2010/03/27

田丸浩史「スペースアルプス伝説」 - 斬れないハサミでヂョキヂョキと

田丸浩史「スペースアルプス伝説」 
参考リンク:Wikipedia「アルプス伝説」

ここで見ていく、通称「アル伝」と呼ばれるものは、少年キャプテンという幻の媒体、その末期の話題作(1995~97年掲載)。いきなりひどいことを申すけれど、これが人気ランキングの上位にいたようでは、その時点で雑誌の命運は決まっていた感じ(!)。
なお、初出時に「アルプス伝説」だった今作の題名は、1999年に全1巻の特装版で出たときに改題されている。何で『アルプス』かって、ようは登山部のお話だからだが。しかしその作中、まともな登山の場面なんてないけれど。
また何でのちに『スペース』がついたかというと、その特装版の巻末にスペースオペラもどき、寺沢武一「コブラ」のパロディの番外編が付け足されているからだが。しかし田丸作品ではいつものように、そのパロディの斬れ味が異様に『ない』けれど。

ところで、今作中の1つのキーワードが≪デスメタル≫だ。登山部のお話である今作は、当初『デスメタル部』のお話として構想されていたという。…すると。
追って世に出た若杉公徳「デトロイト・メタル・シティ」(DMC)が、『史上初のデスメタルギャグ』を公称していばっているけれど(!?)。そして『惜しくも』今作は、その名誉ある称号のゲットを逃した!…という見方が、まあできそうな気も。
だいたいのところ、何でこのタイミングで「アル伝」の話かというと、こっちの都合で「DMC」の話が出たばかりなので(*)、メタルつながりで思い出した。ただ単に、それだけなのでもあり。
そういえば、かの喜国雅彦センセもメタル好きギャグまんが家のはずだが、その近作にメタル要素などはお見受けしない。そんな要素を入れてもウケはしないと、すでに見きっておられるのだろうか?

にしても「アル伝」が1995年の作品で、続いた2005年の「DMC」まで10年間も、デスメタルのギャグまんがはなかった感じとは。ここでわれわれの得意の自虐になるが、デスメタルにしてもギャグまんがにしても、ほんとに人気がない。
かつまた、デスメタルをまんがに描くとすれば、それはギャグまんがになるしかないのだろうか?…という問題意識も出てはくる。それはそうか、とも思う。
あまり筆者が一般のまんがを読まないが、世間のうわさだと例の有名な矢沢あい「NANA」は、パンクバンドのお話らしい。それがまたどうしょうもなく通俗で惰弱なファッションパンク・ストーリーで、ヴィヴィアン・ウェストウッドをまた儲けさせるだけのしろものにしろ。
けれども自分は≪パンク≫ということばを聞くだけで、そのことばが社会の中を流通しているだけで、びみょうには気持ちがいい。だって、パンクだから。
そんなわけなので、コアなデスメタルの人から見たらあれなところが多かろうけれど、しかし「DMC」という作品の登場は、『よかったこと』と受けとめられねばなるまい。そして今作「アル伝」にしても、もう少し…そういうところの近くまで、行っていたらよかったろうに。

ま、それはともかくも、「アル伝」のお話を少々見ておくと。それがまた、ギャグにもラブコメにも徹しきらない煮えきらなさを、その特徴と見ねばならない。で、ちょっと聞けば、ゆうきまさみや西川魯介らのような同業者たる方々が、そのラブコメとしての要素を、大いに評価されているとか(ゆうき:本書, p.459。西川:田丸「レイモンド」第1巻, p.110)。
このご両人は、ふだんどのようなラブコメをラブコメだと思ってご覧になっておられるのか…(ただしご両人の発言が、本気で言われたものとも限らない)。少女まんがのラブコメを死ぬほど読む、とゆう荒行にいっときはげんだことのある筆者には、今作はラブコメとしたら超ダメダメ、論外で問題外だ。
特に、1980'sの廃品置場からわいてきたような超太まゆで、しかもいわゆる『ボクっ娘』のヒロインの造型あたり、超ありえねェ…とは思うが。しかし男子の読むようなラブコメだと、これらはありなのやも知れぬ。そのての作品をまったく読んでいないので、基準が分からない。
ただ、そうとは言っても、追ってヒロイン第2号のメガネっ娘が登場すると、その陰気さが1号の空疎な元気っ娘ぶりを引き立てるかたちになって、少々作品に活気が出てきている。そういうところは認めつつ。

ところで田丸センセのお作らに一貫している特徴として、ひじょうにあれこれの先行作らの込みいったアプロプリエーション(=流用・借用, いわゆる“パロディ”)としてできている。ただいまこの本を『くぱぁ』と開いてみると、海に来ているヒロインのトップに『膿が好き』と書いてある(p.433)、…などなど。
それはもちろん「うる星やつら」からで、まぁこれは小ネタとしてありかと思うが。けれども筆者は、田丸センセによる『流用・借用』らを全般的には、そんなに面白いとは思わないのだった。
というのも。筆者が今作を初めて読んだころには、「ジョジョの奇妙な冒険」の内容をまったく知らなかった。で、そちらをいちおう通しで読んだ後に今作を見ると、随所に「ジョジョ」からの引用や盗用があったんだなァ…とは気づく。がしかし、だからといってよけいに笑える、ということがない。

その借用例として今作には、ヒロイン2人がそれぞれ≪スタンド≫を出しあって対峙する場面があったり(p.435)、またずばり『ハイエロファント緑』なんてサブタイトルの回(p.467)もあったりするが。だからって笑えるということがなく、それらはただ、ばくぜんと面白げなふんいきを作っているだけだ。≪ギャグ≫には、なってない。
ただし、読者が≪その中≫へと入って行きたくなるような『面白げなふんいきを作る』ということもまた、ひじょうに重要ではある。田丸センセがもっとも敬愛するらしいながいけん先生が、誰がどう見ても才能にあふれつつ、しかしマイナーな存在にとどまっておられるのは、おそらくそこらが足りないせいかと。
つまり、ギャグといえども≪まんが≫であれば、読者の≪共感≫をあおるということは、大いに必要かつ重要だ。

とすると。ふしぎだが田丸センセは、ながい先生にもっとも多くを学んだようにおおせながら(「レイモンド」第1巻, p.59)。しかし、ながい先生にもっとも欠けた≪共感≫をあおるようなこと、そればっかしを、まずやっておられるように見える。
どうしてそうなるのかと考えたら、たぶんだが、田丸センセが≪ギャグ≫と思って描いておられることが、こちらからはふんいき作りの小ネタくらいにしか受けとれぬ、というギャップが生じているからだ。かつ、そうじゃなくても≪共感≫をあおってる部位が存在するので、すると田丸センセのお作らはひじょうにギャグ不足、ふんいきで読ませているばかり、という印象になってしまう。

そうして筆者は田丸センセのお作について、わりと常に意図的でなさげなところで成功しているものかのように思うのだった。その『成功』の例を言おうとすれば、筆者がほぼ唯一の『成功作』として評価する、「ラブやん」からになってしまうが。
で、そちらの作は、全体的に「ああっ女神さまっ」のアプロプリエーションになっている感じ…だが、『そうだから面白い』というわけではない。また、その作の途中から、見かけの悪い妖精が出てきて≪デーボ≫と命名される…コレは「ジョジョ」第3部の『呪いの人形デーボ』からの借用だろうけど、しかし『そうだから面白い』というわけではない。ジョジョには関係なく、デーボ君の活躍はありだな…と、筆者は見るのだ。
(ついでに申せば、ジョジョの『デーボ』のルーツは米ロックバンドの≪ディーボ Devo≫だと考えられるので、もはや3番煎じのアプロプリエーションになっている気配)

そんなわけで田丸センセによるアプロプリエーションらは、原作が構成した文脈を強引にねじ曲げてるというところがないので、原作を知っていれば笑える…というものでは、ない。文脈らが交叉し交錯する面白さ、というものがないのだ。
もっとはっきり言うなら、原作が構成しているふんいきを平気でじゅうりんする冷血さが、乏しいのかと思われる。「ジョジョ」ネタで言うなら、われわれが木多康昭「幕張」で見た『スティッキィー・フィンガーズ!!』というありえない≪ギャグ≫(*)、あの異様な残虐さを思い浮かべていただきたい。ああしたスルドさが、田丸作品の『パロディ』にはない。
けれども、デーボ君がわりと自然に「ラブやん」世界の一員になってるように、元ネタとは無関係ななところでそれが、何かとして『成り立って』いるとも見れる。この作風は、ほんとうにふしぎな珍品だと、筆者は感じるのだった。

と、ここまでの話をふりかえって見ると、『それでも田丸作品に読者を呼び寄せる力がある』ということの根拠を、筆者は明らかにできてはいない。『共感をあおっているから』と言っても、そんなにかんたんにあおりきれるものではないし。それについて、せめてヒントくらいは述べておかないと、あまりにかっこうがつかない感じ。
≪それ≫は、何なのだろう? 田丸作品が、斬れ味のないハサミで先行作らをツギハギしたものではありつつ、しかしよせ集め方のセンスがよいのかも…ということは思う。また、『そっちにもこっちにも行き過ぎない』、というところにその趣きがあるのかも、という気もする。つまり今作だったら、ほっとけばダダ甘なラブコメになりそうかもしれないところに、デスメタルやホラーの要素をブチ込んでいるあたり。
と、そのように言うと、『ラブコメとギャグの間で煮え切らないことを描いている』という今作の特徴は、むしろ長所であると見ねばならない。どっちにも足りないものらが、支えあって≪何か≫として成り立っているその構成に、うまいところを見るべきなのかもしれない。かつ、常識のない者どうしがお互いに≪常識≫をふりかざしあう、というそのいつもの構図がゆかいなのかなァ…等々と、気づくところはいろいろあるが。

で、筆者は、田丸センセによる≪ギャグ≫は、わりとフィクション世界の手前サイドの『ありそうなこと』、『あったようなこと』を描く…というところにすぐれたものがあるかと見ているのだった(今作で言うと、最後の方のエピソード『KING OF AMERICA』における旧万札発見事件など)。が、これ以上の話は「ラブやん」を題材にしたところで展開されるであろうかと…?

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