2010/03/04

久米田康治「さよなら絶望先生」 - JAS某の横暴に絶望した!?

 
参考リンク:Wikipedia「さよなら絶望先生」

「さよなら絶望先生」および、その前のシリーズ「かってに改蔵」から、久米田康治センセのお作には、『JASRACにお金を払いたくない』というモチーフが頻出している。まんがの中でうかつに歌詞を引用したりすると、そのJAS某の人が請求に来るということがあるらしい。なるほど、怖い。

それがあちこちに出てるけどすぐに思い浮かんだ事例は、「さよなら絶望先生」の第百四十二話(『恥と卵』, 同書・第十五集, KC少年マガジン)。自己陶酔している最中に、そんな自分を別の自分が冷静に見ているのを感じてしまう、それを≪ゲッペルドンガー≫と名づける、というお話で。
そして、そんなもんがなければ『水をさされる ことなく 人生を 謳歌できます』!…と、一瞬は考えた絶望先生だったが。しかし日本人としてとして、『恥』というマインドを忘れてはダメかなと、またすぐに思い返す。…というこの軽薄さもまた、日本人のマインドの一種なのだろうか?
ところがそこから先生は、逆にゲッペルさんに見放されてしまう。『バスローブにワイングラス』とか『ラジオにハガキ投稿』とかの痛い行動をとってもいっこうに、ゲッペルさんが現れてくれない。もうただ単なる、痛いヒトになり下がりかける。
そうして『カラオケでクサい曲でも熱唱してみては?』、というアイデアにもとづいて、「すばる」、「サライ」、「チャンピオン」、と、なぜか谷村新司がらみの唄を3つ。それらを『キモチよく歌いきって』も、いっこうに彼は『もう一人の自分』の視線など感じない。これは、一大事!…ということだが。

で、かなりどうでもいいことだが、そのカラオケ熱唱の場面が『お金を払いたくないので 無歌詞でお送り致しております』、ということでサイレントなのだった。そして何の関係もないことだが、自分が何かのまちがいでカラオケに連れ込まれたりすると、仕方なく井上陽水の「とまどうペリカン」を歌うのだが(!)。
そうするとさいしょの1コーラスで楽勝でドッペルさんの登場を見るけれど、しかしそこで『すみません、やめます』と言い出すことも、またできづらい。あれはつらい。

ところでJASRACの脅威というと、昨日おとといくらいのニュースでこんなことが。これがけっこう、注目のニュースらしいが。

参考リンク:J-Castニュース『「ツイッターで歌詞つぶやくと利用料」 JASRACの説明にネットが騒然』

がしかし筆者は、『ツイッターで歌詞つぶやくと利用料』、というJASRACの主張に対しては、ゆかいじゃないけど驚くということがまったくない。こんなことでびっくりしている方々は、JAS某に対しての認識が甘い。
むしろ筆者は記事の後半の、『ちなみに、歌詞を書いても著作権法に抵触しないのは、報道や批評、研究など、「引用」の正当性が認められた場合に限るという』、とのフレーズの方にびっくりしたのだった。そんな『正当性』…いわゆる『フェア・ユース』ってやつですか…をJAS某が認めていることの方が、筆者にはよっぽど意外だった。

ただし、ご紹介した「絶望先生」のお話の中に歌詞を組み込んだりしたら、それが『報道・批評・研究』に該当するものとも考えにくく、やはり久米田センセとJAS某の闘いは今後も続くのだろう。
筆者もそのへんはいままで気をつけてきたが、しかしたったいま『報道・批評・研究』ならオッケーという言質をえたわけだから、今後もう少しフリーにやれそうな感じが少し?

【付言】 ちょっと頭の中がまとまらないせいで、前記事(これ)に続いて時事ネタからのこじつけを2連発ということで、たいへん申し訳ない。
“ちなみに”、ご紹介のニュース記事の結びのフレーズが、『ちなみに、曲のタイトルだけでは著作権法に抵触しないそうだ』、というのだが。そもそも題名自体には著作権が『ない』ということは別にしても、人間は疲れているときに文章を書くと『ちなみに』という語を連発しがちではある。
その2。そうとはしたって、『報道・批評・研究』とは≪何≫なのだろうか? たとえばの話、ここで筆者がパンクロックの歌詞を長々と引用して、『オイラはこうゆうスピリットでやってます』なんて書いたりしたら、それは『報道・批評・研究』だろうか?
あまりそうとも思えないので、やはり用心にしくはない感じだ。そこでこの場は、『ビリーブ・イン・アナーキー、パンクス・ノット・デッド!』と、題名だけを連呼しておいて終わる。

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