2010/02/27
木多康昭「幕張」 - Another Brick in the Wall
参考リンク:Wikipedia「幕張」
この「幕張」のジャンプ・コミックスが刊行されつつあったころ、筆者は今作を『ふつうの野球まんが』かとばかり、思い込んでいたような? 何せその全9巻のうち4冊まで、ピチッとユニフォームを着込んだ少年が劇画調でカバーにドンと描かれている…とあっては、そのような思い込みをきたした自分を責める気が、まったく起こらない。
さて野球を題材にしたギャグまんがというと、大むかしの作だったら、江口寿史「すすめ!! パイレーツ」や内崎まさとし「超人コンプレックス」などがあったが。しかし今作は、あのような路線とはぜんぜん異なる。何せ野球を、まったくやらないんだから(!)。
やや近いのは久米田康治「行け!!南国アイスホッケー部」が、なぜか途中から『ホッケーだけは意地でもやらぬ』…という内容になってるが、アレか。などと言ってたらひょっこり思い出したが、『野球部なのに野球しない系』ギャグまんがの元祖といえば、同じ少年ジャンプのコンタロウ「1・2のアッホ!」(1976)か! パねェ、これはまじで古い~!
で、今作は、出だしからして大いに人を喰ってやがる。まず同じ高校への入学が決まっている2人の少年が登場し、一方の奈良クンが一方の塩田クンに、進学したらいっしょにバスケ部に入ろうゼ、おもしろいしモテるから…と、ひじょうにまともなことを言う。しかし塩田クンは、さびしげに奈良クンへと背中を向けて、『バスケは だめだよ…』と答える。
なぜ、バスケはだめかというと? 『「ジャンプ」には もう… 「スラムダンク」が あるから』と塩田クンは言い、そして人知れず無念の涙を流すのだった(第1巻, p.5)。
関係ないけど同じMid 1990's、月刊のジャンプでも浅田弘幸「I'll」というバスケのまんががあったようだ(これはよく見ると、ラモーンズの曲名が引用されてたりするオシャレな作)。とま、そんなわけだから「キャプテン翼」のサッカーもダメだし、また『セクシーコマンドー部』に入るのも『いかがなものか』と考えられたので、まったく後ろ向きな選択として2人は、≪幕張南高≫の野球部に入るのだった。
しかし、まったくヤキューをやる気がないどころか! これをきっかけに、出だしの一瞬だけまともそうに見えた奈良クンが、タイヘンなるヘンタイ少年としてグィグィ頭角を現すのだった。その様相を見ていたら、やりたいバスケをやれなかった哀しみが、彼をそのようにしたのかなあ…などと想わんでもない。
すなわち、われわれはこの事態を、『前途有為な少年を、腐った体制がスポイルしたのだ』と、見れなくはない。ここにおいて今作「幕張」は、かのピンク・フロイドの作品系列の一大テーマと出遭(いそこな)っているような…そんな気が、ぜんぜんしないということもない。
そうして迷走に迷走を重ねていく彼らの行状は、ようするにバイオレンスとエロス…という『エンターテインメントの2大根幹要素』(by オヤマ!菊之助)に、スカトロと多少の喰い気を加味したモノだ。そういえばヤキューをやらぬばかりか、この連中は高校生のクセに授業やテストを受けているようすもなく、それどころか『教室』という場所に出入りしてさえもない(!)。
とはまたうらやましいばかりの≪自由≫さであり、そしてその自由を彼らは、ほぼエログロバイオレンスにのみ費やすのだ。
あまり分析的なことなど言わず、この場では作品の概況を見とこう。活動してもないヤキュー部だけど≪桜井≫という名の女子マネがいて、ちょっとカワイイし『巨乳』なので、バカたちはこの子に対して邪心をいだく。しかし彼らがあっぱれなのは、まともな男女交際を経て≪目的≫を達しよう…などという気はまったくないことだ。
ヤキューしないけどヤキュー部に在籍したい…てのと同じようなてきとうさで、バカたちはなし崩しに、まったくフェアでないなりゆき経由で、お目当ての≪部分対象≫だけをむさぼりたいのだった。と、≪部分対象≫というむずかしい語が出たが、ここでは要するにおっぱいのことだ。
それやこれや彼らの行動“すべて”は、『まともな目的・まともな手段・まともな努力』といったものらを否定するためにだけ、大ハッスルしてるように見えるのだった。いったいどこの誰が、この少年らをこんなしろものまでに育てちまッたのだろうか?
そしてこのガキらが『目的に向かってまっすぐ行動する』ことがぜったいにないのと同様、このお話自体がぜったいにまっすぐは進まない…という特徴をも見とこう。進まずにどうするかというと、内的な理由でつまづき脱線するか、さもなくば楽屋オチやアプロプリエーション(いわゆるパロディ)が強引に挿入されて≪切断≫されている。
で、正直なところ楽屋オチの意味がさっぱりよく分からないし、TV・芸能の話題も分からない(分かる人には面白いのかも)。だがこの作者のアプロプリエーションについては特異さを筆者は感じてて、それは≪対象≫らへの愛やリスペクトがゼンゼンなさそうだと。つまり、作中のバカ少年らが女性を見て≪部分対象≫しか見ない、という態度と同じようなのだ。
逆に、それだから尋常でないキレがある…とも感じられるのがいやなところだ。たとえば奈良クンがビデオ屋でアダルトビデオの箱を見て(それも、幼女が放尿してる的なやつ!)、借りもせぬ前から平気で人々の見ている前でティッシュを用意して。そしておもむろに『ヂィィィ…』とチャックを降ろして、『スティッキィー・フィンガーズ!!』…なんて、ヤバぃにもホドがある!(第7巻, p.79) そしてこの時の奈良クンの、何かをふかしぎに勝ち誇ったようなブキミな表情は夢に出そう!
というのは「ジョジョの奇妙な冒険」(第5部)のアプロプリエーションだが、同作からの引用にやたらとはげんだ大亜門「太臓もて王サーガ」(2005)よりもキレてるのではッ?…というのがいやなところだ。「幕張」による≪切断≫の異様なる斬れ味スルドさのベースは、明らかにネタ作品らおよび≪対象≫ら全般への愛のなさだからだ。
比較すると「もて王」が、いかに≪愛≫があり温かみのある作品か…ということがよく分かる。付言すれば今作「幕張」は、ふつうは見えない「ジョジョ」の底流の≪欲動≫のうごめきをえぐり出してもいよう。
それこれにより、筆者にとっての「幕張」はまず、痛いところをひじょうにするどく≪切断≫してくるみごとな創作ではあるのだった。と書いているうちにその重要さ(?)…みたいなことが感じられてきたので、いずれの再論あるやも知れず!
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