2010/03/15

ながいけん「神聖モテモテ王国」 - 体は疲れているのに妙に脳が

ながいけん
「神聖モテモテ王国」
 
参考リンク:Wikipedia「神聖モテモテ王国」

たったいま調べてみたらこの「神聖モテモテ王国」は、完結はしていない作品だそうで。1996年から2000年まで断続的に少年サンデーに掲載、少年サンデーコミックス版は第6巻まで刊行。
さてこのような作品が『ある』とはむかしから知ってたのだが、読んでみようかという気を起こしてしまった理由は、田丸浩史センセがこれ等の、ながいけん先生のお作群を大絶賛されてたからだ(田丸「レイモンド」第1巻, p.59)。で、この先生のご著書を捜してるんだけど、いまだ今作の1,2,5巻しか手元にない。売ってないんだもん。
…と書いていたのは昨2009年のことで、追って現在までに「チャッピーとゆかいな下僕たち」の新装版(2004, 大都社)はめっけた。でもそれについては、そっちの項目で語るとして。

で、「神聖モテモテ王国」について、そこまで読んだ限りでの寸評だが。

主人公らしきボーズ頭にメガネに学生服の少年15歳は、≪ファーザー≫を名のるひじょうに奇妙なおっさんとアパートで2人暮らし。何が奇妙と言って、そのおっさんの姿が≪ギレン・ザビ≫を崩したような軍服とマント、そして下半身は白ブリーフいっちょに裸足。しかも、耳があるところにへんなツノが生えており…ときては、奇妙だとしか!
そしてファーザーは少年を≪オンナスキー君≫と呼び、自分の息子であるかのように言い、そして2人で『神聖モテモテ王国』なるものを建国しようとか言う。それは、『ナオンと彼等だけの蜜あふるる約束の地』だとか何だとか。
そうして彼らは、ファーザーの珍アイデアにもとづくナンパ実践にはげむのだが。しかし、いっこうにナオンが釣れないばかりか、通報されて終わりとか、巻き込まれたヤクザや不良にボコられて終わりとか、いつもそんなケツ末ばっか!

ところでこのシチュエーションが何かおかしいわけだが、実は少年は記憶の一部を失っていて、そこらの治療のために通院中だったりする。そしてファーザーは実の父ではないらしいのだが、しかしほんとうの家族がどうしているのかは分からない。
なので。今作の中身は、≪不条理ギャグ≫というのとも異なる感じのドタバタ劇だが、しかしその内容以前のシチュエーションの部分に、≪不条理≫なふんいきがある。知らぬことだが今作のラストというものがあったなら、そこでそのなぞが明らかになってるのやも知れぬ。

にしてもこの少年が、自分の名前や身元さえもハッキリせぬ心細い身の上なのに、しかしファーザーの提案する『ナンパ実践にはけっこう乗り気である』というトコが、ふしぎというのか、人の性欲のものすごさというのか、あたかも安いRPGのヒーローみたいなおきらくさというのか!
あとついでに申して、いくら何でも『ナオン』は死語すぎではッ? 1970'sの『週刊プレイボーイ』とかに出てた語じゃねーか…と思うのだが、しかしファーザー様の青春時代の用語ではあるのやも。

かつまた。われらのファーザーは、現在の先進国らで支配的な≪代議制民主政治≫という制度に異を唱え、≪開明的専制政治≫として彼の王国に(いずれ)君臨し統治する気がマンマンのようだが。
しかし、『開明的独裁は必ずや、単なる独裁暴政に堕す』という格言の正しさは、ファーザーの行状を見ていればおのずと明らかでしかないっ。
が、そうかと言っても現に存在している代議制民主政治とやらの姿のみすぼらしさが、ファーザーが自分と自分の一人芝居で激論を交わしてる戯画と、何ら選ぶところがない。というところで意外にこれが、社会風刺的な作品であるのやも?

とまで、説明をしてきたが。なるほど田丸センセがHOTに指摘されている、ながいけん先生の『言語感覚のスゴさ』、それは大いに今作へと認められる。
その例をどこからもってきたらいいか…逆に分からないほどだが、1つ引用しとけば。

 『泣かぬなら 雨ニモ負ケズ ホトトギス
 僕の前に道はないから じっと
 手を見る カラダ記念日』(第2巻, p.77)

芸術の秋、詩人はモテるのでは…と思いついたファーザーは≪詩人ガーZ≫と号して、ヘンな詩を口ずさみながらナオンちゃんにつきまとって、しかしまいどのごとく轟沈するのだった。
うーん、ちょっとまた異なるところを見るべきだろうか…。では次に、名探偵はモテそうだと考えたファーザーがホームズっぽい扮装をきめながら、自分の名探偵ブリを示すべく、ナオンらに言う。

 『百人一首の 犯人は紀貫之。ザクの 犯人はシャア。
 デカン高原の 犯人は綿花。縄文時代の 犯人は、縄。』(第2巻, p.184)

とまぁ…。こんなでは、ながい先生の言語感覚のスゴさをご紹介できたような気がしないが。しかし筆者は、今作を見て思うのだった。確かにすごい要素が大いにあるけれど、でもそれが≪まんが≫としての面白さには、必ずしも帰結してないのでは、と。
≪ギャグ≫がどうこう以前に、この作品には、『読んで笑うようなふんいき』が…まず読者らの心がゆるむようなふんいきが、なさすぎなのでは? 筆者だけかも知れないが、その全般の冷ややかな感じに入っていけないのだった。≪共感≫はギャグまんがのメインの要素ではないが、しかしそれがまず≪まんが≫である以上は必須だし。
つまりだ。すまぬことだが自分という読者の感覚は、ファーザーらの奇行を見てすなおにひきまくるナオンらの感覚に近いようなのだった(!)。

ところであんまり関係ないことだが、少年サンデー系列の若手・新人ギャグ作家らの単行本には、たまに高橋留美子先生によるすいせん文が載っている。これがいつもいいこと書いてあって、『留美子先生は読者としても超一流だな!』と、筆者をむしょうに感動させるのだった。
で、それがもったいなくも(?)、今作の第1巻にも出ているので、何かの記念に引用しておこう。

 ――― 『高橋留美子先生 大絶賛!?』(「神聖モテモテ王国」第1巻カバーそで)―――
『体は疲れているのに妙に脳がさえて眠れない時など特に良い。センス抜群のネームと、確かなストーリー展開が、快い笑いと脱力感を与えてくれ、いろんな事がどーでも良くなって心が癒されます。本当です』

この評言について、『センス抜群のネーム』は誰にも大いにうなづけることだが。しかしその『確かなストーリー展開』、とはどういうことだろうか?
今作はどうでもいいようなドタバタでまいど展開しつつ、しかし何らかのなぞへと遠廻しに迫っているような感じがなくもない…そのことだろうか? または毎回のファーザーの計画が『まったく必然的に失敗している』という、そのことが『確かなストーリー展開』なのだろうか?
そこらでわれらが留美子先生の真意はよく分からないのだが、しかし筆者としては、『これを機会に、ギャグまんがにおける≪ストーリー≫概念を再検討してみそ』、という啓示を拝領した気分なのだった。

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