2010/03/19

吉河美希「ヤンキー君とメガネちゃん」 - ヤンキー君(?)と、メガネちゃん(?)

 
参考リンク:Wikipedia「ヤンキー君とメガネちゃん」

2006年から少年マガジン連載中の、ゆかい痛快きわまる学園コメディ(KC少年マガジン, 刊行中)。これはまだ第1巻だけしか読んでないが、もう圧倒的にすぐれているので、とり急ぎざっと寸評みたいなことを。

その巻頭のお話。ある日の放課後、題名どおりにヤンキーとしてひねくれている≪品川くん≫が学校のトイレでたばこをふかしていると、題名どおりにメガネでおさげの委員長が、個室の仕切りの上からひょっこりと登場する(!)。そして品川くんに対し、明日の社会科見学にぜひ参加してネ、みたいなことを言う。
その『言表内容』は、いちおうまともだが。しかしそれを、登場いきなり男子トイレの個室をのぞき込んで言う、というヒロインの『言表行為』はいかがなものなのだろうか? もうこのつかみが、異様にさえまくっている。
で、われらのヤンキー君はもちろん『タリィから』行かないと言うわけだが。しかし相手も、もちろんかんたんには引き下がらない。

そして品川くんが『もう まとわりついて くんな』と言ってその場を去ろうとすると、委員長の体がふるふると震えている(!)。泣かせちゃったかと思って彼があわてると、メガネちゃんこと≪足立花≫は、『もじっ』としながら『トイレ したいん ですけど』と言って、てれ笑いを浮かべるのだった。そこで品川くんはキレかかって大きな声で、『行きゃ いーだろ!!!』とツッコむ。
そうすると花は、ためらいもなく『はい!!』と叫んで、目の前の個室に飛び込む。しかし男子トイレなわけで(!)、品川くんはそこをチェキって『となり行け!』と言いわたす。
そうして2人は廊下に出てきて、品川くんは花の背中を押して、『女は そっちだろ』と言う。がしかし花は『うう‥』と低くうめいて、なぜだかそっちのトイレを使いたくないようなのだった。

そこで花の内部に何かひらめきが生じたようで、『あ』と言って彼女はメガネをはずし、

 『ちょっとメガネ 持っててもらえ ます?』

と、メガネを品川くんの手に握らせ、自分は女子トイレに入っていく。
そしてその姿が見えなくなって、しばし後、品川くんはズル…とその場でゆっくりとズッコケポーズへとへたりこみ、

 『メガネ外す 意味が わかんねぇ‥‥』

と、やたら字のでかいモノローグにてつぶやくのだった(第1巻, p.10)。いやまったくわけわかんなくて、もう最高!

しかしだが、『意味』はりっぱに存在しているわけで。まずわれらのヒーローは、メガネをはずした花を見て意外にかわいいと思ったので、そこでそのいきおいに呑まれている。
また、そうでなくとも人からメガネをあずかったら、人として何らかの放棄しがたき責任が生じてしまう(?)、と考えられるのであり。『メガネをあずかった以上は逃げられない』、これこそは今作の描く最大のテーマ性であり、そしてこの21世紀のニッポン国へのザ・メッセージなのではなかろうか?

それと同じような趣向のエピソードは、続いたお話にも描かれているのだ。こんどは『水泳の授業で使う水着がない』と花が言い出して、めんどうなのに品川くんは、その買い物につきあわされる。
そしてめんどうなので彼が休憩コーナーで待っていると、試着室のカーテンの間から顔だけを出して、花が遠くから彼を呼ぶ。『ちょっと試着 することに なって‥‥』と、花は彼に言い、そうしてまたもメガネをはずして『持ってて 下さい』と、それを品川くんにあずける。
もはや品川くんはツッコミもせず、『おぉ‥‥』とつぶやいてすなおにそれを受け取る。で、彼女がカーテンの中にこもっている間、彼はスクール水着の花の姿を想像し、『悪くねー かな‥‥』と、浮かれたことを考える。

やがて『シャーッ』と音がしてカーテンが開き、『ど‥‥ どうですか?』と言って花が現れる。ところが水着にはなってなくて、“いつもとまったく同じ”の姿だ。ゆえに『似合います かね‥?』という問いに答えようもなくて絶句していると、花はガッカリしてカーテンを閉めてしまう。
そこで、『何が 似合い ますかね? だ!!』と叫んで思わず手に力が入ると、品川くんの手の中で、花のメガネが『ミシッ』ときしむ音をたてる。そうして初めて気づくのだが、水着ではなくメガネの試着…(!)。

 『メガネ かよォォ!!!! 試着室入る 意味がわかんねぇ!!』(p.59)

と、またでかい字でモノローグしながら、その場にはいつくばった品川くんはお店の床を叩き、そしてその歯を喰いしばるのだった。
しかしだが、『意味』はりっぱに存在しているわけで。むしろ、その後のシーンでプールの授業中にもメガネをはずさない花が、品川くんの前ではそれを平気で(?)着脱することの意味は、逆に重すぎるくらいだッ!

ところでさいしょのお話に描かれたことなのだが、花は『メガネの委員長』というキャラクターを意図的に演じているだけで(!)。実は授業の成績もひじょうによくないおバカさんでありつつ、しかも中学時代は大いにならした元ヤンなのだった(!)。よってそのお芝居は、常に大破綻のすれすれだ。またその一方の品川くんもまた、ひねくれて粗暴ぎみだけど、ちっとも悪い子じゃないので。
するとここでは、『ヤンキー君』と『メガネちゃん』、という題名のそれぞれの部分が、うそでもないけど彼たちの本質でもない、フェイクとして演出されている部分がピックアップされて呼び出されている。
(また、花が元ヤンの地金を出しちゃう場面では、そのメガネがはずされた状態になっている…これはまんがのお約束として、当然!)

かくて。品川くんは『ヤンキー君』としてほっとかれたいと思っているし、花は『メガネちゃん』として学園に溶け込みたいと思っているのだが。けれども花のお芝居の破綻をフォローさせられる過程で、品川くんのお芝居までが破綻してしまう。
そうして2人は入れ替わり、すれ違う。花があんまりなついてくるので、『こいつはオレを好きなのか?』と、品川くんが考えることにはむりもない。ところがそこで、品川くんの方から花に声をかけたりすると、向こうの反応は異様によくないのだった。よく分からないのだが、それで彼女は自分のお芝居を維持しているつもりらしいのだった。

で、この2人がしまいにどうなるのか、ということは知らないが。連載中の作品だし、それを筆者は第1巻しか読んでないので。にしても、まったくすばらしい!
別に筆者は、西川魯介センセをぜひ侮辱したいとか(*/*)、そんなつもりはもうとうない。ところが必死にメガネばっかを描いている作家の表面的ながんばりが、ここではきわめて軽やか~に凌駕されている。

フェティシズムにおぼれるばかりが、それへのアプローチではないということだ。花にとってメガネは一種のぶそう品でもありつつ弱点でもある、それを彼女はヒーローにあずける。あずかったところには、責任が生じる。ここでやり取りされるメガネは、知性や秩序をさし示す≪シニフィアン≫(意味ありげな記号)だが、しかし2人ともそれらを持っている、そなえている、ということがない。
よって彼ら2人は、お互いの持っていないものを求めあい与えあっている、とも言える。そして『自分のもっていないものを与えること』とは、われらのジャック・ラカン様が≪愛≫というものを定義して言ったことばだ。

そうして彼たち2人はお互いの向こう側に『まっとうな人間』の世界を見ている、むしろメガネというシニフィアンのレンズを介して彼らには、『あるべきまっとうな人間同士のかかわり』が双方から見えている。しかし、彼たちそれぞれはあまりまっとうな人間でもなきアウトサイダーであり、そして『あるべきまっとうな人間同士のかかわり』などというイメージが、屈折作用の作り出す錯覚でないという保証もない。
いや、そんなものが『あるか/ないか』・『ありうるか/ありえないか』、ということが問題になっているのではなく。なぜか彼らがレンズをはさんで、『お互いの中にそれを求めあっている』、というのが、ここに描かれていることなのだ。
つまりヤンキー生活の長かった花には、ふつうの人間との会話がまったくできないことなので、ヤンキーの品川くんになついていく。ところがそこで花が品川くんにたずねるのは、『真人間になるにはどうすれば?』、のようなことだ。
これほどまでにおかど違いな質問行為は、そうあるものでない! ところがわれわれのすべてはいつか、それと同じ質問に答えなければならない。そこで、『オレには聞かないでくれ!』と言いたいのがやまやまでありながら。

このように『社会の中でのメガネ、ライフステージの中のメガネ』というのを描いているので今作はすごいわけで、これは『メガネっ娘、萌え~♪』みたいなバカな作品では、ない。
つまり女子と男子との間に≪メガネ≫というアイテムを同じく置いているとしても、そのメガネは社会や理性という不可視かつ規範的なものにつながっているシニフィアンでもある。そのフェティッシュが想像的なものばかりでなく、≪象徴的≫にも機能している。そこまでを描いているので、今作はすごいと。
しかもそのメガネっ娘で委員長キャラクターのつもりのヒロインが、こともあろうに男子トイレをのぞき込むというところから、いちいち毎回のエピソードが始まっている。…とはいったい、どういう作品でやがるのだろうかこれは? まったくすごいので未読の方には『ぜひ』とおすすめしつつ、寸評という予告に対してはちと長い賛辞を、かく今作へと贈る。



【付言】 別にあれなんだが、少々補足すると。以下、読まなくてもいいので…。
すべてフェティッシュというものは≪ファルスのシニフィアン≫であり、勃起したペニスを象徴するものだとして。ところがフェティッシュの表しているファルスは『母の欠けたペニス』を表すものであり、それは『想像的なファルス』であり、それの意味するところは『去勢は、ない』という甘ったれた非社会的な想像だ。『萌え』的なフェティシズムとは、つまりそういうことだ。
ところがそれと別に、『象徴的なファルス』というものがあり。『あり』というのは、人間らの頭の中にだが。それこそが≪ファルス≫というべきファルスであり、それは父性的でありつつ理性・秩序・性欲などを同時に象徴し、『すべてのものが、去勢されなければならない』というメッセージを発する。『社会的行為としての性交=労働』へと、それは人を導く。そこらの違いを、まあいちおう見ておきたい的な。

【追記】 ごめん。今作こと「ヤンキー君とメガネちゃん」なんだけど、第2巻から後、めっきりふつうの学園コメディだった。4巻くらいまで読んだら、『もうめんどくせぇ、タリィ』と思ったほどに。ま、こういう作品もあるということですよ!

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