2010/02/11
草場道輝「ファンタジスタ」 - 2010日本代表へのメッセージ!
参考リンク:Wikipedia「ファンタジスタ」
これは少年サンデーのサッカーまんがとして、以前ご紹介の「俺たちのフィールド」に続き、1999年から2004年に掲載されていたもの(少年サンデーコミックス, 全25巻)。その特徴の1つとして、『姉が弟をコーチする』という「リングにかけろ」(車田正美の崇高きわまるボクシングまんが)みたいな要素がちょっと気にかかったのだが、しかしそこで大して発展しているわけでもないのが残念…という読後感があった。
あと思うんだけどサッカーまんがについて、その題名に使えるサッカー用語が、だんだんと『残り少なく』なっている。かって『イレブン』、『シュート』、『キックオフ』、『フィールド』などの、体育の教科書にも載っているような用語らがフレッシュだった時代は牧歌的だったのに(!?)。
だんだんとそのような用語が使いにくくなってきたのか、わりと近年の作品らでは、2極分化現象がある感じ。まず一方では、「ホイッスル!」とか「エリアの騎士」とか、題名だけ見てはサッカーまんがとは分からない。
ホイッスルはバレーのお話かも知れないし、エリアと言ってもパーキングかも知れないし。そしてその一方では、「GIANT KILLING」や今作「ファンタジスタ」のように、わりと専門的かつ『時代的』なサッカー用語が使われている。
そうして今作の題名の「ファンタジスタ」とは、ピッチの上にファンタジーを描く選手というほめ言葉だが。具体的には長い長~いロングシュートをきめるとか、深~い位置からドリブル突破して1人でゴールまで行っちゃうとか、そういう個人技がミラクル級にすごい選手(ら)を言うのだが…。
けれどそのような概念は、さいしょからノスタルジックなものとして言い出されているような気がするのだった。どうしてって現代サッカーの戦術の歴史には、『個人プレー→組織プレー』および『テクニック重視→フィジカル重視』以外の流れが、基本的には『ない』。
そこで「ファンタジスタ」の主人公もまた、ある段階では『ファンタジスタ!』と言われてほめられるのだが、その次の段階からは同じ語が、ほぼ皮肉でしか言われなくなってしまうのだった。競技のレベルが上がるほどに、ファンタジスタらはファンタジーを描きにくくなってゆく。これはわれわれサッカーファンが、現実に見ていることだ。
けれども。システムはひじょうに大事でありながら、システム一辺倒のサッカーはひじょうに硬直的で、あまりにもめったに点が入らない、つまらないものになってゆく。
つまらないうんぬんは別にしても。だいたいサッカーは必ず『守りが基本』なので、そうして同じレベルのチームらがシステム重視で守りあったなら、スコアレスドローに終わるのが『基本』になってしまう。
そしてそのような状況でも何とかしてゴールをあげるには、この競技レベルの上がりきったところで、再び『ファンタジー』が描かれねばならない。ふつうは見えないようなスペースを見つつ、ふつうは来ないようなパスを想定してプレーしなければならない。『あえて』のプレーを、成功させねばならない。じっさいに現在、最高レベルでの試合における得点シーンが、ありえない軽わざやテレパシーの実在を思わせる超連携プレーになっていることは、皆さまもご存じの通りだし。
そしてシステム重視でフィジカル重視のごりごりと押しあうような現代サッカーにおいても、個人技の必要がないということはまったくない。それは、重要きわまる『基本への基本』でありつつ。そして、年々ぶ厚くなっているシステムの壁、それをこじ開けるだけのものすごい個人技は、むしろひじょうに待望されてやまないものなのだ。
といったようなことが、草場道輝「ファンタジスタ」には描かれているかとみて。『否定の否定』を介しながらその結末までに、再びの『ファンタジスタ礼賛』がなされているとみて。
それが筆者には、いま現在(2010年2月)の日本代表チームが、格上とも言いがたいベネズエラと中国を相手に、2試合連続のスコアレスドローを演じて大いに非難されている…という状況へと、わりかしきれいに重なり合って見えるのだった。
で、この堕文は、それらに続いた香港戦をTV観戦しながら書かれているのだが。現状では日本代表が2-0で勝っているけれど、それは相手が超格下なのでともかく(…結果、凡戦として3-0で日本代表が勝利)。
そんなにレベルが変わらなければスコアレスドローに終わるのはサッカーの必然なので、そこを『つまらない!』と責めるのも、あまりサッカー的な言説ではないように思われる。むしろ点を取られていない、というところをほめるべきかも。というのも、この6月のW杯南ア大会で日本代表が少しでも勝ち点を獲るには、このような渋い闘い方こそが適切かと思えるので。
しかしそうではあっても、『点を獲って勝つ』ということのためには、再びの『ファンタジーの実現』が必要ということ。それをこの「ファンタジスタ」という作品が、いま現在のサッカー界へ、そして日本代表チームへと、再び語りかけているように思うのだった。
【付記】 これに関しては本が手元にない状態で書いているので、あまり作品の生はだに触れるような文章にはなっていないことを、皆さまにおわびいたす。
もう1つ今作への感想を付け加えておくと、サッカー『まんが』においてもあんまりなファンタジーが描かれにくくなっていった、そのような時代の作品だなあ…と筆者は、感じた。キーパーをネットまでブッ飛ばすような必殺シュートも出せないし、1人が3人分のプレーをこなすこともできない、そのようなリアリズムと、日本代表が結末で『あの』サッカー強国にオリンピックで勝つという大ファンタジーとの間に、無視しえぬ摩擦があるな、と。
このように、現実においてもまんがの世界でも、『ファンタジスタ』という語が用いられることは、逆に『ファンタジーの衰退』を前提としつつ、その復活を願うことなのだった。
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