2010/02/11

李學仁+王欣太「蒼天航路」 - 「三国志」関係のまんが その2

 
参考リンク:Wikipedia「蒼天航路」

シリーズにしようとしている「三国志」関連まんがのレビュー、横山「三国志」を第1弾として、続く第2弾(今記事)の題材が「蒼天航路」である理由。それはこの「蒼天航路」という作品が、横山「三国志」に対しての≪アンチテーゼ≫かのように読めてしょうがないので、という筆者の感じ方による。

すなわち。横山「三国志」の主人公が劉備玄徳であるに対し、「蒼天航路」の主人公は、その最大のライバルだった曹操孟徳。横山「三国志」が小説「三国志演義」をベースにしているに対し、「蒼天航路」のベースは陳寿の史書「三国志」。さらに表現のスタイルが『まんが的』に対して『劇画的』、発表媒体が『少年誌』に対しての『青年誌』。
そうして内容的なところでは、もしも横山「三国志」のそれを『偽善的』などと表現してみるならば、対しての「蒼天航路」は、あっぱれ『露悪的』、としか表現しようがない。いやむしろ、後者があまりにも露悪的なので、並べたら前者が偽善的にも見えてくる、というしくみだが。

と、こうも対照的なものが後発として登場したのでは、『アンチテーゼなのか』のように感じられてもしょうがないのでは? かつ、「三国志」関連のまんががひじょうに数ある中で、その筆頭たる横山「三国志」に対し、この「蒼天航路」ほどにまっこう『張り合って』いる作品は、他にないように見られる。というわけなので、あれの次にはこれか、と考えたのだった。

ところで『「蒼天航路」の(物語の)ベースは陳寿の史書「三国志」』、などと述べたが、きわめて限定的な意味でしかそれは申せまい。つまりお話の大まかな流れはそれに即しているとしても、史書にないエピソードを「蒼天航路」が描いていないということは、まったくなさげ。対する横山「三国志」があまり独自のエピソードを作っていないことと、これもまた対照的に。

さてここで、なぜか話は筆者のことになるのだが。以前に職場の同僚から、『あなたはやさしい人だ』と言われたことがある。言われてびっくりしたので反省してみたところ、確かに『やさしさ』のようなものを演じたことがあったようだが。
ただし筆者のそなえた『やさしさ』は、まず何よりも『自分にやさしい』(!)。そしてその『自分へのやさしさ』のおすそわけとして、ときどきわずかに『他者(ら)へのやさしさ』を発揮している、そればかりのもよう(…)。
と、何でこんな話をしたかというと、今作が主人公の敵として描いている劉備玄徳の人間像と、申したようなものである筆者と、びみょうにもキャラクターがかぶっているような気がしたからだ。

特にそれほどの実力がないにもかかわらず、妙に人望がある…という点で、横山「三国志」と今作と、劉備の人間像は一致している。そして『それはなぜか?』というところで、今作は独自の解釈を示している。
すなわち劉備をしたう人々は、『自分にやさしく人にもやさしく』という劉備の特徴に≪自分≫を、『自分の見たい自分』を見ているのだ。で、それへの対立軸である曹操は、『人にきびしく自分にもきびしく』をモットーに活動している、とも言えそうなのだった。
かといって今作「蒼天航路」の描いている曹操は、『ストイック』と言えるような人物では、まったくない。そういう意味での『自分へのきびしさ』はぜんぜんないのだが、しかし、ともかくも万事を『徹底的にやる』という超エネルギッシュな人物ではある。そこから見たなら、劉備のやることは万事が『ぬるい』のきわまりなのだった。

そして。ここまで来てからおかしい告白をするようだが、実は筆者は、今作こと「蒼天航路」全36巻(モーニングKC)を、さいごまで通読はしていない。どうしてかといえば、『きもち悪さが度を越したので、あるところから読めなくなった』というのが正直なところだ。
で、どこがそのポイントだったかというと、第20巻に収録の第227話。例の『長坂の戦い』で、曹操軍に追われ必死で敗走している劉備が、びっくりなことに馬車の中で側室らしき女性と性交している(!)、という場面。いやどうにもいま確認してみて、やはり『きもち悪さにもほどがある!』と感じたが。
ただしこの描写が意外にも、劉備を低劣な(だけの)人間として描いているわけではない。むしろそんなだけに、まあその『大物』であり、よって曹操への対抗軸の1つたりうる…と描いているようだが。しかしそうとはしても、『きもち悪い』という筆者の感じ方が変わらない。

かつ、きもち悪いというなら、もう1つ。今作は諸葛孔明について、初登場の時点で彼を、『房中術』とかそっちの方の達人として、きわめていやらしく描いている…これがまた、すまぬが筆者にはひじょうにきもち悪い。
そうしてこの手のきもち悪さ、要するに『“露悪的”にもほどがある』的な描写は、今作において枚挙にぜんぜんいとまがない。そしてそうしたきもち悪い描写らについて、とくだん史実上の根拠があるというわけでは『ない』。きもち悪いことを描きたいと考えた誰かが、きもち悪いことをねちねちと描いているのだ。そういうわけでは、『きもち悪いことを見たい人にはおすすめ!』、とでも申したくなってしまうが。

ただ、そのような今作のきもち悪さが『単なる』きもち悪さとしてカラ廻りしている、とも考えない。どうしてそれらのエピソードや画面らがひじょうにきもち悪いかというと、それらを見ている自分、『自分の見たくない自分』が、そこに描かれ見えてしまっているからだ。そしてその『見たくない自分を見る』ということが、またひじょうにできないことであり…!

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