2010/03/20

nini「DRAGON SISTER! 三國志 百花繚乱」 - 三国志関係のまんが その7

 
参考リンク:Wikipedia「DRAGON SISTER! 三國志 百花繚乱」

性別改変の三国志まんがとしては、わりと古いほうの作品。筆者のまったく知らない『コミックブレイド』という媒体とその関連誌に、2002~2008年に掲載(ブレイドコミックス, 全6巻)。
で、自分がひじょうにつまらない話せないやつで申し訳ないが、『三国志キャラクターを女の子に変換』という趣向が…。現在わりに好まれているかのようだが、ちょっと分かりません。
うそ、ぜんぜん分からないということはない。これはつまり、『“誰も”が自分を、女の子だと考えている』という、いまの人々の心の傾向に即したことではある。

どういうことかって、たとえば。「あしたのジョー」を超HOTに愛読している人(「編集王」の主人公か)、彼は『自分は矢吹丈である』と考えたがっている。むしろ無意識においては、『そうである』と考えている。
しかしもちろん意識の上では『自分は矢吹丈では“ない”』と考えているわけで、ここにおいてわれわれの正しいテーゼは常のごとく妥当する。『“否定”は、肯定である。意識における否定は、無意識における肯定である』。
という事実に対応して、女の子ばっかしが出てくるまんがを熱心に読んでいる殿方たちは、『自分は女の子である』と考えたがっており、むしろ無意識においては『そうである』と考えている。そこまでは、ひじょうに明らか。
で、そうとはしても、そんな趣向に応じた作品らのプレゼンスが、メジャーの少年誌や青年誌にてさえも大いにあるというのが、このご時世のふしぎなところだ。

 ――― 野中英次+亜桜まる「だぶるじぇい」第1巻, 第6話より ―――
まんが家志望のキャラクター鳥羽少年、その作風は彼のご先祖という鳥羽僧正の直系で、あまりにも平安時代タッチでオールドウェイブ。
そんなのではデビューできないと思って彼の妹は、『いまのフツーのまんがは、こういうのよ』などと言って、現在の少年マガジンを鳥羽くんに見せる。すると彼は、驚愕する。
『こ……これは!? 微妙に目のでかい 女学生が出てきて 何のへんてつもない 日常会話をしてる だけだが……!?』

筆者はよく知らないが、かって「あしたのジョー」の掲載誌だったマガジンの誌面が、いまではそういうものらしい。たとえば「あずまんが大王」や「らきすた」みたいな、そんな作品ばかりが載ってる媒体になり下がっているらしい。いや、そんなんだと「はじめの一歩」はどこに載ってるんだ、という話になるけれど。

そしていま見た鳥羽兄妹の会話には、もう少し続きがある(p.59)。

 『こんな フツーのものが 良い訳ないだろ !!』
 『いや…… フツーでいいのよ フツーで…… みんな「フツー」の ものを求めているの』

しかし。女学生どうしの日常会話はふつうの現象かもしれないが、そんなシーンの描写ばかりが載っている少年まんが誌の存在は、あまりふつうでない感じだ。ところが一部の方々は、その状態を『フツー』だと考えたがっているのだ。

ま、いいや、話を「DRAGON SISTER! 三國志 百花繚乱」の方に返して。見ていると、作中の性別改変というかギャル化について、そのプロローグでいちおうの言い訳が描かれているところに、作者サマの誠意を筆者は感じたのだった。
すなわちこのギャル化現象は、後の黄巾のボス張角の呪術に起因する。彼は自分らの野望をじゃまするような英雄英傑らが、力なく生まれてくるような呪いをかける。ついでに彼らが女子として生まれてくれば、いっそうよいかもと考える。
するとその呪術がいちおう成功した気味なのだが、しかし悪意の術を使ったことへの天罰か何かで、まずは張家のむさっ苦しい3兄弟が、プチプチっとしたロリータ少女になってしまう。…きめェ! ただしこのキモさは、『自分は女の子である』と考えたがっている“われわれ”の中のキモさ、そのすなおな反映ではありつつ。

で、時は流れ。その次の場面で、美少女の関羽張飛が、あるじなき流浪の志士として登場する。と、『美少女の関羽張飛』と書いただけでもひじょうにキモいと思うので、どうにも筆者にはこういう趣向がほんとにだめだ。
そして2人は、むしろ売りの劉備玄徳と出会うのだが。しかし劉備の性別が変わっていないのは、やはり彼ごとき『英雄英傑』のうちに入らないからなのだろうか…ッ!?

ところで筆者を感心させたのは、この性別改変の設定によって、三国志物語の中に一般的に存在するふかしぎに、1つの説明がついていることだ。つまり、きわめてすぐれた関羽張飛という人材が、なぜ劉備ごときむしろ売りの兄弟分(今作では『兄妹分』)になったのか、というふかしぎ。
なぜかって、『この時代 女性が武芸で 身を立てることは考えられず』(第1巻, p.15)。よってまともな武将らが、彼女たちを雇ったりはしなかったので、というわけ。

とまあ、そこまではよかったんだけど。だが、それに続いて登場してくる人物らの、曹操の部下の夏侯トンと夏侯淵が女性、さらに董卓などは本人が女性。
え~ッ? そんなありさまでは、さいしょの設定の効果と説得力が大いにブッ飛んでるように思うんだけど…!?

で、その後は、まあ『フツー』に展開。このようなお話を『フツー』と感じる方々にとってはふつうなことらが描かれ、物語は長坂の役を何とか劉備らが逃げ切るところで終わっている。
ひとつ思うのは、曹操がアニメの『美形悪役』チックな冷血漢として描かれている、そこにまたちょっと今作のアクセントがある。例によってこれも美少女の曹仁が、新野城外戦の借りを返すため…というか彼女が愛する曹操にいいところを見せたくて、関羽に一騎討ちを挑む。がしかし敗れて、かわいそうに死んでしまう(第6巻, p.156)。
すると曹操は眉ひとつ動かさず、『中々やるではないか』と言って、関羽をさっそく自軍にリクルートしようとするのだった。いま目の前で、彼のために死んだ曹仁の後がまとして! そこで今作のメインヒロイン格の関羽チャンは、『そうではない』的なことを言う。

だいたい三国志の物語というものは、劉備と曹操との対立、政治的な対立およびキャラクター的な対立、それを軸に描かれるのが基本で、すかさず今作もそうなっているのだ。ただしそれぞれの子分のほとんどが女性なので、それだと筆者は今作について、まるで諸星あたる君と面倒クンのケンカを見ているような気分になってくるのだった。

そしてこの物語が長坂敗走のエピソードで終わっているわけだが、もうちょっと続きがあったなら、『劉備 - 関羽 - 曹操』の三角関係メロドラマで盛り上げることも可能だったかと。いやなやつとは思いつつ、しかし曹操にもひかれるところがある…という関羽チャンの心境を描くようなこともできたかと。
でも、いやだ。『ヒロインは関羽』というその設定のところで、もう筆者には、すみませんけどごめんなさい、としか言えないのだった。

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