2010/03/07

小林まこと「1・2の三四郎」 - 『反則』の描き出す真実、『越境』でしか行けない場所

 
参考リンク:Wikipedia「1・2の三四郎」

『ギャグ漫画』というキーワードに注意して人々の語らいを見ていると、『ギャグじゃないけど大いに笑える漫画』、という言い方が、逆に引っかかってくる。そしていま、そのようなものとして思いあたる作品が、1つは少年マガジンの太古の大ヒット作「1・2の三四郎」(1978)で、もう1つは現在もジャンプ掲載中の「銀魂」(2003)だ。
と、言ってみてから『2つの間が空きすぎだろ!』とは自分でも思うが、そこいらは詳しいお方に埋めといていただきたい。そしてこの場では「1・2の三四郎」を検討し、「銀魂」についてはいつかまたふれる。

そしていま題名が出た2作について、『どういう作品だったっけ?』と、思い出そうとすれば。それらのお話の流れやキャラクターは思い出せるのだが、しかし『どういう≪ギャグ≫があったか?』ということが、さっぱり思い出せない。
対して、そうじゃない≪ギャグまんが≫について考えると、ギャグは思い出せるが、お話の流れや結末などは憶えていない、ということが逆に多い。

かくて。筆者の申している『狭義のギャグ=外傷的ギャグ』とは、心にするどく突き刺さって抜けない『無意味(=意味)のトゲ』のようなものだが。その一方の『広義のギャグ』である『流れの中でのズッコケシーン』や『人物同士のはげしいすれ違い』は、読者の記憶の中で、『流れ』および『キャラクター対立の図式』らの中に埋没してしまう。そして後者を見たものは、笑ったことのこころよさだけを憶えている。

ここで話を異様に古いことにすると、手塚治虫の作品なんて、いま見るとあってもなくてもいいような小ネタが異様に多いわけだが。しかしシリアスな方向に行ききらず、どこかコミカルなムードを並置しておくのは、オーセンティックな『まんが』の描き方の本流ではある。
テーマやムードがひじょうに重たいお話でも、どこかで読者に≪快感≫を与えておく必要がある。手塚およびその流れをくむ作家たちでは、それがいわゆる『コミック・リリーフ』になっている。すなわち、大友克洋のまんが「AKIRA」にも多少は笑えるところがあるし、さらに諸星大二郎のコミック・リリーフの使い方はもろに手塚チックだと言えよう。後者について、『さすがは2回も“手塚”の賞を受けただけはある』、と感心しておくべきか。
ところが宮崎駿のまんが「風の谷のナウシカ」には、そのような手塚チックなコミック・リリーフはない。というか思い出してみると、手塚作品をはじめとする≪まんが≫的なるものが必ず『複眼的』に構成されているのに比して、宮崎の構成は常に『単眼的』。そこで再び、『な~るほど、やっぱ宮崎はアンチ手塚なんだな』と考えてもよさそうだ。
(…付言し、コミック・リリーフの入るようなところにエロ要素をもってくる方法も大いにありうるところで、それは手塚もとうぜん意識的に使っている)

と、こんなことらを述べてから、どうやって話を「1・2の三四郎」まで戻したらよいのだろう? 『ギャグじゃないまんが作品のクリエイトしている笑いとは?』という問題意識があった上で、その懐かしい作品をこのたび読み返してみたのだが。

まずはいちおう、話題の作品「1・2の三四郎」(KC少年マガジン, 全20巻)の概略を述べておくと。その前半はちばてつや「ハリスの旋風」(1965)みたいな学園スポーツもので、主人公らが学校を出てからの後半はプロレスまんがになっている。…などと、筆者の話は放っておくと、自分でも冷や汗が出るくらい古いネタばっかしになり気味。
関連して超おなじみの名著・米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」(1981)によると、狭義のギャグまんがの元祖たる「おそ松くん」に対し、同じ1962年の学園スポーツコメディ、関谷ひさし「ストップ! にいちゃん」という対立軸が見逃せなかったそうだ。いやはやそこまでを持ち出しては、あっという間に話題が終戦直後の「バット君」や「イガグリくん」にまでも戻りそう…!? 古いにしたってほどがあるし!

ま、ともかくも「1・2の三四郎」という作品を、そこいらから出ているものとして。いまそれを見ていると、何しろパワフルでテンションが高い…というか、やたらうるさい作品だとは感じられる。音が出ていないまんがを読んでいて、こんなにも『うるさい』と感じさせられるのはすごい。人々がものすごく大きな口を開けて、わりとどうでもよいようなことをがなりまくる。
たとえばその作中で、誰かに対して誰かがよけいなことを言う。するとどうなるか。

 『うるせ―――んだよォ、てめえはッ!』
 『じゃっかましい、おのれこそだまとりゃあッ!!』
 『だまれとぬかすキサマが、まずだまりやがれぃッ!』
 『ああもう、ほんとにうるさいわね―――ッ、あんたたちはッ!!』

といった具合いで、まったくとどまるところがない。かつ、基本的にはそんなことばっかしが描いてあるまんが、だと申しても過言ではなさそうだ。ただしまた基本的に、この人たちは、いちおう『有言実行』の人々でもありながら。
ところでこれもむかし聞いたことだが、筆者よりも前に今作を見ていた友人の感想。

『柔道の試合でプロレスのバックドロップを放つ、といった前半のメチャクチャさは面白い。しかし、主人公らがプロレスラーになってからの後半は面白くない。プロレスでプロレス技をやっても当たり前なんだから』

追って筆者が読んでみてもその通りで、主人公の三四郎が、『燃える闘魂』の猪木イズムでラグビーや柔道に取り組むことは面白い…が、それがプロレスラーになってしまっては、単なる猪木の亜流だ(!)。いや、そうとは言っても語りの上手さで、するすると最後まで読ませてはくれるのだが。
ここで今作の原点を確認すると、三四郎らの『格闘部』は、女子ばかりがはばを利かせる学園内の、行き場なきアウトサイダーらのたまり場として生まれている。ゆえあってラグビー部をやめた主人公が柔道部の門を叩こうとすると、さいごの部員が入れ替わりに退部していくところだった(!)。そこで空き家になった柔道部の部室に、少女まんが家志望の虎吉と、関西人の馬之助も押しかけてくる。虎吉は空手部、馬之助はレスリング部、それぞれラス1の部員なのだった。
こいつらそれぞれ、死ぬほどに我が強い一種の≪猛者≫ではあるが、しかし仲間がおらずその理解者がいない。そこへさらに、なぜか三四郎に興味をもった転校生でヒロインの≪志乃≫も押しかけてくる。彼女もまた、どういうわけだか学園内の秩序に入りそこねてしまったのだ。

そうしてこいつらはてきとうに、柔道場の一角ずつを好きかってに、それぞれの居心地よい場所として使い始める。その中でも特に志乃が、女の子の居室の備品一式を丸ごと道場に持ち込んで、優雅な放課後のティータイムとしゃれ込むのがすごい(!)。そしてその心地よい部屋で彼女は、『ああ‥‥ いとしの ポール‥‥』とつぶやきながら、マッカートニーでもニューマンでもないポール牧のポスターに見入るのだった(第1巻, p.56)。
ところがそんな好きかってがいつまでも通るわけがなく、しょうがなくてこの4人は自分らを、学校の公認する『格闘部』として組織し始めるのだが。ともあれこの作品の原点に、孤独で行き場なき少女と少年たちが、自分らの居場所を作ろうとする…というモチーフがあるとは言える。

そしてこの『行き場なきものが、自らの居場所を求めて闘う』というモチーフが、今作の根源にあって人々の共感を呼んでいることはもちろんだが。追ってこのモチーフはまた、作の中盤で少年たちがプロレスラーになろうとするときにも再現され、さらには今作の続編「1・2の三四郎 2」(1994)で、いちど引退した三四郎がプロレス復帰しようとするときにも再現される。
かつ、そのような彼らの闘いの手段は、反則もしくはすれすれの『越境』による。すなわち、かの有名な、柔道の試合でバックドロップやブレーンバスターを繰り出すようなことだ。かつ、むさ苦しい空手野郎のくせに少女まんが家になろうとしている虎吉などは、その存在自体が『越境』であり。
さらに、追ってこいつらの仲間になる超むっつりスケベの岩清水くんなどは、ほとんど反則わざ『しか』できない。むしろ平気で反則ができるということが逆に、彼の唯一に近いとりえなのだ。

けれどもそのような『反則』や『越境』のモチーフが、作の後半でプロレス界が舞台となると、急速にその輝きを失っていく。なぜって言うまでもないけれど、さいしょからその世界では、反則や乱入が当たり前なので。
それでもその展開の初期、招かれざるリングに偶発的に乱入したヒーローが、その岩清水くんの持っていたエロ本の束で殴ってプロのレスラーをのしてしまう(!)、なんてところは痛快だったが(第11巻, p.18)。それはまた、なんでもありのプロレス界(?)でさえ考えられぬ、ハイパー反則わざのばくはつだったが!
(…補足。『エロ本で血が出るまで人を殴る』というこのギャグは、このお話にはわりと珍しい『外傷的ギャグ』)

ところで今作「1・2の三四郎」で、筆者がもっとも感動したところを書いておくと、それはわりと初期の第3巻、学園祭の余興として格闘部が、県内でも強豪のラグビー部と、そのラグビーで闘う…というエピソードなのだった。これは三四郎とラグビー部の主将にとっては、ある種の遺恨試合でもあり。
そして。しょせん余興の試合なので人数も変則、そして多少の反則はありで…という設定に乗じて格闘部は、さいしょは反則わざを使いまくってセコくラグビー部に対抗する。ところがハーフタイムの1つのイベントをきっかけに、双方がマジになってしまう。かの格闘部員らでさえもが、小細工ぬきで汗と泥にまみれて真剣にボールを追い始める。

そうしてそこで描かれたのは、既成の制度を離れたまったく無償の行為としての真正なスポーツだ。ただ単にボールがあるからそれを追う、ということが誰にできるのだろうか? そのような無償の行為の美しさを、制度的な競技スポーツに見ることがきわめてまれであり、かつスポ根まんがらの中にさえそれがめったに見られない。
それを「1・2の三四郎」という作品は、偶発的な反則まぎれの『越境』というやり方で描き出しているのだ。冗談から始まって『ほんとうのもの』にいたってしまう、これこそが真に反則や『越境』と呼ぶべきことでなければ何なのだろう?
しかもその描き方がまたふざけていて、この少年たちの闘いに立ち会っている観戦者のモッブらは、『それに しても‥‥ なんで 猪木は 日本プロレスを クビになったの だろう』などと、まったく関係なさそうなプロレス談義に興じているのだった(!)。そうしてそこらで盛り上がって、『三四郎なんて どうでもいいや‥‥』と、まったくありえざることを口走るのだった(第3巻, p.146)。

そしてこのような反則の面白さが、お話の舞台がプロレス界になれば『逆に』消滅してしまっていることが残念…ということはすでに述べたし、それはもうしょうがない。
というわけで、この堕文もマズい意味での『越境』になっているような気がしつつ。さいごに筆者のそぼくな感想を述べておくと、今作のヒロイン≪志乃≫についてちょっと感じるところがあった。このようにヒーローにとことんついてきて、そして常にヒーローを立てることに終始する、そんなヒロイン像がいまはないような気がして。

その観点から、今作「1・2の三四郎」からわりとすぐに後に出た作品、1981年のあだち充「タッチ」は、今作に対しての大アンチテーゼであると見れなくない。何せそのヒーローがぜんぜん男っぽくないし、そしてヒロインは彼を『立てず』に(自分は新体操にはげんで、)張りあってくる。
そして、ここにおいて生まれた『ヒーローに対して比較的クールであり、しかも張りあってくるヒロイン像』は、現在の少年ジャンプの人気作「バクマン。」にも描かれているところだ。さらに『張りあってくる』どころか、逆に、すごいユニークなヒロインをヒーローがフォローし立てる…というお話が、少年誌上にもまれでない現在であり。

『張りあって』と言えば思い出すのだが、今作「1・2の三四郎」の冒頭で、志乃は意外と全校1番の秀才で、しかも転校前の学校では生徒会長だった、と明らかにされる。ところがそのような『設定』は、追っての展開でまったく生きていない! おバカなヒーローたちと同レベルのアホな子にしか、彼女が見えないのだが。
1つ言えばその『設定』はただ単に、三四郎から志乃に対して『売り言葉に買い言葉』で、

 『てめえこそ 頭がよくて もと生徒会長で
 ボインのくせ しやがって ~』(第4巻, p.57)

…という罵倒を引き出しているだけだ。だからほんとうは大好きだ、ということが言外に分かりやすく言われているわけで、ただそのための『設定』になっているのだ。
で、そうとすると、その一方の「タッチ」や「バクマン。」のヒロインらが『張りあってくる』という行為もまた、実はヒーローに対しての媚態になっているのではなかろうか、という気もしてくるが。しかしそこらは、いまは検討外として。

ともかく筆者が感心しているのは、この「1・2の三四郎」という作品の野趣というか、ワイルドでナイーヴなところというか、もろもろ包み隠していないところなのだった。これに比べたらこんにちのまんが作品らは、いちようにずいぶんと繊細かつ都会的な作風になっているなあ…とッ!?

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