2010/02/04
ツジトモ「GIANT KILLING」 vs.村枝賢一「俺たちのフィールド」
参考リンク:「モーニング」公式 「GIANT KILLING」作品情報, Wikipedia「俺たちのフィールド」
以下の堕文は、いま現在のサッカーまんがである「GIANT KILLING(ジャイアント・キリング)」の現在性を明らかにしようとし、そしてそのための参考として、先行作の「俺たちのフィールド」を参照している。よって『「GIANT KILLING」 vs.「俺たちのフィールド」』と表題にはあるけれど、両作の扱いはそれほど対等・平等ではない。かつ、『両者の勝負をつけよう』という意味も別にない(はずだ)。以上、おことわり。
ではまず、「GIANT KILLING」について。それは東京下町の弱小サッカークラブを超独断的に指揮して、若干35歳でひねくれ者のコーチ≪達海猛≫が、チーム内外で暴れまくる勇姿を描く作品だ(2007-, モーニング連載中)。そしてその画面を一見して目立っている作画上の特徴は、ひじょうに“誰も”の頭髪がハネている。
近ごろの用語で『アホ毛』というものなのかどうなのか、ヒーローの達海の毛が盛大に逆立っているのを筆頭に、それに負けじと(?)脇役の選手らもおっさんらもガキたちも、みんなその毛がハネている。さらにはいちおうヒロインらしきクラブ広報の女性までも、まったくもってその毛がハネている。
ハネてないのはただ1人、坊主頭の選手だけ…とまで言っては、少々うそになり気味だが。ともあれひじょうに目立っていることとして、「GIANT KILLING」作中で人々の頭髪は、むやみにハネているのだ。
で、この『やたら毛がハネている』という特徴は≪何≫か? …といったらとりあえず、その画面から受ける印象の、『垂直方向の力強さ』に寄与している、とは言える。これを書いている時点で「GIANT KILLING」は第13巻(モーニングKC)まで既刊だが、可能ならばその表紙らを並べて見ていただきたい。すると筆者の申している、その画面の『垂直方向の力強さ』とやらが、おそらく見てとれるのではと。
『垂直方向の力強さ』という語が出たところで、今作の題名をなす『ジャイアント・キリング』について。これはサッカーにおける下克上、『大物喰い』ということを表す語であり、そしてわれらのヒーローが、弱小クラブのコーチとして目指していることだ。すなわち『ジャイアント・キリング』をなそうとしている彼らに『垂直方向の力強さ』はぜったいに必要なものなので、ここには作品のテーマ性と画面構成とのみごとな一致がある。
とまで述べてから思い出したのが、Jリーグ誕生期のサッカーまんが、村枝賢一「俺たちのフィールド」(1992-98, 少年サンデー)だ。こちらの作品は「GIANT KILLING」とは異なり、サッカーという活動を『垂直方向の運動』と見ているようなふしが、あまりない。何せ『俺たちの“フィールド”』というくらいなので、縦よりも横の拡がりの中での、水平の運動が描かれているな、という印象を受けた。
比較のためにと「俺たちのフィールド」(略称・俺フィー)の話を続ければ、そのヒーローの特徴として、『横の動きがひじょうに軽快』、というところが見られる。それは、ただ単にピッチ上で脚が速い、というだけの意味ではない。
では、どういうところを申しているかというと。まずストーリーの序盤、ある事情で何年間もサッカーから離れていた後に、ふと思い立って彼は、自分の高校のサッカー部に入る。そのサッカー部は、『あとひとつ勝てば“全国”』というところまで予選を勝ち抜いているのだが、そこへ彼はふらりと入っていって、あっさりとそのレギュラーになるのだ。
それから『全国』の優勝を勝ちとった主人公は、またまたふらりと学校をやめて、アルゼンチンの一流クラブの『四軍』で修行を始める。そしてやっとその一軍に上がったと思ったら、またまたふらりと彼は日本へ戻り、とあるクラブに加入して、そのJリーグ昇格に貢献する。そうすると彼は、代表監督の編成した秘密チームに召集され、そしてまたまたふらりとヨーロッパ各地で修行の旅を続けることになり、その間は大胆にも所属クラブを『無断欠勤』(?)としゃれ込む。そして、またまたふらりと…!
ことほどさように「俺フィー」の主人公は、『横の動きがひじょうに軽快』。いやどちらかというと、あまりにもそれが軽快すぎるような感じ…かと申しているのだ。
またはこのヒーロー≪高杉和也≫について、『まるで、“サッカー遊牧民”』ということばを捧げたいような気もする。彼は常にひたむきに向上心をもってサッカーに取り組んでいる『まじめクン』ではありながら、しかし遊牧民ならぬわれわれ定住民の目には、その水平の動きが目まぐるしすぎるような感じがなくない。
かつまた。「俺フィー」の主人公はサッカーに対して、まるでそれが『個人競技』かのように取り組んでいる…という見方もできる。ここでサッカー世界の縦の構造に着目すると、日本で申せばJ1を頂点として、以下J2、JFL、地域リーグ…等々と、きわめて明確なピラミッド構造になっている。かつ1つのチームの中にさえも、レギュラーと控えとの上下関係がある。そうとすると下位から上位への『構造的な怨念』のようなものが、そこに生じないわけはない。
そしてその『構造的な怨念』をまっこうから肯定しているのが、すなわちうわさの『ジャイアント・キリング(=下克上)』という概念なのだ。これは本来ならば、アマチュアチームがトッププロに勝つくらいの、まれに見る大番狂わせを形容することばではありつつ(…ゆえに残念ながら、弱小といえどもトップリーグの監督である達海には、当面ほんとうの『ジャイアント・キリング』ができない)。
ところがその『ジャイアント・キリング』という概念ほど、「俺フィー」のヒーロー和也クンから縁遠いものはない。『サッカー界には縦のピラミッド構造があり、そしてそこには構造的な怨念が存在する』という事実が、あまりにも彼とは無関係すぎる。彼はアルゼンチンのクラブで四軍の一員として一軍との試合に臨むけれど、しかしそれにさいして、『自分らが“四軍”であることの屈辱を雪いでやる!』…などという気持ちは、もうとういだかない。
すなわち和也クンの『動き』は、実態としてはサッカー界のピラミッドを上昇している部分もありながら、しかし『構造』の中の上昇は彼の目指すところではない。さわやかにも彼は、サッカー界における自らの地位や位置など、まったく気にしていない。ゆえに、『下克上』はない。
そのような和也クンの『動き』の動機を、あえてことばで表現してみれば、『俺(個人)は、あいつ(個人)には、ぜったい負けたくない』…くらいなことになろうか。つまりはノーマルなライバル心ということだが、そしてそれをバネとして和也クンが自分(個人)を向上させていくことは、さいしょから大して構造的に描かれていない世界を、さらにさらに水平にフラットに、としていくのだ。
付言して「俺フィー」の初期、高校サッカーが描かれている部分は特に、『11人 vs.11人』の団体競技である≪サッカー≫というものを、まともには描けていない感じあり。いくら主人公だからといって、あっちのゴールからこっちのゴールまでをふつうにケアせねば…つまり1人で3~4人分くらいのプレーをこなさねば…とは、あまりにもなさそうなことだ。
だがまぁそれは、『まんがだから』と、いったん受けとって。しかしわれらの和也クンらが物語の終盤、代表チームでW杯の大舞台に出てまでも相変わらず、『1人ずつが2~3人分の動きをすればいい』とばかりの猛烈な作戦に出ることは? そしてその作戦が過酷すぎるあまり、早くもわずか前半30分過ぎに、選手の1人がオーバーワークで失神してしまう(!)。
それについては、申し訳ないがあまりにも猛烈すぎて、少々の失笑もありつつ。だがしかしそのような描写が意外に、『現代サッカーは(技術よりも)フィジカル重視』であり、『90分間フルに走れるならば勝てる』…とかいうこんにちのサッカー格言の先取りなのかなぁ…という気も、しないではないのだった。
それと、「俺フィー」のひじょうにきわだった特徴をもう1つ。その全34巻(少年サンデーコミックス)という大長編の中には、『サッカーのコーチ(監督)とは、いったい≪何≫をしている人なのか?』ということが、まったく描かれていない(!)。
うそのようだがそれは“ほぼ”、ほんとうのことだ。そこにおいて(言うまでもなく)、コーチを主人公としてサッカーを描く「GIANT KILLING」と「俺フィー」とは、あまりにも対照的すぎる作品になっている。
ただし、「GIANT KILLING」(略称・ジャイキリ)のような作品が“なかった”とすれば、「俺フィー」という作品の『きわだった特徴』などは、とりわけ目だたないことだったかも知れないのだ。ゆえにわれわれは、いまという時になってこそ「俺フィー」という作品を、その独自性において読むことができる…とも言いうる。
とまでを見てから、1つの『ぶっちゃけ』を敢行してしまえば。筆者は10年くらい前からサッカー観戦を趣味としている者なのだが、しかしその一方で『サッカーまんが』というものに対しては、ほとんど興味がなかったのだ。その約10年間を通じ、『紙に描かれた架空のサッカーよりも、現実のサッカーを見ている方が、ずっとエキサイティングだぜ!』…と感じてきた。
それがこのような堕文を書くようなことになっているのは、ひとえに「GIANT KILLING」という作品にふれたがゆえだ。そしてなぜ「ジャイキリ」が筆者の心にふれたかといえば、まずはそれが、『スタジアムに行くようなサッカーファン(特にクラブチームのサポーター)、そこから見てのサッカーを、かなりリアルに描いている』という、その特質による。そういう作品として、初めて筆者の目にふれたのが「ジャイキリ」だったのだ(…つまり筆者においては、実は「俺フィー」を後から読んでいる)。
「俺フィー」があくまでも1人の選手に着目しつつ≪サッカー≫を描いていることもまた、ありうる1つの方向性ではありながら。しかし現実のサッカーは、『選手・チーム・クラブ・ファン(サポーター)・上部組織(リーグや協会)・スポンサー・地域(自治体や国家)・メディア』…等々々々という、とほうもなく大きな拡がりの中でなされていることだ。そしてその巨大な拡がりは、公式および非公式のしがらみによって、そしてその中にうずまく正と負の強力な感情らによって、がんじがらめに構造化されている。
(ゆえに「俺フィー」の主人公のステップの異様なる軽さは、現実にはまったくありそうもない)
そして「ジャイキリ」は、そのようにうっとうしく構造化された現実のサッカー界を、しかと見ながら描かれた作品なのだ。しかも、そのうっとうしさを、単にそのまま描いているばかりではない。もはやおなじみの『ジャイアント・キリング』というキーワードの示すように、そのうっとうしい構造に風穴をブチ開けよう、少しでもその構造をゆるがし再構造化してやろう…という企図を、それは描く作品なのだ。
また、しがらみというならば「ジャイキリ」は、1つのチームのサポーター同士の間に『さえも』へんなしがらみがあることを、なかなかしつように描いている。なんともいたましいことだが、それまた筆者も見て知っているサッカー界の事実だ。そして今後の物語の中で、そのうっとうしい構造にもまた、『風穴』がブチ開けられていくのでは?
繰り返しになるが、言い直して。現にある1つの『構造』の中を、下から上へとはい上がろう、という運動があるばかりではない。加えてその『構造』自体に対するチャレンジが描かれていることこそが、「ジャイキリ」の新鮮さではないかと考える(…そして何度も言いすぎだが、「俺フィー」では、その『構造』の存在が度外視されている)。
かつそのチャレンジを行う≪主体≫は『正当にも』1つの(弱小きわまる)クラブチームと設定され、そしてそれの操舵手としてのコーチを、「ジャイキリ」は主人公に設定している。何が『正当』なのかといって、サッカーにおける闘いとは、つきつめれば『クラブ対クラブ』の闘いだということから、それを言う(…学生サッカーや代表サッカーの存在は、この世界の中のちっぽけな例外であるにすぎない)。
そして各クラブの意思を代表するものとしてのコーチらが、それぞれの戦術をもって試合を闘う。そして試合にて選手らは、それぞれのコーチの意図を実現すべくピッチ上を動く。≪サッカー≫とはそのようなものだとは、いくらボケッとしていても、10年間も見ていれば分からないわけにはいかない。
誤解を招きそうな気もするので補足すれば、『サッカーにおいて選手ごときはナッシング』、などとは申していない。かつ筆者も別に詳しくはないので『サッカーコーチ論』などはやれないが、しかしその役割はあきらかにひじょうに重要きわまるので、コーチがサッカーまんがの主役を張る資格は十分にある、ということ。そして、そのポジションをクローズアップしてこそ描けるものがありそう、ということ。
けれどもそれでは地味すぎか…と誰もが思うところを「ジャイキリ」は、立体的な構図を分かりやすく示しつつ、そしてその中に、破天荒で傍若無人なひねくれ者でがんこにして独創的で、かつ何よりも『反骨心』のかたまりのようなヒーロー≪達海≫を配し、興味あふれるドラマを作っているのだ。選手たちには次々と不可解なディレクションを示し、試合においては敵将のプランをかく乱し、どこに行っても彼がやろうとしているのは、固まりかけた『構造』に風穴を開けようとすることだ。
『何でも 思いどおりに いって 何が 楽しいよ
俺が 楽しいのは
俺の 頭ん中より スゲーことが 起こった時だよ』(「GIANT KILLING」第2巻, p.100)
そしてその予想以上のことを起こそうとして達海は、彼のおもむくところ“すべて”をぞんぶんに引っかき廻し、そして出くわした者ら“すべて”を激しく挑撥してやまないのだ。そして何度も申してしまうが、彼が『こと』をなすための最大の原動力として頼んでいるのが、『下に置かれたものの怨念』、すなわち『ジャイアント・キリング』のスピリットなのだ。
また、ちょっと別な見方もしてみよう。現実になされているサッカー競技の特徴として、(野球等に比べて)めったに点が入らないし、そしてむやみに引き分けが多い、ということはある。だから世間の人々は、サッカーをつまらないと思っている。かつサッカーに限らないがスポーツ観戦において、ごひいきのチームが負けては面白くない、ということもある。
そして、そのようなつまらなさをすなおに回避しながら、「俺フィー」という作品は描かれている。よって、その作中の試合ではみょうによく点が入るし(いちばんすごいのは第21巻、全盛期のヴェルディ川崎から大量7点を奪うエピソード!)。そしてそのヒーローである和也クンらは、大一番では必ず勝利する。
ところが、だ。筆者もそうだがサッカーファンという人々は、めったに点が入らず、しばしば試合が引き分けに終わり、しかもごひいきのチームがみょうによく負ける(!?)…そのような競技であるサッカーを、ひじょうに面白い、それに惹かれ続けてやまない、と感じているのだ。そしてどうしてそうなのか、というところを描いてくれているのが、他ならぬ「ジャイキリ」という作品なのだ。
そしてこのような作品が登場してそれなりの人気を博している理由は、多少とはいえわれわれのサッカー観が深まってきていることと、そしてその『ジャイアント・キリング』という一大モチーフが現在において刺激的かつタイムリーであること…この2つなのでは。加えてそこにはもちろんのこと、『キャラクターがいい』とか『作劇がいい』とかいった、まんがの長所として一般的なものらもありながら。
と、話はだいたいここらでつきているのだが。…ここまでの堕文にて「ジャイキリ」を、『リアリティあり、きわめて現在的な作品』とほめているのは、大いにいいとしても。
それに対する「俺フィー」について、『古色蒼然としてリアリティがない』、くらいなことを言っていないとは言えないが、しかしそれだけのものとも思っていない。じっさいに古いのだからそれを『古い』と申すのも同語反復にすぎず、しかも掲載誌の対象年齢が大きく異なるので、1990'sの少年誌のサッカーまんがとして「俺フィー」は、ひじょうに適切な作品だったと考えられる。でなければ、全34巻までも続いたわけがない。
それは『まんがっぽさ』において大いにすぐれる、とは述べておきたい気がする。特に筆者が感心したのは、ヒロインとヒーローのラブシーンが、大詰め中の大詰めのW杯の試合のハーフタイムに敢行されている(!)…というその大胆きわまる作劇だ。
何よりも少年誌の読者たちに対して、『きびしい格差とがんじがらめのしがらみで縛られたサッカー界』などというものを『お話の前提』として提出するのが、いいことかどうか。惜しくも現実にはありえぬ自由でしがらみなきサッカーを描いた「俺たちのフィールド」もまた、1つの愛すべき作品に他ならない…とは述べて、この堕文を終わりたい。
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