2010/02/24

三ツ森あきら「LET'S ぬぷぬぷっ」 - 追憶のハイウェイ1919

 
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「LET'S」の記事が出たところで、ちょうど3年くらい前にも「ぬぷぬぷっ」にかかわる堕文を書いていたことを思い出した。多少は読みやすくなるように手を入れて、それをここに再掲させていただく。次のパラグラフから。

(前略)「LET'S」全9巻の半ばあたりに、『キョウザメちゃん』と名づけられたシリーズあり。そこでヒロインを演じるようち園児≪キョウザメちゃん≫の、本名は杏本朝芽(きょうもと・あさめ)。
しかし無シンケイで横柄で人々を興ざめさせる言動が大とくいなので、キョウザメちゃんの異名をもつ。何しろ眼つきのへんにするどい子で、その顔立ちは整っている方だが、まったくかわいげがない。

そしてある日、朝芽はママと連れだって、『ファミコンショップ』へ行く。朝芽がプレステを欲しがったからだ(…これは、Mid 1990'sのお話)。ちなみに朝芽のママは『元ミス日本』の超美人で、そしていまもその時の栄光に生きており(!)、よってふだんの姿がワンピースの水着の上にマントと黄金のティアラという、あのカッコ。
そのママが店員に向かって、『ファミコンのプレステください』と、いきなりトンチンカンなことを言う(…いそうだなあ、こういうおばさま)。そこで店員が当惑しているので、『プレステは ファミコンじゃ な』い…と訂正しようとする朝芽の口を素早くふさぎ、ママはコソコソと言う。

 ママ『(ヒソヒソ) ママだって 知ってるのよ それくらい‥‥』
 店員『私だって 知ってますよ』
 朝芽『‥‥‥‥』
 (三ツ森あきら「LET'S ぬぷぬぷっ」第5巻, 1996, KC少年マガジン, p.108)

すんごくつまんない“読み”をご披露するようだけど、≪知≫とはある意味、このようなものだ。『知って』たからって何もえらくないし、それらは何も役に立たない。『あなたの知っていることは私も知っている』、『それは私も知っている』、このようなおしゃべりがループしているばかりなのだ。

 分析家『ようは、あなたはマザコンなんですよ』
 クライアント『“そんなこと”は私も知ってますよ。フロイトでしょ?』

このような≪精神分析≫は地球上にないはずだが、しかし人々が戯画として考える分析は、そのていどのものかも知れない。あたりまえだが、そんなおしゃべりだったら、やっててもまったくしょうがない。
むしろそのような≪知≫を棄てるための分析実践、でなければなるまい。かつ、“フロイト”を棄てるために『フロイトを読む』のでなければならない。
ああ、つまらない。まったく冗談ぬき、『キョウザメ・ファミリー』は大したものだ! その名に恥じない興ざめパワーのばくはつを、かくてわれわれは見たのだ。

…いまだ≪これ≫をご高覧しておられる方々が、絶対にいないとも限らないので話を少々続け、もう1本のネタをご紹介。

そうして美人のママと社長のパパとの間で、つけ上がった生活をエンジョイしていた朝芽だったが、追ってお話は急転直下! パパの会社がつぶれてしまい、借金に追われ、キョウザメ一家はどこかへと夜逃げするハメに。さいご朝芽との別れを惜しんでくれたのは、たった1人の親友≪よう子≫だけだった。
それから5年後、よう子は転校した先の小学校で、奇跡的に(?)朝芽と再会。ところが、運命の過酷さ…! つけ上がりきっていたその過去の雄姿はドコにもなく、いまや暗くてビンボーな朝芽は、クラスのひどいイジメの対象に(!)。しかも日ごろイジメられすぎな朝芽は、せっかく再会したかっての親友に対してさえも、態度がよそよそしいのだった。

そうしてよう子が朝芽をかばってあげようとしている日々の中、クラスの給食費の一部が行方不明に。人々はごくとうぜんのように(!)、証拠もないのに朝芽にギワクをかける。
続いて学校からの帰り道、よう子は朝芽に『盗ってないよね』と(確認の意味で?)問いかける。すると朝芽はキョウザメちゃんだけに、『いーんだよ 別に疑っても どうせ』…などと、投げやりなことを言う。

 『私は信じてるもん 朝芽ちゃんは 盗ってないよ』
 『ホントに そー思ってる?』
 『うんっ ぜったい』
 『そっか』

引用ダイアログのさいごのところで、珍しく朝芽がはればれとした微笑みを浮かべる。それでてっきり『いい話』かと思ったら(…そんなわけはないのだが)、その足で朝芽はファストフード店に寄って、そこで買ってきたハンバーガーの中の1つをよう子に手渡す。

 『何コレ‥』
 『友情のあかし』(←さっきからの『いい表情』を、絶賛キープ中)
 『(‥‥‥‥‥盗ってるじゃん)』(同書, p.113)

なるほどわれらのキョウザメちゃんは、『給食費を盗っていない』とは、一貫してひとことも言っていないのだった(感心)。かつ『盗ってる』とも言っていないが、でも盗ってるのか?…と、いったん受け取れば…。
そうして盗っていることを自分は『知って』いるが、しかし朝芽の無実で無垢たることを信じている人が、この世に1人でもいて欲しい…とは、やはり思っているようなのだった。かくて人間は『知らないでいる人』を想定し、その存在をかてとして、自らの≪心理≫を構成する。

じっさいわれわれは、人々の『知らなさ』を無意識の前提として生きているはずだ。ささいなことでもいろいろと隠している(つもりな)わけで、それらの“すべて”を知っているのは、想定された存在≪大文字の他者≫だけ(のはず)だ。
ところがその『知らないはずの人』が、実は『知っている人』だと知ってしまった時の大ショック…! おそらくそれを、どなたもご存じでいらっしゃるはずなので、思い出してみていただきたい。

たとえばここで、わざとアホっぽい例を申すならば。男子中学生クンらは自分のエロ本コレクションの隠し方が完ぺきだと思い込んでいるが、しかし母親たちはそれを必ず発見ずみで、だが知らぬふりをしているのだ。
…と同様に(!?)、自分の娘らが≪大人へのステップ≫を1歩…2歩…など上がったりすると、母親たちは必ず何らかの徴候からそれを察してしまうとか。…しかし、ふつうは何も言わない。
で、まったく秘密が構成できていないにもかかわらず、隠しているつもりの側は隠していることを、ぞんぶんに愉しんでいる。そしてその『秘密』(と想定していること)をベースに、≪自我≫を構成する。

またご紹介の物語には、もっともっといろいろ別の解釈がありえて…。そもそもさいごによう子が『盗ってるじゃん』との認識にいたったのは、朝芽の想定内のことだったのかどうか?…が大問題だが、けれど実作からはそれを知りえない。
というかここで朝芽の真意がさっぱりつかめないことが、≪ギャグ≫形成への大きな要素になっているのだ。何もしなければ『よう子は朝芽を信じる』ですんでいたのに、しかしキョウザメちゃんは、それではすまさない。
あるいはさいごのシーンで、朝芽は本気で自分を無実だと信じ込んでいるのかも知れない(!)。いや、よう子がそう言うからには、そうなのかも…とか。
またあるいは。われわれの思ってた以上に朝芽が悪い子になり下がっていて、よう子を共犯者として引き込むために、≪分け前≫を手渡したのかも知れない(!)。何ということだろうか。

だいたいの話、ここでは『信じないか/信じるか』という2択の問いかけをはさんで、2人の認識が逆方向に走っている。よう子は≪友情≫を前提にして朝芽を『信じる』と訴えぬき、そのあげく『盗ってるじゃん』…との認識に至る。その逆に、朝芽は自分が『盗ってる』という前提を知りつつも(?)『信じる』ということばを聞いたので、よう子との間に≪友情≫があると知る。
そしてこれが朝芽には一種のフェアな成りゆき(?)に見えているのだが、しかし真相っぽいものを知ったと感じてショックを受け蒼ざめるよう子にとっては、それが成り立っていない。やっぱりわれらの≪キョウザメちゃん≫とキたら、『いい話』などはブチ壊さずにおれないヤツなのだろうか?
いやそれとも。われわれの知った限り、朝芽の容疑はひじょうに濃いようだけど≪状況証拠≫があるのみだ。ハンバーガーを買ったお金の出どころが、必ず盗まれた給食費だとは限らない。と、できれば考えたいところだが…。

ともかくこのたった1Pのエピソードの中には、確定していることがほとんどない。われわれは無意味なことらばかりをいろいろと知った上で、もろもろの分からなさの前にたじろぐのだ。
そうしてさいごに朝芽がよう子に手渡した≪友情のあかし≫こそ、もちろんわれわれの言う≪シニフィアン≫(意味ありげだが、意味不明きわまる記号)に他ならない。そのシニフィアンの出現は物語の決定的なモメントをかたち作っており、そして朝芽はそこへとはっきり≪友情≫の意味を込めたつもりなのに、しかしよう子とわれわれは、それを『それだけ』のものとは受け取れない。

しかもそのシニフィアンをなしているブツが≪ハンバーガー≫であることが、みょうにいま筆者を感心させている。できればご一緒に考えていただきたいのだが、もしそれをアンパンやメロンパンなどに置き換えてしまったら、お話の苦さカラさに対して甘さがミスマッチではなかろうか?
では、『ここでのハンバーガーとは何か?』…と言えば、それはいろいろな意味での≪肉≫だ。どん底に生きている朝芽自身の≪肉≫…あるいは≪肉≫としての朝芽自身、それを彼女は≪友情のあかし≫として、この世でたった1人の親友と信じたよう子へと差し出したのだ。
しかもその自分自身である≪肉≫を、朝芽は盗んだお金(?)で、よそから買い戻さねばならないのだ。ところがよう子の側においては、せっかくのそれを、すなおに喜んで受け取ることがむずかしいのだ。

まあともあれ朝芽が≪友情≫のあることを確認できたのだから、それでいいじゃないか…とでも言って終わりたくなってきた(!)。これを書くためにシリーズを再読して筆者は思ったのだが、朝芽という女の子がそこで『友情』という軽くないことばを口にしたことは、けっして悪ふざけなどではない…とは信じられる。まして日ごろろくなものを喰っていない朝芽が、まともそうな食べ物を他者へと手渡したことは、絶対に軽いことではない。
ところが朝芽が本気で≪友情≫を言う時、そしてその友情をかたちで示そうとする時、それらは逆に相手の構築している≪心理≫への脅威として働くのだ。意図に反して、向こうサイドの≪友情≫に揺さぶりをかましてしまうのだ。それこそがキョウザメちゃん一流の≪パロール≫、そのヒネリがさえわたっているところ(!?)なのだ。
(ご説明。“パロール parole”は『おしゃべり』という意味の仏語だが、分析用語としては『ヒトに向けて語り、かつ騙る実践』)

等々からして、このお話は…。『盗ってるのか否か?』ということを追及するミステリーもどきなどではとうぜんなくて。
朝芽という女の子が、一から十まで悪意で行動しているわけではないのに、ふしぎと必ず人を傷つけてしまう…『外傷的な≪他者≫の現前』を演じてしまう…このことの悲喜劇性を、今作は描いている。そしてそんなどうしょうもなく了解不可能な≪他者≫が存在することを“知って”、そしてその≪知≫の役に立たなさをも知って、しょうがなく(!?)われわれは、一連のことらを(無意識の過程で)≪ギャグ≫かと解し、そこへと笑いを返すのだ。

そうして三ツ森「LET'S」中の『キョウザメちゃん』シリーズは、ご紹介したエピソードの後、たったの2編(各1P)が続いて終わっている。エンディングらしいものも、何もないままに。しかもいま言った『2編』の内容があまりに悲惨すぎて、ご紹介したくない。
ああ…。キョウザメちゃんはそれからどーしたのか…と少し気にしていたら、このたび消息を発見。同じ作品の『保健室で設楽(したら)先生』シリーズの中に、6年3組の『その他大勢』の1人として(よう子とともに)、さいごの第9巻までチョコチョコっと出ているのだった。
が、別に『活躍』はしないし、相変わらずビンボーそうだ。しかしこの時点ではもうイジメられていないみたいだし、そして何より、その後もず~っとよう子と仲がよさそうなことには、思わずほっとさせられたのだった。すると筆者もまた、朝芽が生のどん底で口にした『友情』のことばを、その示した≪シニフィアン≫の前向きな方の意味を、(よう子とともに)信じたかったようなのだった(後略)。

…というところで、旧稿の再録は終わり。ここから以下は、2010年現在の補足。
ところで作家のファンの皆さまはご存じのように、「LET'S」に続いた三ツ森先生の「わんるーむ」(KC少年マガジン, 全3巻)にも、脇役でちらちらとその後の≪キョウザメちゃん≫が出演している。そしてそれを知らないで、上の旧稿は書かれている(!)。
筆者の話には、はっきり言ってこういう穴が多い。かと言って、成り立たない話にもなっていないところがふしぎなのだが。
そうして「わんるーむ」におけるキョウザメちゃんの姿がまた、ある意味で悲惨。『どうしてこの子はこうなのかなあ』…と感じさせるところが、いっこうに変わっていない。だがその話は、そっちの作品を主題にしたときに!

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