2010/03/16
東野圭吾+間瀬元朗「HEADS ヘッズ」 vs.「ドグラ・マグラ」 - 脳髄は物を考へる処に非ず
参考リンク:Wikipedia「間瀬元朗」 , 同「東野圭吾」, 同「ドグラ・マグラ」, 青空文庫「ドグラ・マグラ」
まずは、「HEADS」というまんがについて。よくは知らないが高名らしきベストセラー作家の原作による、2002年の医療サスペンス作品(ヤングサンデーコミックス, 全4巻)。
そして掲載誌がヤングサンデーというだけで『悪趣味な作品に違いない』と思い込む、そんな筆者の偏見の深さ(…今作は、そこそこ)。なお、正しい題名表記は『HE∀DS』と、Aが逆転している字。
それはどんなお話かというと、美術を愛する若い工員で小心者のヒーローが強盗事件に巻き込まれ、頭部に銃撃を受けて、瀕死の重傷を負う。それから病院のベッド上で意識を取り戻したものの、≪何か≫がいろいろとおかしい。自分が自分でない感じ。
やがて彼が知ったのは、彼が治療の過程で、世界でも初めての『脳組織の移植』を受けて蘇ったということだった。でまあ手っとり早く申せば、移植ドナーの人格が脳組織から、彼の人格を侵蝕していくというお話なのだった。そしてそのドナーが何ものなのか、ということがまた問題だが。
さいしょにささいな感想を書いておくと、まんが作品らの中に、『脳をいじられた人間』独特の相貌の系譜みたいなものがあるな、と気づく。脳手術を受けた後なのでスキンヘッドか超短髪であり、後者の場合はしばしば、その髪が逆立っている。あわせて≪火星ちゃん≫風に、頭デッカチぎみな場合もある。そしてその顔つきは、目がやたら大きく、知的なようにも冷血兇悪そうにも見える、と。
筆者の知るその系譜の古いところは、宮谷一彦の超まぼろしの作品「キャメル」(1975)のヒーローだ。現在それは有志の尽力によりWebで読めるので、「HEADS」に興味を抱かれるような方にはぜひ、ご閲覧をおすすめいたす(→こちらにて)。
あと、大友克洋「AKIRA」(1982)のかたき役≪鉄雄≫。彼の場合は外科的ではなく、内科的に脳をいじられているわけだが。それと手塚治虫「ブラック・ジャック」の脇役にも、この系列の人がいたような気が。また手塚といったら今作「HEADS」は、脳の半分をコンピュータに入れ換えられたヒーローを描く「火の鳥 復活編」(1970)のパロディになっているような気もしつつ。
ところで。筆者は現代の小説は読まないけれど、夢野久作「ドグラ・マグラ」(1935)がものすごい傑作だということは知っている。そしてそっちの作品は、まったくの逆方向からこのような問題を扱っている。
まずその作品の主人公たる青年がベッドの上で目ざめると、自分が何ものかが分からないのでパニックに陥りかける。やがて若林博士という医師が現れて、その場所が九州大学の精神科の病棟だ等々と説明し、そして『自分の名前が思い出せるか否かが、あなたの治療の一大ポイント』と言う。
先廻りになるが、この主人公にとって、『自分が“その自分”であることを受けとめきれるか否か』が、まさしくポイントなのだ。けれどもお話はそのかんじんな方にまっすぐには進まず、これまた重要な人物…主人公のもとの主治医だった故人、正木教授の事蹟、という方に展開する。この型破りで大革新的な精神医学者の持論は、『脳髄は物を考える処に非ず』だったというのだ。
―― 夢野久作「ドグラ・マグラ」, 『絶対探偵小説 脳髄は物を考える処に非ず』より ――
『吾々の精神……もしくは生命意識はドコにも無い(引用者注、感覚や意識や想念らは、脳の中にあるのではない)。吾々の全身の到る処に満ち満ちているのだ。脳髄を持たない下等動物とオンナジ事なんだ。
お尻を抓(つ)ねればお尻が痛いのだ。お腹が空くとお腹が空くのだ。
頗(すこぶ)る簡単明瞭なんだ。
しかしこれだけでは、あんまり簡単明瞭過ぎて、わかり難(にく)いかも知れないから、今すこし砕いて説明すると、吾々が常住不断に意識しているところのアラユル慾望、感情、意志、記憶、判断、信念なぞいうものの一切合財は、吾々の全身三十兆の細胞の一粒一粒毎に、絶対の平等さで、おんなじように籠もっているのだ。そうして脳髄は、その全身の細胞の一粒一粒の意識の内容を、全身の細胞の一粒一粒毎に洩れなく反射交感する仲介の機能だけを受持っている細胞の一団に過ぎないのだ』
というわけなのだが、いま読み返してみたら、筆者の記憶とは異なる部分があった。いま引用されたものは、正木教授の主張とイコールではなさげ。彼の病棟の患者である≪アンポンタン・ポカン氏=主人公≫が、その病相が躁状態に近いときに語ったところを『興味深い』として、正木教授が紹介している(らしい)のだ。
そうして正木教授は、ポカン氏の学説を紹介し終えると、
『「脳髄が物を考える」という従来の考え方を、脳髄の中で突き詰めて来ると「脳髄は物を考える処に非ず」という結論が生れて来る……という事実はモウわかったとして、その「考える処に非ず」をモウ一つタタキ上げて行くと、トドの詰りが又もや最初の「物を考えるところ」に逆戻りして来るという奇々妙々、怪々不可思議を極めた吾輩独特の精神科学式ドウドウメグリの原則までおわかりになるという……』
と、まったくどうにもならないことを言って、聞き手の新聞記者にはぐらかしをかますのだった。
ちなみに夢野久作独特の文体として、ご覧のように、ヘンにカタカナ表記を多用してるワケだケド。コレが気に入って筆者も一時期、けっこうマネしておりマシタ!
ところで。やがて正木教授のお説はだんだんと過激になってきて、しまいには『生体を構成するたった1つの細胞すらが、“すべて”を憶えている』という主張になる。『すべて』とはどういうすべてかというと、地球上に生命が誕生して以来の『すべて』だ(!)。う~む。
関連してわれわれが興味をもっている精神分析の主張として、実は人間には『忘却』という現象はまったくない(!)、ただそれらは無意識へと抑圧されているばかりなのだ、というが。で、さすがの筆者もその『すべて』の主張ばかりは、100%うのみにできかねるのだが…。
(またユンク一派の『集合的無意識』という面白チン説もあるが、それは問題とするに値しない)
かくして「ドグラ・マグラ」という作品に書かれたこととして、『脳が考えているわけではない』、でありつつ(ここは現実に照らしてもうなづける)。そして、『むしろすべての細胞が考えている』というところを起点として、とほうもないお説が飛び出しているのだった。
しかしだ。『脳が考えているわけではない』、というところから『むしろすべての“細胞”1つ1つが考えている』を導き出すことは、地味な還元論をいったん否定してから、大胆きわまる還元論を新たに繰り出している、ということではなかろうか。『1つの生体が考えている』、というべきではないのか。
(なおかつ、われわれが『考える』とは、必ずことばを使って考えるわけなので、むしろ『ことばが考えている』とも言いうる。そうして、ことばの自己増殖の媒介として人体が使われているのかも、という見方はぜひ保留されとくべき)
そこいらにお話上のトリックがあるな…とは思うのだが、しかし面白い。ホラ話として「ドグラ・マグラ」は、ひじょうに面白い。
なおいろいろと思うところがあって、例によってこれもまた≪オイディプス神話≫の派生物だと見うるのだが。けどまあそれらの論点は、たぶんやらない『「ドグラ・マグラ」論』で書くということにして。
で、やっと話が「HEADS」に戻るのだけど。筆者においてはこのお話が、すでに述べた『移植ドナーの人格が脳組織から、主人公の人格を侵蝕していく』ということを、何ら意外性の演出もなきまま、ただめんめんと描いているだけ、というところに大きな退屈を感じる。
だから『そんなことがあるのか?』という疑問を、ここで検討してみる気にもならない。かつまたドナーの正体にしても『まったく意外性ねえな』、と感じた。それと大学病院のえらい先生が、テレパシーの実在などをあっさり認めるのも描写が軽い(第3巻, p.124)。
ところでだが、移植ドナーの人格の、突発的な兇暴性、そして極端な潔癖症、というところが「HEADS」作中で問題になる。ヒーローがそれを自分の兄のことと偽って精神科で相談すると、医師はその症状を、『一種の“エディプス・コンプレックス”という 見方ができますね』、と言うのだった(第3巻, p.158)。
と、聞いて。筆者の中には兇暴性や潔癖症と≪エディプス・コンプレックス≫とのつながりがなかったので、『おや?』と感じた。しかし調べてみたら、『フロイトはエディプスをあらゆる(略)神経症の核として位置づけた』(シェママ他編「新版 精神分析事典」, p.216)、とのこと。さすれば“すべて”の症状をエディプス・コンプレックスに還元することは、じゅうぶんに可能だ(!)。
しかも万人が段階としてのそれを必ず経ていると見ているわけだから、『彼は、あなたは、私は、エディプス・コンプレックスだ』という言表に、何の意味があるやらないのやら? もしもそんなことばっかし言ってるのだとしたら、人々が精神分析を懐疑的に見ることに何のふしぎもない!
だが確かに言えることが、1つはある。「HEADS」作中の精神科医は≪エディプス・コンプレックス≫について、『本人に原因を認識・自覚させることで ほぼ治せます』というが、しかしその『認識・自覚』とやらがどうにもできないことなのだ。
さっき「ドグラ・マグラ」に関しても述べたことで、『自分が“その自分”であることを受けとめきれるか否か』が、常に大問題なのだ。そのことは別に、病んでいる方々ばかりの問題ではない。
で、もしも『私はエディプス・コンプレックスです』という言表行為があったとしても、それで主体がそのことを『自覚』しているということにはならないのだ。そのひじょうにできない『自覚』にいたるために精神分析は、『短くても1年』とかのような長い分析期間を費やすのだ。
よってそんなかんたんに『認識・自覚させれば治せます』というものではないし、そもそも≪エディプス・コンプレックス≫は、病名では『ない』。ここを誤解してはいけない。
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