2010/03/09

西川魯介「あぶない! 図書委員長!」 - その有する、ささやかな『うそじゃなさ』

 
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前記事に続き、もうどうせなので、西川魯介先生のご本を連発で。この「あぶない! 図書委員長!」は、表題シリーズに「ディオプトリッシュ!」という連作をあわせた短編集(2008, ジェッツ・コミックス, 全1巻)。どっちも要するに『フェチ+うんちく』がばくはつしている魯介先生ワールドがみっちりとあれしているお作品であってまちがいない。

さて「図書委員長!」の最初のエピソードに、『シャケの会』というまったくよく分からない、学校内の秘密結社が登場する。なぞだと思っているままに読み終えてしまったが、あとがきあたりをながめてみたら、これは『盾の会』をもじったものであるのだとか(!)。
それは分からないよなあ…。知らないけどそれ、三島由紀夫が晩年に組織していた、へなちょこな右翼団体でしょ?
そして、そうだと聞いてみたところで、それならば『シャケの会』の奇行がふにおちてくる、ということがいっこうに『ない』。別に調べてないけれど、『盾の会』とメガネ愛好とは何ンの関係もないような気がするし。
なんというなんぎな、これはおまんが作品であろうか。この独創的なすべり方が面白い、という風にこれは読むべきものなのだろうか?

もうひとつ申しておくと、「図書委員長!」第4話のサブタイトルが『乙女はその思春期たちによって裸にされて、さえも』という。作者解題によればその元ネタは、『マルセル・デュシャンの「花嫁はその独裁者たちに裸にされて、さえも」』、だとか。
しかし一般的な理解では、そのデュシャンの作品の題名は、「彼女の“独身者”たちによって裸にされた花嫁、さえも」(1915-未完成)だ。語順の入れ換わりはどうでもいいけど、“独身者”を『独裁者』などとまちがったのは、魯介先生のヒトラー崇拝が高じすぎたがゆえの≪症候≫なのだろうか?
それが印刷所での誤植だったとしても別に同じことなので、つまり筆者が申すのは、魯介先生のお作に関しては、『仕込んでいるところよりも、すべり方や素ボケの方が(まだしも)面白い』。そしてその作品らの仕掛けていること、その≪意味≫がぜんぜん分からないことはないが、でもそこらは大いにスルーしたいなあ…と思うのだった。

がしかし筆者が「図書委員長!」で『はっ』とさせられたのは、作中のメガネで巨乳でメイド服着用の図書委員長が、何と生きた虚構でしかない。すなわちそのメガネは伊達めがねであり、巨乳は作中の用語で『だてちち』であり、メイド服にしたって演出のために着ているだけだ。
それは要するにコスプレ、見せかけ、擬態にすぎないのだが、しかし『それでよし』という見方が魯介先生のお作に出ていることに、ちょっと『はっ』とさせられた。そういう割り切り方ができるとは、『逆に』予想していなかった。
ところで世間を眺めてみると、単なる『美少女』に喰いつかない人が『コスプレ美少女』と言えば喰いつく、という現象は、あることかと思われる。フェチ者にとってはどちらかといえばフェティッシュの方が目的なので、『中身よりもパンツの方に興味がある』とでも言い切れればホンモノだ。

 ―― はいぼく『西川魯介作品に見る倫理問題 -「人格」と「属性」の間』より ――
『「萌え」を超えて「愛」を追究する西川の姿勢は、人間を「感覚の束」と断じて「人格」の存在を否定したイギリス経験論に対して「人格」の唯一性と至高性の復権を主張したドイツ観念論、特にカントの立場と通じている』(本書解説文, p.158)

筆者には哲学ってまったく分からないのだが、いちおうこの主張は受け取っておいて。『萌え』というものが愛の一種ではなくて、また別のものだ、と明らかにしているところに、その論の鋭さを見て。
がしかし、ではどうして西川作品では『属性』が、フェティシズムが、否定的媒介(?)として『必ず』起用されているのか、ということは考える必要ありげ。
ただ単にきれいな『愛』を描くようなまんが、といったら少女まんがでも見ていればよさそうなわけで、そうじゃない俗悪きわまる西川作品が、なぜそこにあるのか? そもそもはいぼく氏の論調だと西川作品は、フェティシズム(萌え)を超越して崇高なる愛にいたるようなものだという感じだが、しかし筆者にはそうは見えていない。
フェチ(萌え)もあるなら愛もある、と、そこでは2つのものの並置がなされているにすぎない。ところが西川作品のその点にこそ、一片のささやかな『うそじゃなさ』が存在するのだ。

そうしてはいぼく氏の論に欠けている考察は、『どうして(一部の)人々はフェティシズムなどという症候をきたすのか? なぜにフェティッシュらは魅惑的なのか、それは≪何≫なのか?』…という問いかけなのでは? それが『フェティッシュらは魅惑的である』ということをとうぜんの前提とした論になっているのは、氏もまた『メガネっ娘研究者』のフェチ人間だそうなので、しょうがないところなのだろうか。
そして『フェティシズムとは何か?』という問いかけに正しく答えうるものは、われらが奉ずるフロイト-ラカンの正しい分析理論以外にない。それは確かだが、しかし何となく、この場面で『それはこうこうで』…と、説明する気にはならないのだった。なにしろ筆者は、魯介先生がまともに投げてくるボールは見逃す主義なのだった(!)。

【追記】 さいごのところの問題『フェティシズム論』には、続いた記事の『氏家ト全「妹は思春期」 - オレはアナーキーという手段を使う』(*)においてふれている。

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