2010/02/24
新山たかし「半熟忍法帳」 - 輪舞, セクハラと暴行致傷との!
参考リンク:Wikipedia「半熟忍法帳」
前に見た「ぱらのい屋劇場」のあろひろし先生に並び、こちらの新山たかし先生について、常に『読者にやさしい作品』を描いておられるなあ…ということを感じる。ご両家のお作のすべてを見ているわけではないけれど、それらについて、思い出したときにやさしい気持ちになれるような作品ばかりだ、とは言える。すばらしい。
ただし、まんがとはそういうものなのか、という疑問もある。大ヒット作とか歴史的名作とか言われるものらには、もっと読者を挑撥したり、急に途中で苦いものを呑ませてきたり、そして解けないような謎をしかけたりしている作品らの方が、ずっと多いのではなかろうか?
だからこのご両家は、まんが読者層に好かれているわりには人気がない(!)。その創作のベースの善意は必ず伝わっているのだが、しかしそれで熱狂的に愛されるということもなく、現在まで『そこそこ』で推移している。『いい人』としてスルーされている、というふんいきだ。
で、このようなポジションで成功されている作家はというと、それは「こち亀」の秋元治先生かと。特に『熱狂的に愛されるということもない』って感じなのだが、なぜかこの30年ばかりもジャンプの人気投票の中位をキープされているそうで。しかし筆者には「こち亀」がさっぱり分からないので、そのびみょうな人気の秘密も分からない。
ま、そんなことはともかくも。いまここでは、新山たかし先生の現在までの代表作と目される「半熟忍法帳」(ギャグ王コミックス, 全9巻)を見ていこうと。
さてこれの掲載誌が、当時のエニックス社の刊行による『月刊少年ギャグ王』(後に『GagOh!』)だったという話だが。すると≪ギャグまんが≫を愛するわれわれには、この誌名を見てるだけでも、想うところがいろいろと生じがち。
…だが、申し訳ないことに。実は筆者はこの媒体を、まったく見たことがないのだった(!)。中身どころか、その表紙(の実物)を見たことさえもない。いまもそうだが、まんが雑誌とかめったに見ない仔だったので。どのような媒体だったのだろうか…?
というあたりを、今作のカバー見返しや巻末にある『ギャグ王コミックス』のリストから臆測しようとするも。だがしかし、『何ンかパッとしてそーなタイトルが…チョッとねーな』、という想いしか浮かばない。かつ題名らを見てて、『そもそも“ギャグまんが”なの?』という疑惑、それを呼ぶようなものが目につきすぎ、とも指摘しつつ。
あげくに分かるのは、けっきょくは今作こそが、ニホンのまんが出版史に埋もれた『ギャグ王』という媒体を代表する作品なのだろう…ということだ。だいたい今作は『ギャグ王』の創刊から休刊までの約5年間、ずぅ~っと載ってた作品らしいし。そしてその全9巻というボリュームに匹敵するスケールの作品が、他にはないようだし(…池田匠「すすめ!! ダイナマン」というタイトルが、やや及ぶていど)。
ここでやや違うようなことも申すが、筆者の手もとに『comic GAGUDA』第2号というムックがある(2005, 東京漫画社)。約3年ほど前に下北沢の古書店で、確か105円で買ったものだ。で、これは約200Pにわたって≪ギャグまんが≫だけが載ってるスバラしぃ媒体…だと申したいのだが。
しかし通読してみたら、残念ながら笑えるところが1つもなかった。その内容をサブカルっぽいというにも、しかしヤングにグッと来るよーな要素がなさすぎでは、と…。いまでも出ていて、調子が上向きであるならば倖いだ。
かくて。われらが求めぬこともない、『ギャグまんが専門』の媒体…それっぽいのが2つ、あわせて失敗だか不成功だかに終わっている、という歴史的事実。その教えるところは、いったい≪何≫なのだろうか? まぁ2誌とも、『ギャグ専門だからマズった』というか、それ以前のところに何かあったようにも想いつつ。
ただ、1つ申せば。ギャグまんがというしろものに、『一般のまんがへと対抗している存在』との性格を見るとするなら、『ギャグまんが専門誌』は意外とよくないかも?…とは指摘いたしとく。ギャグと非ギャグの作品同士が、『お互いを引き立てあう効果』が失くなってしまうわけなので。
ま、そんなことはともかくも、「半熟忍法帳」の話をォォッ!
さぁてだが、『はじめてのおつかい』てのも重要なイベントではあろうけどしかし、男の子らにとっての『はじめてのエッチなまんが』、というモノもひじょうに重要だ。そこでうかつな作品を見てしまったら、とんでもない生涯の≪性癖≫が身につきかねないので…ッ!!
で、筆者の世代あたりの「ハレンチ学園」とか、追っての上村純子「ルナ先生」シリーズとかに続いて、この「半熟」を『はじめてのエッチなまんが』とした少年たちが…かっての少年たちが、わりと少なくないような話を聞く。…どうなのだろうか?
とまで言ってから初めて内容にふれるけど、今作は戦国っぽい時代の少女と少年ら4人が、見習い忍者として修行にはげんだり危険な任務に臨んだりしながら、たくましく育っていく姿を描く。根本的にはきわめて健全かつ前向きに、≪成長≫というテーマに取り組んでいる創作かと見れる。
しかし、これを表面的に見るならば。今作「半熟忍法帳」は、そこから≪セクハラ≫をとったら、その後に残るものがなさすぎ…というあっぱれな作品でもある。
…筆者は歴史をよく知らないのだが、かって戦国っぽい時代には、『セクハラ=善』だったのやも知れぬ。かつまた、みょうにかんたんに人が死ぬような時代には、≪生殖≫が大いなる美徳だったのやも知れぬ(←根本的には、常にまちがいない。客観的事実として、現代のニッポン人らは“生殖”に対して後ろ向きすぎ)。
だから…かどうかはあいまいにしておくが、今作の主人公≪雷太≫は、敵陣に潜入して逆に鉄砲隊の包囲をこうむっているような局面にて『さえも』、常にセクハラ発言の敢行に余念がない、かつためらいがない。と言うと何ンだかエラいよーな気もしてくるのだが、そしてそのセクハラの主な被害者であるヒロインの≪深雪≫は、細っこい身体にありえざる怪力の持ち主で、そのパワーにまかせたたいへんなお返しで雷太に応じる。
そうして、そこが今作の見どころだ(ッ!)。巻を追うごとに深雪によるお仕置きは超過激なるものと化し、よって雷太の身体の流血や骨折は、ごくごくふつうの≪日常≫の風景となる。
で、そのケガが次のページでもう治ってたりするのは、ギャグまんがの愉しいところとして。そしてこの≪セクハラ発言 vs. 暴力≫という応酬の大エスカレーションは、見てるこっちにもふしぎな高揚感をもたらす。
ところでセクハラと申しても、雷太は深雪に対し、えっとその…。たとえば『チチもませろ』、などと言ってはいない。むしろそれなら、深雪はオッケーなのだ(!)。それをそうじゃなく、深雪の胸がフラットすぎて『揉みようが ねえ』などとアマノジャクを言っているから、彼はキツぅぅ~いお仕置きをこうむっているのだ(第6巻, p.29)。
つまりほんとうはアツアツで相思相愛であるこのお2人さんは、≪性交≫という行為をやらざるために、要らぬ侮辱と激しい暴行をかましあっている。そしてその応酬を≪性交≫に替わるものとして、それぞれが大いに≪享楽≫しているのだ。
で、この2人に対して、見習い仲間の≪かすみと疾風(はやて)≫のカップルは、もっとふつう気味な男女交際をしているようなのだった。この≪差異≫は、なぜ生じるのか?(…それを『性格の問題』などと言っても、答にはならぬ!)
筆者の思うに≪かすみと疾風≫に比し、深雪と雷太の方が…そのいわゆる、性欲が強いのではないかと。『性欲が強い』もバカっぽい表現だが、確かフロイト様もどこかで使ってらしたはず。やり始めたらとどまるところなさげという自覚があるので、そこを慎んで修行中の身である彼らは、≪性交≫に替わる≪享楽≫にはげんでいるのかなあ…と思うのだった。
よって。ここまでを見た上では何を今さらだが、われらが大フロイト博士の示されている、『“否定”は、肯定である』という正しいテーゼにより、『深雪には性的な魅力がない、なさすぎる』のような雷太の言表は、ソレとはまっったく正反対の気持ちを表している。
しかしこの少年は、自らの性欲を野放しにはしないために、真意の逆を言っているのだ。かくて、まったくがまんのなさそうなやつが、実は意外に大いなるがまんをしている…という、この事実は見とくべきだ!
だがしかし、そうだからそれでよし…と結論するにもためらいが、なくはない。てのも、『はじめてのエッチなまんが』として今作のようなものを受けとった少年らが、いずれセクハラの鉄人になったり≪M男クン≫になったり、というおそれがなしとはしないから…。とは、半分ジョークだがッ。
そしてここまでを見ては思うわけだが、誰が言い出したことばなのか『健康的なエロス』などというものは、どこかには実在するのだろうか? いやいやそうではなくて、多少なりとも不健康なところがあればこそ、エロスはエロスなのではなかろうか?
これにかかわることとしてラカンちゃまは、『性交の遂行について男子らの側に、女子への“おとしめ”という心的プロセスの必要性』的なことを言われている。すると雷太から深雪へのセクハラ暴言という挙動を、そこらから見ることも可能そうではある。
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