2010/03/01

桜井のりお「みつどもえ」 - おお! 犯されず汚されず純潔なるものよ

 
関連記事:桜井のりお「みつどもえ」 - 無意識へ沈んでいくのは≪肯定≫

上の関連記事で見た桜井のりお「みつどもえ」という作品、それはその中心に、『やらんでよいことの“すべて”をやりすぎる丸井三姉妹』を描くギャグまんがだった。
その前記事を書いていて、思い出したエピソードがある。どこに出ていたものだったか、彼女たちのクラス、『変態学級』として有名な6年3組の男子どもが会議を開き、問題の三姉妹を含む女子らについて、『しゃべらなければかわいいのに!』という意見で、全会の一致を見る。
だが、それはありえない『想像』に他ならない。そこへドカドカと三姉妹らの女子たちが教室に戻ってきて、すかさずパンツだかおっぱいだかにかかわる変態論争を、まいどのごとく猛然とおっ始める。そこでいきなり、男子どものいたいけな『想像』はあっさり崩壊してしまう。

ゆえに『しゃべらなければかわいいのに!』は、これまた≪外傷的≫な認識ではある。かつ、それを裏返して『おしゃべり(パロール)こそ、人間らの無垢でなさの根源にあるもの』、という男子たちの認識は正しい。もしも言語活動の外側に人間を育てたら、それは無垢なる存在になるだろう。
そしてそれは、≪人間≫とわれわれが呼ぶものにはならないだろう。かくて、この地上には≪天使≫などいないということを知って、われらのピュアなるボウヤたちは傷つく。

ところでなのだが、本稿ではその三姉妹とは逆に、あれこれのことを『やらない』ということの問題点を考えたい。それはうわさの変態クラスの担任の新任教師、子どもたちの呼ぶ≪矢部っち≫23歳に関することだ。
なお今作の第1話が、この矢部っちの語りから始まっている。『覚悟はしていたのですが(受け持ちのクラスに)ド級の問題児は三人もいました』(第1巻, p.8)。よって前に見た「らんぽう」の叙述の構造に多少似て、今作に描かれたことをわれわれは(潜在的に)、矢部っちの目を通して眺めている。
(とまで見てくると、今作「みつどもえ」は、『三姉妹のお話』としては桜場コハル「みなみけ」に接し、『若い男性教師と女児らのお話』としては私屋カヲル「こどものじかん」に接している。そこらでの比較論も可能だろうが、しかしこれらの中で≪ギャグまんが≫なのは今作だけだ)

そしてその矢部っちが、ただ単に優柔不断で頼りないばかりか、さらに女児たちから『童貞、包茎、隠れオタ』、等々とののしられ嘲笑されて、返すことばが1つもまったくない(!)。このような彼のダメっぷりは、わりと開巻そうそうの第6話に、強力に描かれている。
そのお話『1/3の純情ないやがらせ』で、長女みつばの気まぐれかつねじくれたラブアクションとして、矢部っちはさまざまな痛い目に遭わされる。ラブアクションて、ヒューマンリーグかよ!…という筆者の自作自演の超レトロギャグはともかくも。
そして彼らがふと見ると、教室から廊下に向かって『紙きれが 点々と』落ちている。これもみつばのしわざと考えられ、そしてその大量の紙きれの1枚1枚には、『童貞』、『包茎』、『隠れオタ』、さらには早漏、若ハゲ、インキン、マザコン、爪白癬…といった罵倒語らが書かれている。
するとわれらの矢部っちは、誰もどうとも言っていないのに『ボクの悪口が!!』と叫び(!)、泣きながらそれらの紙きれらを回収にかかるのだった。しかもその場面で彼が着ているTシャツの胸に、おそらくは『CHERRY』と書かれた文字列が見えている…とはごていねいな!(第1巻, p.52)

というものを見て、なぜか筆者は『よし。』とつぶやくのだ。なぜならば≪ギャグまんが≫たるもののヒーローとして、『童貞包茎』は大基本だからだ。
≪バカボンのパパ≫など妻子のあるようなキャラクターは別として、何といってもこの世界では、ヒーローのあり方としてそこらが原則。田丸浩史「ラブやん」のヒーローなんて、三十路すぎても童貞包茎なんだゾ!…と、別に力を込めて言うほどのことでもないが。
だいたいのところ≪ギャグまんが≫すべてにおいて、エロ話や下ネタを描きまくることは大いによいが、しかしそこでストレートな性交を描くことは、かなりよくない。ましてその性交が成功裡に終わり(?)、『ああ、いがっだ!』で結びになっていては、まったく話にならず問題外。
すまぬことだが筆者が西川魯介という作家を『とんでもないギャグ音痴』と見ている理由は、そこらにもある。…魯介先生の作品「野蛮の園」(2003, ジェッツコミックス)を参照、ふつうにヒーローが気持ちよく性交を愉しんでくれるとは、『アホか』としか。まあ、要するにそれはギャグまんがじゃない、何か異なるものなんだろうけれど。

だが、何ごとにも例外はあるもので、書いていたら思い出した。いまその本が手元にないけれど、山上たつひこ「喜劇新思想大系」(1972)の番外編にあった。
確かヒーローの春助クンらがぼったくり店で全裸に剥かれてしまい、だが勇敢にもその足で、キャバクラ的な他の店に行く。するとそこのマネージャーが、彼らのトゥーマッチな勇気(=狂気)におそれをなして、店の女性らに破格のサービスを命じる。そして…というお話だったが。
しかしわれわれは春助クンを、童貞でもなさそうだが主には、≪手淫道の探求者≫として見ているのだ。もしもそうじゃなかったら、彼がふつうに性交をしまくるようなお話だったなら、「喜劇新思想大系」が永遠(とわ)の名作として現在に伝わっているわけがない、と考える。

そうして、もしも『何もしなければ』、男なんて生き物らは童貞包茎に終始する(…のでは?)。しかしそのような純潔で汚れなき『地上の天使』のありがたみは、この現世にはまったくない。もしもそのまま天国に行ったなら、神さまがほめてくれるかも知れないけれど!
ところが『ギャグまんがのヒーローとして』、そのような人物らの使い道がりっぱに残っているわけだ。まったくどうでもいいような男キャラクターでさえも、紹介しておいてその後に『(童貞・包茎)』と付け加えれば、小ネタくらいには必ずなるわけだ。ハレルヤ、これこそは福音(?)だッ!

…とまでを自分で読み返して、『こんな結論を意図して書き始めたのだったか?』ということが、もはや思い出せない。以前の記事で見た要素たち、ルノアール兄弟「獣国志」に対抗しての『童貞論』、きんこうじたま「H -アッシュ-」に対抗しての『包茎論』、として今作を眺めてみよう…ということだったか?
また古いことを言ってごまかすと、やはり少年チャンピオンの掲載作の吾妻ひでお「ふたりと5人」(1972)、そのヒーローでスケベな中学生の≪おさむクン≫がまた、童貞包茎だったはず。しかし思い出そうとすると、その作中で彼は主に『短小ソーロー』として罵倒されていたような? このように時代の変化につれて、性的劣等性を罵倒するポイントも変わってくるようだ。

しかし1つのポイントとして、ありとあらゆる性的な罵倒をこうむっている矢部っちだが、他ならぬ『ロリコン』だけはふたばから言われていない。ここがちょっと面白い。なぜそうなっているのか。
まず、もしも矢部っちが「ラブやん」の描くようなまじもんのロリコン君だったなら、このお話はまったく別のものになってしまう。ゆえにありえない。
次に、われわれが見ているエピソードで、みつばは彼女なりに矢部っちの気をひくために、『それ』をやっている(らしい)。とすると、どうなのか? そのようなみつばの想念の中で、矢部っちがロリコンだということは、『まったくありえない』であるか『当然の前提』(!)であるかのどちらかだ。どちらであるにしろ、それは無意識へと≪抑圧≫されねばならない認識だ。

と思ったら、すかさずその次のエピソードで矢部っちは、善意のつもりで三女をかまっていたら、ひとはから『ロリコン…?』と指摘されてしまう。そこで青すじを立てて『違うよっ!!』と必死に言いぬける彼を見て、われわれは『否定は肯定である』というフロイトの正しいテーゼを、まいどのごとく思い出す(第1巻, p.57)。
がしかし現代の男なんてみんな多少はロリコンに決まっているので、そこはどうということはない(!?)。ところでこのように見てくると、「ラブやん」の超ロリコンヒーロー≪カズフサくん≫から見て矢部っちのポジションは、ひじょうにおいしいのか…と一瞬だけ思ったが、それもまた違う。
なぜならば、カズフサくんはロリ少女たちを≪天使≫に類するものと思い込んでいるのに、矢部っちは毎日『まったくそうではない』ということを痛いほど思い知らされているからだ。『痛いほど』も何も、じっさい物理的に痛すぎる現象らを通じてそれを!

さて、これ以上のおしゃべりは『「ラブやん」論』に流れそうなのでこのくらいにしておくけれど。どうであれ『この地上に≪天使≫の棲み家はない』という事実とつきあいながら、その≪外傷的≫な認識の(無意識への)抑圧をこころみながら、われわれは生きるのだ。6年3組のいたいけなボウヤたちも、そのクラスの童貞包茎担任教師も、そしてまた別の作品のヒーローも。

…と言って終わろうと思ったが、1つつけ加えておく。あまり自覚がないが、しかし筆者がいちおう男性なので、どうしても男子よりの見方になっている。そこでむりにでも、女子の側からもことを見ようとしてみると。
こんな場面が桜井のりお「みつどもえ」作中に、あったような、ありうるような気がする。女子たちがいつものごとく『変態!』、『あんたこそド変態!』、などとののしりあっていると、そこへ矢部っちが現れて、『よしなよ!』と女児らをいさめようとする。
ところがそこで『童貞は黙ってて!』と女子に言われたら、彼はすっこんでいるしかない(!?)。かくて女子の側から見ると、童貞は『裏返しの変態性』に他ならない。

すなわち。童貞クンをつかまえて女子たちが『キャハハ、キモーイ!』と嘲笑するようなお話があるようだが…今作もほぼそうだが、彼女らの想念の中で≪童貞≫は、りっぱな変質者とイコールになっているらしい。ゆえに、ただ単にダサいとかカッコ悪いとかいう範疇をこえて、『キモーイ!』とまで言われているのだ。

するとやっぱり、それはギャグまんがのネタとして好適なんだなあ…と、逆からも認識せざるをえない。ただし、1980'sまでのギャグまんがには、『童貞を笑う』なんて趣向はなかったわけで。それがこんにち描かれているのは、現在のギャグまんがが、びみょうにも性交を『ありうること』と前提しているからだ。
その逆に。かって永井豪「ハレンチ学園」(1968)を皮切りに、エロスなギャグまんががいろいろと存在したが、『童貞のくせに!』とののしられたそのヒーローは、めったにいない。かの「うる星やつら」(1978)の≪あたる君≫が童貞のくせに『女千人斬り』をめざすと公言していても、そこに突っ込んだ人物はいない。
なぜってもとより彼らにおいての性交が、それらの作品世界では『ありえざること』だったからだ。すなわち、かのあたる君はもてないから童貞なのではない。もてもての面倒君だって童貞だ。つまり、作品世界の内部的な縛りとして彼らは童貞だったのだ。ところがきょうびは、そこいらが変わってきているよなあ…と、筆者はここにて気がつくのだった。

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