2010/03/24

木多康昭「泣くようぐいす」 - 『本当の仲間=マシーン共同体』!

 
参考リンク:Wikipedia「泣くようぐいす」
関連記事:木多康昭「幕張」 - Another Brick in the Wall

関連記事で見たように、同じ媒体の先行作である「1・2のアッホ!!」(1976)の作風を継承した(?)、『野球部なのにヤキューしない系』のギャグまんが「幕張」。そしてこの「泣くようぐいす」は、その衝撃的な「幕張」が衝撃的にブツ斬れで終わってしまった後、少年ジャンプから少年マガジンに舞台を移して掲載された、木多康昭の作品の第2弾(KC少年マガジン, 全7巻)。ときに時代は、運命の西暦1999年。

で、けっきょく今作「泣くようぐいす」は、「幕張」以上のブツ斬れ具合を示して終わってしまっている。それも「幕張」は作者の意思で終わったような話が聞こえているけれど、こちらは恐怖の魔王…じゃなくて媒体のつごう、要するに打ち切りで。
何がまずかったのかって考えたら、今作はけっこう野球をやっちゃってたのがよくなかったのだろうか? いくら野球部のお話だからって、野球しちゃ~負けじゃん! …うんぬんと、今作を笑いものにしてやろう的な邪心を少しはもって、筆者はこの堕文を書き始めたが。
けれどもちょっこし実作を読み返してみたら、『そういうもんじゃないな』と感じた。というか、笑ってやるつもりで見ていたら『逆に』笑かされてしまったので、気持ちを仕切り直して!

さて木多センセのこれおよび、現在ヤンマガで連載中の「喧嘩商売」とあわせ、びみょうにもまともくさい劇画、スポ根っぽい展開がしばらく続いて、それがおかしいタイミングでギャグまんがになって、またそれが続くとか、そうしたきわめてふしぎな作品になっている。
どうしてそうなるのだろうか? 今作についてみて1つの言い方をすると、これは主人公の≪うぐいす君≫が、野球をやったりケンカをしたりナンパ的な行動をしたり、というお話だとして…。
にしても彼が、野球をがんばっているときにはナンパ的なことは考えていない、かというと、まったくそうではない。そもそも彼が多少は野球をがんばろうかと思う理由自体が、かなりナンパ系のものだし。
と、いうよりも。底流的には常に、どんなときであっても、エロいことや幼稚な夢想や下劣な陰謀やしょうもなき芸能ゴシップたちが、彼の頭の中の一部分を、いやその大部分を駆けめぐっているのだ。で、それらがこちらの思わぬタイミングで言動にまで出てくるので、見ているわれわれは衝撃をこうむるのだ。

 ――― 木多康昭「泣くようぐいす」第1巻, 『第5話 泣くな, うぐいす!!』より ―――
恋がたきのピッチャーが属するよその野球部になぐり込んで、バッティング勝負を挑むうぐいす君。そこへ敵側のキャッチャーの太っちょ君が何やかや言ってくるので、うぐいす君は初対面の彼に、『俺に話しかけるな 陥没乳首のくせに』と言う。
すると夕刻のグラウンドの叙景をバックに、『<解説> デブには 陥没乳首が 多い』と、ナレーションが現れる。そして図星をさされた太っちょ君は、男泣きしながら『おのれええええ~』と、激怒しうらみの炎を燃やす。
『やっぱ 伊集院君は 陥没乳首 だったか』
『誰が 伊集院だ!! 勝手に名づけ るな!!』
よくわからないが、『伊集院』とはタレントの伊集院光のことか。そしてこれらを遠めから見ている敵野球部のコーチは、伊集院クンについて『めずらしく 燃えとるな』と言って感心する。

ギャグまんがのヒーローであれば常にそうかもだが、ふつうの人々が≪抑圧≫しているような想念を、彼はそんなには抑圧していない、という違いがありげ。つまり、『いかなるときでもくだらぬ下品でエロいことを考えている』とは“誰も”のことなのだが(!)、そしてうぐいす君らギャグまんがのヒーローたちは、その外傷的な事実をことさらに顕示してみせることで、われわれ一般人らに≪衝撃=笑撃≫を与えている。
しかもシリアスめいた展開をもり上げておけばおくほどに、その後の≪衝撃=笑撃≫の効果は高まるだろう。ただし筆者を感動させているのは、今作のギャグ要素が、シリアスまんがの中の『コミック・リリーフ』などという境地を、はるかに超越していることだ。

 ――― 木多康昭「泣くようぐいす」第4巻, 『第24話 発覚!? 御供マシーン!!』より ―――
かってにライバルと見込んだ他校との練習試合が、『事実上の敗戦』的なノーゲームに終わる。そしてシュンとしちゃった少年たちが帰りのしたくをしていると、女子マネージャーの≪御供≫のカバンから、バイブレーター的な『マシーン』が転がり出てくる。それで妄想にドカンと火がついて、さっきの試合のことなどは完全に忘れて(!)、少年たちは大フィーバー!
だが、追ってそこへ現れた御供は、『おしかったね』等々と、きわめてまともな反応に終始。そのマシーン自体を目の前につきつけられてもキョトンとしているばかりなので、思わず少年たちは逆ギレ! そうすると、こいつらが御供のだと思い込んでいたカバンは、バカ野球部のナメられている監督のものだと判明。
そこで少年たちは、こんどは監督を取り囲んでマシーンを示し、『いいもん 持ってん じゃんか』…と迫る。するとひるみ気味な反応を返した監督に対して、しかしうぐいす君は、『そうじゃないんだよ “先生”』と言う。
そして少年たちはさわやかな微笑みを監督に向けて、彼をその場で胴上げするのだった。そうして彼らは『本当の仲間』になった、『バラバラだった ナインが 今 一つとなった』…というわけなのだった。

しかもこのエピソード中、『本当の仲間』という文字には、何と『マシーン共同体』というルビが振られている(第4巻, p.57)。『本当の仲間=マシーン共同体』という認識(!)、それが示しているふかしぎな真実味と狂おしさ。
また「泣くようぐいす」という作品のこの後で、ヤキューとは何の関係もなく、パワードスーツ様のものを装備して人間が≪マシーン≫を演じる、というモチーフが目立っている。そしてそこでは認識の向きが逆になって、『マシーン共同体=本当の仲間』、となるわけだ。
かつご紹介のエピソードをきっかけにして、野球というモチーフは今作のすみっこに追いやられてしまうのだった。野球で結束できなかった生徒と教師たちは、その地点で、エログロナンセンスで≪ひとつ≫になったのだ。

セックス・ピストルズ「勝手にしやがれ」
マシーンといえば、そういえば。かのセックス・ピストルズによるロック史上最大の崇高さをきわめた超銘盤「勝手にしやがれ」(1977)には、『人間機械 human-machine』という語が2回も出てくるのだが(「God Save the Queen」と、「Problems」で)。
かつまたその詩句が、同じ1970'sの≪テクノ≫の至高作たるクラフトワーク「人間解体 Man-Machine」、および人間存在を『欲望機械』と言い換えてみたドゥルーズ+ガタリの言説らとシンクロしつつ(?)。そうして人間観というものをエログロナンセンスの方から(方まで)突きつめていったときに、≪マシーン≫のイメージはどういうわけか、そこに飛び出てくる。

 ――― 木多康昭「泣くようぐいす」第6巻, 『第43話 剛田のビーム!?』より ―――
第4巻からうぐいす君に刺客を送ってきている≪剛田くん≫、かのジャイアンを劇画に描いたようなキャラクター。彼との対決の大詰めでうぐいす君は、『なぜお前は 俺に恨みを もったんだ』と、たずねる。
そうすると剛田くんは、かってうぐいす君が剛田くんの父親の葬式で、その死体を使って腹話術を演じたこと(!)、そして参列者らのびみょうな受けをとったこと(!)、これを言い出して、またその場でくやし涙を流すのだった。
しかしうぐいす君は、『典型的な 逆恨み だな』と、とりあわない。そして野球部の顧問もうぐいす君の味方をして、そういえば…と、たいへんなことを言い出しやがるのだった。
『フッ 俺も 気がひけ ながらも 堀江しのぶ の没後に 写真集で オナニーした』
『そ そうか‥‥』(汗)

これこそが、『マシーン共同体』のりくつだ。ここにもまた、人間存在があったことの証しであるものを≪マシーン≫同然に扱うような実践と言説があるのだ。さらにうぐいす君は、剛田くんの父の死体に警備員の制服を着せてバイト代を稼いだとか(!)、そんな秘話までも明らかにされつつ。

で、それでほんとうに剛田くんは怒り心頭に発し、シャツを脱ぎ棄てて『かかって 来いや!!!』と、叫ぶ。しかしそのブヨついた体を見てうぐいす君らは、『フン‥‥ 乳首が 陥没してる ヤツとは 戦えんな』と、その挑撥を一笑に付す。かくてここに、再び≪陥没乳首≫というモチーフが回帰しているのだった。
とはまたいったい、どういうフォルマリズム的な創作なのだろうか? まあ、われわれから見るとこの≪陥没乳首≫という重要モチーフが、『去勢のシニフィアン』であるということまでは確かだけれど(…シニフィアンとは、意味不明だが意味ありげな記号)。

そしてエログロナンセンスを媒介に≪ひとつ≫になってしまったヤキュー部員らは、もはや野球をやるというところには戻れないのだった。かつ、それに並行した楽屋落ちのエピソードが、第6巻の巻末おまけまんがに描かれている。

 ――― 木多康昭「泣くようぐいす」第6巻, 『泣くよK』最終話より ―――
われらの木多康昭センセがついつい、アシスタントらの前で、『俺は金のために漫画家を やっている』と、はっきり断言してしまう。それを聞いてアシスタントらは、まんがへの純粋な情熱を忘れやがって!、等々と、センセに対して怒る。
けれども木多センセは彼らに冷笑を返し、『君達だって 金のために 漫画家 目指しとるんと ちゃうん?』と言う。さもなくば、どうしてメジャー週刊少年誌だけに作品を持ち込むのか、と逆にツッコむ。
するとアシスタントらは、何も言い返せない。そして、夜の街にイヌの遠吠えが響く。
そこからめくったところのド見開きで、月と夜空を背景に木多ファミリーはズラリと並び、それぞれにカッコいいらしきポーズをキメており。そしてその絵図の両サイドにやたらデカい文字のナレーションで、『そして彼等は 一つになった!!!』、とあるのだった。

かくて。まんがへの情熱では結束できなかった木多ファミリーは、『金のため』というところで≪ひとつ≫になれたのだ。いや別にそのことが事実かどうかはどうでもよくて、同じかたちのエピソードの反復があるな、ということ。
そして。まんが家稼業が、『金のため』という目的のみでやっていけるものかどうかは知らないが…いや、それまた別にどうでもいいが。

ともあれ、『マシーン共同体』になってしまった作中の少年たちは、もはや野球を取りもどすことができないのだった。あまり詳細には言いたくないことだが、今作の後半のどこかには、すんばらしい夢オチでお話に≪切断≫がかまされている個所がある。そしてそのどんでん返しで打ち消されているのは、ストレンジではあるけれどいちおうスポ根っぽく展開していたエピソードらだ。
そうした夢から目がさめた主人公≪うぐいす君≫の前には、彼たちの取り返しのつかない悪ふざけ、そのどうしようもなき結果だけが転がっているのだった。そして、野球どころかもっといろいろな多くのものを失ってしまいそうなうぐいす君は、天に向かって叫ぶ。

 『逃げきってやる!! この爆弾入りの 首輪をはずして』(第7巻, p.167)

その期に及んで、「バトル・ロワイアル」にひっかけたギャグをとばしているのだ。そういえば冒頭から、うぐいす君が、へんな金属のチョーカーみたいのを着けているな…とは思っていたが。しかしまさか、それがさいごに効いてくる伏線だとは、まったく思いもよらなかった。

かくて。ふつうのギャグまんがのヒーローたちはその悪ふざけの責任をとらないのに、うぐいす君はまったくふつうに、その行動らの責任を問われるのだった。
また一方で。他の作品、たとえば土塚理弘「清村くんと杉小路くん」シリーズ(*)で、珍しくまともなサッカーまんがになるのかと思ったらさいごに大き~く堕とす、という方向性があるけれど(第14話『清村くんと新必殺技』など)。けれどもそれは、『オチがついたら終わり→リセットして再開へ』というギャグまんがのお約束の中でやっているわけだ。
それに対して木多センセの創作は、お約束のない世界(=現実)へと踏み込んでいる。『リセットできない世界』、つまりわれわれの現実と等価な世界で、その作中人物たちは『取り返しのつかない悪ふざけ』を演じているのだ。

するとこの「泣くようぐいす」以降の木多センセの創作は、『お約束満載の“ギャグまんが”』をも、『コミック・リリーフを多めに含む“シリアスまんが”』をも、そのいずれをも撥無した、まったく新しい世界に踏み込んでいるのではなかろうか?
以前にわれわれが、施川ユウキ「がんばれ酢めし疑獄!!」に見たテーゼによると、『夢オチの後の現実を フィクションの中で 語るコトは出来ない』(*)。そうして今作「泣くようぐいす」という作品もまた、現実っぽくじょうずに描かれたフィクションであるのではなく、『(不ゆかいだが、)現実しか存在しない』という外傷的な認識を返す≪もの≫として、りっぱに破綻したものとして、ここにみごとなブツ斬れで終わっている。

それこれ見てくると今作は、バカっぽい野球まんがとしていちおうまとまった作品になるよりも、むしろ現状あるままで、ひじょうに正しい≪ギャグまんが≫として結ばれているような気もしてくるのだった。
すなわち。人がまともにヤキューに取り組むようなことはほとんど夢想でしかありえず、そしてうぐいす君を代表とするわれわれは、甲子園を目指す的なデカいことをちょこっと夢みつつも、しかしまったく悪ふざけに等しいことに、その生きる時間を費やすのだ。…と聞いてまったく身におぼえのない方々のみが、今作のむざんなオチ方と、ご覧の堕文のむしょうなくだらなさとを、ぞんぶんに愉しくご嘲笑なさるがよし。

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