとこがあるのだが(!)。しかしこうして人間らの記号活動は、『たかが“意味”ごとき』に関する矛盾撞着なんざ気にしちゃいない、という事実が確認される。
(ご説明、≪ファルス≫とは『象徴化されたペニス』と言い換えられうるもの)

そしてそのシニフィアンとしての≪メガネ≫への1つの読みを示すと、それは『勤勉』と『失敗』とを、同時にさし示しているように思う。それの呼び出すイメージとして、『勉強か何かにつとめすぎたあまり、視力の維持には失敗した』のような感じがあるからだ。それによって≪メガネっ娘≫の2大路線、『優等生(-勤勉)』と『ドジっ子(-失敗)』と、がある。

ところで。こうして『≪メガネ(っ娘)≫とは、1つの≪シニフィアン≫に他ならない』などというが、また一方で。それを熱烈に追い求めている方々にとってそれは、≪フェティッシュ≫(物神, 呪物)にも他ならない。
われらが見ている「妹は思春期」作中にもしばしば『フェチ』という略語が出ているが、これまた根深いことばだ…。もとはといえば民族学や宗教学の方の用語だろうけれど、それをマルクス様が流用(アプロプリエート)したもので…。

 ―― マルクス「資本論」(1867), 『1-1-1-4 商品の物神的性格とその秘密』より ――
『(経済社会で諸商品らの織りなす諸関係は…)それは人々そのものの一定の社会的関係に他ならぬのであって、この関係がここでは、人々の眼には物と物との関係という幻想的形態をとるのである。だから、類例を見出すためには、吾々は宗教的世界の妄想境に逃避しなければならぬ』
(中略、そうした妄想わーるどの“想像”的産物らがそなえる、見せかけの生命力や幻想的な自立性などを見た上で…)
『これを私は、労働諸生産物が諸商品として生産されるや否やそれらに纏(まと)いつくところの(中略)、物神崇拝と名づける』(出典は文末に)

とはとうぜん、断固だんぜん憶えておかねばならないことだ。もしも万がいち、このマルクス様の偉大にして空前の理論的達成がなかったとしたら、われらを導く≪フロイト-ラカンの理論≫もヘッタクレもありゃしねンだぜェ~! いぇ~!!
だがしかしわれわれは、われわれの話の文脈へと、いまはたち還って…。

 ―― 「新版 精神分析事典」, 『フェティシズム』の項目の冒頭 ――
『完全な満足が、ある特定の対象つまりフェティッシュの存在およびその使用がなければ達成されえないような、性的欲望あるいはリビドーの特別な組織化。精神分析は、フェティッシュを母の欠けたペニスの代理、さらにはファルスのシニフィアンとして認めている』(シェママ他編, 訳・小出他, 2002, 弘文堂, p.418)

この用語解説をさらに読み進むと分かることだが、ここにも再び、『相反することらを平気で同時に』…さし示す記号作用がある。
異様に分かりやすい例(!?)を1つ挙げてみると、女性のショーツに特殊な興味を超HOTにいだく男がいたとする。その妄想わーるどの中でそれが、どれだけイキイキと幻想的に輝かしき存在であることか…なんてことは、あまりこっちは考えたくもないが。ともあれ彼の意図せざる真の目的は、『女性(ら)が“去勢”をこうむっている』という想念への、否定と肯定と…その両方だ。

さらにほんと言うと、彼は“去勢”を否定して済ませたいのだが、しかし『女性(ら)にはそれがない』と知ってもおり、その認識をも完全には排除しきれない。そこで、『否定(+肯定)』というどっちつかずの戦略に出るのだ。
そして≪ショーツ≫はその中に陰部を隠す『覆い』であるので、この目的を実現する。筆者がひとこと付け加えるなら、それを≪想像的≫に実現する。

 ―― 「新版 精神分析事典」, 『フェティシズム』の項目の結び ――
『フェティシズムは、現実の前に、現実を隠す覆いを広げるのであり、この覆いこそ、主体が最終的に過大評価しているものなのである(中略)。「何故、覆いは人間にとって、現実よりも価値があるのであろうか?」ラカンはこの問いを1958年に呈した。この問いは今も現代的意義を(後略)』(同書, p.421)

またもう1つ見ておくと≪フェティッシュ≫には、『覆い』ではなく『出っ張り』というタイプのものがある。フロイトはその超名著「性欲論3編」(1905)で、ゲーテ「ファウスト」第1部(1808)第7章から引用している…『とってくれ、彼女の胸のスカーフを わが愛の喜びの靴下どめを』。

へんなところに念入りな筆者は、上の引用個所を「ファウスト」全訳書にチェキってみた。何の関係もないことだが押井守「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」(1984)の冒頭すぎで、ハゲの校長がお説教に『かの文豪ゲェ~テいわく』、と言う場面を想い出しながら。そしてさらなる余談とすると、その校長の言った『苦悩を経て大いなる歓喜に』…ウンヌンとは、ゲーテじゃなくてシラーの詩句ではなかったかと…。
…あ、ともかく、該当個所は。それはお話の序盤、ファウストがマルガレーテにひと目ボレした直後、メフィストに向けて言うせりふで、『かの文豪ゲェ~テいわく』、

 『あれの胸からスカーフでも手に入れてくれ。
 くつ下どめでもいい、わしの愛の慰めのために』

とはまたこっちの訳文の方が、さらにナマっぽい感じだ…(訳・高橋健二, 1960, 世界文学全集 第2巻, 河出書房新社, p.81)。

そしてそのように女性(ら)の身体に接してそうびされた『出っ張り』らは、とうぜんのように(!?)≪ファルス≫をさし示すシニフィアンとして機能する。よってそっち系のフェティッシュにしても、さきの『覆い』系に見出された『“去勢”の否定(+肯定)』という意味作用は変わらない…と、見られているのだった。

そうすると、まとめて。話の起点の≪メガネ≫もそうだが、われらが見ている「妹は思春期」なる創作の中では、さまざまな≪フェティッシュ≫が数え上げられている。さしつかえない程度にそれらを列挙しとくと、下着・毛髪・体毛・エプロン・ブルセラ・水着・ナース服・ワイシャツ・レザーのように一般的なもの(!?)らから、そしてネコ耳(+シッポ)・メイド服・アホ毛(←おたく用語で、へんにハネている1束の毛髪)のように特殊っぽいものらまで。
ここですごくどうでもいいことを付け加えとくと、西洋の方の話にはよく聞かれる≪毛皮≫と≪クツ(ブーツ)≫というフェティッシュ界の2大ビッグスターの出てないことが、『ニッポンですねェ』…という感じだが、まあそれは別によくて。
そしてこれらの“すべて”が、われらの見てきた≪フェティッシュ≫の2大系列…『覆い』系か、『出っ張り』系か、またはその両方に属するものだとは、すでに賢明なる諸姉兄のご理解のことかと。
そしてそれらの意味するところを、われわれは知った。

(2010年現在の補足。ここまでを見ておくと、「妹は思春期」の作例で、『メガネ=お色気』という解釈が出ている理由も分かってくる。それは≪ファルス≫のシニフィアンなので、人々に≪享楽≫の強制と禁止とを同時に示唆する。『メガネ』とあるところを、毛皮やブーツやブルセラや『ネコ耳』に変えても、また同じ。
かつまた、関連記事(こちら)の題材の「あぶない! 図書委員長!」p.114には、こういう見方が出ている。『メガネとは“見る意思”の具象化、すなわち“男性原理”。ゆえにそれを装着せる女子は、“完全なる存在”となる』。
“男性原理”などという用語は要らぬものだが、言われたような『完全なる存在』のイメージを、精神分析は≪ファリック・マザー, 男根的母親像≫と、まったくふつうに呼んでいる。すなわちそれは、「事典」に言われた『母の欠けたペニス』が補完された状態のイメージだ)

…というところで、ひとこと。思えば筆者もずいぶん長く生きてきたように思う(!?)が、だがしかし。言われたような話で、たとえば女の子のセーラー服の胸もとのスカーフが、何と≪ファルス≫をさし示すシニフィアンやも知れぬ…などと考えてみたことは、たぶん1度たりともなかった。別にあんまり気にしたこともないけど、どっちかといったら『カワイイ』と形容できるようなアイテムか、くらいにしか。
とはまた、ひじょうにうかつだった…(のかな…ッ!?)。

繰り返しになるが、かくてわれらが精神分析の主張として。別に『フェチ』ではなくともわれわれが、ふつうにカワイイとか女性らしいとか『萌える』とか(!?)、そういうふうに見ているアイテムらの多くは、『“去勢”の否定(+肯定)』という想念の遊びを≪想像的≫に実現するための、≪ファルス≫をさし示すシニフィアンとして機能するものに他ならぬ…というのだった。
すなわち別の例で、≪裸エプロン≫という趣向の1つの『フェチ』があったとして(…くだらない話が続いてて申し訳ない)。そこではその実現する1枚のベールの向こう側に、男子の持つような“それ”が、『あるような?/ないような?』、というイメージのたわむれが…。まるで(筆者の見るところ、)フロイト「快感原則の彼岸」(1920)で報告された、幼児の『いないいない/バァ』(fort-da)の独り遊びを再現するかのように(?)、エンジョイされている(!)との主張があるのだ。
そしていまそれを申し上げながら自分でびっくり仰天しているので、『オレもけっこう≪常人≫だな』…と考えることを、筆者にお許し願いたい。

…いやはやわれらの精神分析とは、何とまたすごい≪真理≫を言いたてるしろものだろうかッ!? いやむしろここでは、それがえぐり出してみせている、人間らによる記号活動のすさまじいアナーキーさにこそ感動しておくべきなのだろうか…ッ!? ここにてラカン様(ら)の主張にピタリとシンクロしつつ、また別のわれらが大ヒーローたるセックス・ピストルズいわく、『オレはアナーキーという手段を使う、欲しいものをゲットするために』。



旧稿の再掲、終わり。見直してみて思ったのだが、約4年も前に書いた堕文といまの自分の頭の中身が、あまり変わらない…これは『逆に』ショックだ。
変わっているのは、当時はやたらとカタカナが多いふざけた文章を書いていたのを、近ごろもう少しノーマルな二ホン語にした、それだけだ。いま見ると恥ずかしいので、そこらはだいたい直しているけれど。

とはいえいま思うのは、作例の中でアキが『私は 自分というものを 大切にしたい』と言ってオチになっているが。しかし、そこで言われた≪自分≫なんて、『あるもの』ではないということだ。むしろ人から見えているところの自分こそが≪自分≫なので、われわれはそのギャップに傷つきながら生きるしかない。
そしてじっさいに作中のアキもまた、うかつに『萌えキャラ』を演じてしまったことで傷ついているのだ。そこまでがひそやかに描かれていてこその『外傷的ギャグまんが』であり、そしてそうでこそ氏家ト全「妹は思春期」が、世紀の変わりめを画する大傑作なのだ。



補足。文中の「資本論」の引用は、マルクス「資本論 経済学批判」, 訳・長谷部文雄, 1954, 青木書店, 第1部・上冊, p.172-3より。ふりがなと改行は引用者、“旧字”は新字に置き換え。

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