2010/03/12

寺嶋裕二「ダイヤのA」 - もはや巨乳は単なる巨乳ではない

 
参考リンク:Wikipedia「ダイヤのA」

少年マガジン連載中の高校野球まんが、2007年小学館漫画賞(少年部門)受賞。その単行本(KC少年マガジン)は、18~19巻あたりの時点で累計500万部突破。筆者は今作の連載・第1話を(珍しく)掲載誌で読んでいて、当時けっこう印象がよかったので、こんどまとめて目を通した、というしだい。

で、まず。野球まんがで「ダイヤのA」というからには、すごいエース(主力投手)を描くお話になるのかなと、初めて今作を見たころの筆者は『すなお』に思っていたのだが。
ところが意外にそうではなくて、主人公らの属する野球部には、絶対的なエースがいない。一長一短な4人のピッチャーによる小器用な継投策で、夏の甲子園への予選を闘っている。それが第19巻までも出ていて、いまだに1年目の大会の予選の最中というから、「スラムダンク」ほどじゃないけれど、のんびりと展開しているお話ではある。

ただし作中の人々は、『絶対的なエース』の不在をよしとはしていない。むしろそれは、大いに望まれている。
チームを支えながらチームに支えられ、連携しながら孤独に闘いぬく≪エース≫。チームの闘いでありながら個の闘いでもあるという『野球』というスポーツの矛盾を、その身に背負ってその力でそのつど解決する≪エース≫。
それが大いにいるべきなのだが現状はいないので、主人公らの型破りな1年ボーズ2人が、いつかそこまでに育ってくれれば…というお話になっている。かつ、どちらかといえば、いま言ったような≪エース≫は、ライバルチームらの方に、よっぽどそれらしいのがいるのだった。

さて筆者は現在は野球に興味がないけれど、まあむかしの野球まんがの傑作らは、いくつか読んでいる。「巨人の星」、「男どアホウ甲子園」、「アストロ球団」、「ドカベン」、「キャプテン」…と、そのくらいか。
それらに比べたら、今作「ダイヤのA」という作品の『エースがいないのでエースを育てる』というテーマ性には、何かひじょうに逆向きなものを感じるのだった。反動的というのではなくて、問題の立て方が逆向きなので新しいな、と。かつそれがたぶん、21世紀の現代的な野球観に即したものになっているのかな、と。
そういえば今作について、その試合過程の描写が、むかしの野球まんがとは異なる。今作では『点が入る』というところの描写がわりに淡白で、しかもたいていは大量点の獲りあいになっているので、まるでその展開がバスケットみたいだ。けれども現代のベースボールとは、そういう感じのものなのかも知れない。

逆向きというなら、もう1つ。いま題名が出た大むかしの傑作野球まんがらの、学生野球を描いている部分はすべて、『弱小校がブレイクを目ざす』というお話になっている。「男どアホウ甲子園」の後半なんかごていねいで、どアホウの主人公がカンニングで東京大学に入り(!)、6大学リーグで東大を優勝させようというお話になっている。…言うまでもなさそうだが、当時6大学で東大はひじょうに弱かった。いまは知らないけど。
ところが今作「ダイヤのA」は、いわゆる野球名門校のお話だ。名門であっても近年は甲子園にまで行けてないので、古豪の復活を目ざす、ということだが。
すると。中学野球ではまったく名を売っていなかった主人公にとっては、野球でどうしようと『失うものは何もない』。ところがチームにとっては、『現状は瀬戸ぎわ、これ以上は落ちられない』と、個と集団の闘いのベクトルが異なっている。
まあ筆者のようなむかしからのまんが読みにしてみたら、『野ザルのような主人公が規律ある集団の中で、その一員として鍛えられていく』、というお話は、それ自体としてはあまり好きじゃない。はっきり申して、横紙破りなヒーローが好きかってに暴れまくるお話が好きだ。かつ、バカだけどわりかしすなおに集団の中に溶け込んでいく、という今作のヒーロー像が意外と男っぽくない、むしろ女の子みたいだ、という気もしつつ。

もうひとつ特異なのは、今作では、主人公に対して同格のライバルがチーム内にいる、ということだ。同学年に主人公と同じピッチャーがいて、ポジションを争っている。ただしどちらも半人前なので、ライバルがやや有利でありつつも、継投策の中で両雄が並び立っているのだが。
これと似たようなことを描いた野球まんがというものが、ちょっと思い出せない。が、そうは言っても現代野球のピッチャー同士のライバル関係なんてそんなに深刻でもなくて、もしも正捕手を争うようなお話だったなら、もっとふんいきが重くなっていただろうけど。キャッチャーなんて、めったに換えないんだから。

ああ…。ここまで書いてきて、やっとこ筆者は気がついた。つまりわれわれが『もっとも現代的なサッカーまんが』と認めたツジトモ「GIANT KILLING」(関連記事はここ)に等しく、今作「ダイヤのA」でもまた、真に闘っているのは、両チームのコーチとコーチなのだ。
こちらは野球のお話なので、マネージャー対マネージャー、というべきか。今作は一見ふつうのスポ根まんがとして、1人の選手たる主人公の運命と行動を描いているようでありながら(?)、しかしお話の根幹をなす闘いは、両チームのマネージャーがそれぞれのプランや信念をぶつけあう、そこに力点がある。

そういえばむかしの作品について、『「ドカベン」の明訓高校の監督はどんな人だった?』ということを聞かれたら、まったく憶えていない自分がいる。がしかし今作「ダイヤのA」では、主人公チームの監督はもちろん、他チームの監督らも個性的で、かんたんには忘れられそうもない。特に印象的だったのが、2人。
まずは、薬師高校の轟コーチ。彼はふだんが無軌道なバクチ打ちで生活力ゼロで、その息子を超逆境において『逆に』スパルタで鍛え上げたという、ひじょうにまんがチックな人物。実を言ってこういうお話の方が、筆者は好みだ。そしてこいつが選手らに向かって『オレを甲子園に連れてってくれ!』と、≪南ちゃん≫みたいな恥ずかしいことを言うのだった。
もう1人は桜沢高校の菊川早苗コーチ、通称は≪教授≫。早苗といってもこの人は初老すぎの小柄な長髪の男性で、本人はスポーツマンではなく学者。何かのまちがいで超進学校の最弱な野球部の顧問になってしまった彼は、ある年の新入部員たちの情熱に心を打たれて、野球理論とコーチングを猛烈に研究し始める。そしてその翌年の現大会、彼たちはシード校をも撃破して、西東京地区のベスト4にまで進むのだ。

かくて。『ハングリー精神』などと言うもおろかな無手勝流でワイルドに高校野球を暴れている薬師と、ほんとうにピュアな情熱のままに自分たちを鍛えプレーを楽しんでいる桜沢と。筆者にしてみればこの2校の野球の方が、まんがの主題として魅力的だ、面白い、と感じるのだった。
ところが今作「ダイヤのA」は、何かある種の職業的な使命感(?)、エリートとしての矜持(?)、というあたりで野球をしている主人公らのチームを、その中心として描くのだった。ここで今作と「GIANT KILLING」の方向性が、大きく異なってくる。『反骨精神』のない者が「GIANT KILLING」という作品につきあいきれるということはなさそうだが、逆に今作には反骨精神が『ない』。

そうすると今作は、その作中で薬師と桜沢があらわしている≪自由≫、野球における自由、アマチュアスポーツの自由、しがらみからの自由、1つのボールを前にしての自由を、トータルでは否定しているものなのだろうか? まあそれが現代野球の≪リアリズム≫、といえばそうなのだろうが。
もうひとつ言って、手塚治虫的な≪まんが≫というポピュラー・アートのコアは何かというと、それは『風刺』であり『反骨精神』だとは、本人がさいさい述べておられるところ。そこから今作「ダイヤのA」を見てみると、くそまじめな野球名門校に山ザル的ヒーローがまぎれ込んだというところに、一種の風刺性やこっけい味はある。その要素がなかったらまったくつまらないであろうが、しかしトータルでは名門校の面白みのない野球実践を肯定している作品であろう、ということが疑いえない。
なお、手塚治虫の作家歴の初期、彼にたいへん大きな危機感を与えた『対立する作風』の登場というのが、1951年の『スポ根まんが第1号』こと福井英一「イガグリくん」だったそうで。かくて何かもう根本的に、手塚治虫的な≪まんが≫とスポ根とは相性わりぃな、という気もしつつ。

それこれによって今作「ダイヤのA」は、その作品構造がふしぎだ。まずその中心には山ザルっぽい面白ヒーローがいるけれど、その近い周りには面白くないくそまじめなチームがある。そもそも主人公が、視点としては中心だけどチームの重要な地位にいるわけではないし。そしてそのまた周りに、個性的な面白チームらが敵手として登場している。
というその中心と端っこの『面白要素』がなかったら目もあてられない作品になり下がるのであるが、しかしお話を駆動しているのはその部位では『ない』。これを筆者は『逆ドーナツ構造』とでも名づけたい気がするが、しかしこれと似たような作品が、他にあるのかどうかが分からない。

ひょっとしたら「巨人の星」がこれに近いのやも知れず、そのヒーローが属した当時の巨人軍は、まったくもって『職業野球』に徹した面白くないチームであり、もっと過剰なものをかかえた主人公とその相棒は、その中で浮いている。
そもそも当時の巨人軍なんて、主人公がどうであろうと勝つので(!)、別に彼はその中心にも何もならないし、なる必要がない。また彼の最大のライバル≪花形満≫もまた、『野球に対して、実はそんなに執着がない』(!)という点で、職業野球のシステムの中では大いに浮いている。
ただし異なるのは、同じく浮いているにしても「ダイヤのA」の主人公は、その面白くないシステムの中に溶け込もうと、自覚的にがんばっているのだ。しかし先行したヒーローの星飛雄馬はなぜか、がんばればがんばるほど、チームからも人間社会からも孤立していくのだったが。

そろそろ、まとめて。ここで筆者が申すのは、何でもかんでも過剰で面白いことを描こうというような『よき時代』のまんがと、今作との違い。今作にしたって十分に面白い作品だとは思うのだが、しかしあわせて、『面白くない要素』をさらりと大量に呑まされているような気がする。お話をもたせるための面白要素が構造的に、お話の中心ではなくて周辺に配置されている。そこらがいにしえの作品らと異なるのでは、と。
で、『面白くない要素』をあわせて大量に呑ませてくるようなシビアな野球まんがとして、今作はかの「巨人の星」を思わせるようなところもある、とは述べたばかり。

と、ここまでわりかし作品構造に注目しての話だったので、以下に少し、今作の感覚的な印象のようなことを書いて終わる。

ちょっと『内容』を離れたところで今作を見ると、その特徴は≪つり目≫だ。つり目が描かれないと、今作は始まらない。まず主人公がつり目なのは当然として、そこに高校のスカウトのつり目美女が現れて、そして彼はつり目の天才キャッチャーに出遭い、つり目の主力バッターにはいきなりケンカを売る…と!
しかもそれぞれの描き方がとうぜん違ってて、かわいいつり目、キレイなつり目、シャープなつり目、怖いつり目、そして大きなつり目と小さなつり目。筆者が今作の第1話を掲載誌で見て、『ありきたり気味だが引き込まれる』とその時に感じたのは、そのつり目パワーにやられたものかなと、いま思うのだった。

そして≪つり目≫に対抗するもう1つの目だった記号は、≪巨乳≫。お話の冒頭、中学さいごの大会に敗れた主人公を、東京の野球名門校の副部長がスカウトしに来る。すると彼はそのメガネ美女の『どどんぱ』と突き出た巨乳を見て鼻血を流し、そして、

 『人生山あり “谷間”あり!?』

と、加瀬あつし大先生の描くヒーローみたいなことを、モノローグで言うのだった(第1巻, p.28)。

かくて、おっぱい目当てに東京へ出たような主人公であったが(!?)。しかし彼たちの野球活動は、あたりまえだが、ほとんどおっぱいとは関係ないのだった。
むしろ彼が入っていった野球部のふんいきは≪BL≫的で(!)、彼が入った寄宿舎は「トーマの心臓」みたいな世界で(!?)。そこで『ヤンチャ受け』とでもいうようなわれらの主人公は、たっぷりと≪総受け≫チックにかわいがられてしまう。
ではあるのだが、しかし筆者は、『野球とおっぱいは関係ない』、とは思わないのだった。そうではない! 今作の内部に限った話としても、『おっぱいに対する飢えを、(無意識の過程で)白球に対する飢えへとすり換えること』によって、主人公らの野球活動は成り立つのだ。だからこのプロローグに≪巨乳≫が出ていることを、『無意味な過剰さ』などとは、まったく言いえない!

かつ彼女に限らず、今作の女性全般の描き方としておっぱいにアクセントがあることは、皆さまもご覧の通りだし。そしてそのメガネ美女の副部長は、イントロでのみ大活躍して、だんだんと出番が少なくなる傾向にあり、近刊部分では遠くからチームを見守っているばかりだが。そうかといってもその巨乳が、作中の賭け金として担保されていることには変わりがないのだった。
しかもわれらの主人公には、巨乳副部長に対する恋愛感情もなければ、本気でそれを『どうにかしたい』という野心もない…ここがまた面白いところだ。今作における巨乳とは≪巨人の星≫と同じで、見えるものであり目ざすことはできるが、しかし『自分の手に入るというものではない』のだ。野球少年らの白球に対するあこがれや思慕を表す記号で、それらはあるのだ。

この地点において、もはや巨乳は単なる巨乳ではない。そしてわれわれはここで、ジャック・ラカンによるテーゼ『“昇華”は対象を、“もの”の尊厳へと高める』、とはこのことか…と知るのだ。

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