2010/03/30

諫山創「進撃の巨人」, あわせて「GANTZ」&「ぼくらの」 - 黙示録 in 21世紀スタイル

諫山創「進撃の巨人」第1巻諫山創「進撃の巨人」は、昨2009年から別冊少年マガジン掲載中の話題作。2000年後の未来らしき世界に、何の理由もなく身長50メートルの兇暴な巨人らが現れて、人間らを捕食しまくるというお話。で、その描写がねちねちとものすごい、という評判で。
そして筆者はその第1巻(KC少年マガジン)を見て、それを『黙示録的』とふつうに呼ぶにしろ、そこに何か21世紀的な新しい発想があるのかも…と感じたのだった。

とは、どういうことかというと。『何の理由もなく』という不条理さが印象的な今作とは異なり、『20世紀的な黙示録』と呼べそうな作品というものは、根も葉もないところからの破滅、ということは描かないものだった。
そういうものの元祖かと考えられるH.G.ウェルズの大古典SF「宇宙戦争」(1898)は、ご存じのように『火星人の地球侵略』ということを描いたさいしょの作品だが(*)。が、それの以前に、当時としての科学的な『火星人存在説』というものがあって、そこから出てきているものでありかつ、そうだからこそ大きな社会的反響を呼んだのだった。

ちょっと話をそこから飛ばして、五島勉「ノストラダムスの大予言」が大ベストセラーになった1973年から、「MMR マガジンミステリー調査班」の1999年の完結まで、さまざまな黙示録的イメージが、人々の娯楽に供されたものだが。宇宙人の襲来でなければ核戦争、環境や生態系の激変および崩壊、マインドコントロールによる独裁、カルト宗教によるテロリズム…と、いろいろなものがそのメニューにのぼったが。
しかし、じっさいにあるかどうかを別とすれば、これらは『まったくありえないようなこと』ではない。いちおうのもっともらしさがあるものと、いまはそれを見て。

そしてこうした『20世紀的な黙示録イメージ』というものを事後的に集約しているまんが作品は、浦沢直樹「20世紀少年」(1999)だ。その特徴として、(科学的に)まったくありえないようなことは、描かれていない。そういう意味で言うと、そのいちばんさいごに超科学兵器が登場することには、ちょっとがっかりしたが。
にしてもそれは、『20世紀的な黙示録イメージ』にひたりすぎた作中人物らが、21世紀にそれを現実のものにしようとする…そんな暴挙を描く作品ではあった。その題名に出ている『20世紀少年』とは何ものかって、『20世紀的な黙示録イメージを内面化しすぎたやつら』、というわけでもあった。「20世紀少年」については、また別のところでふれたいつもりだが。

奥浩哉「GANTZ」第1巻それに対し。今21世紀に出てきている黙示録的なまんが作品というと、奥浩哉「GANTZ」(2000)、鬼頭莫宏「ぼくらの」(2004)、という2作がぱっと脳裡に浮かんだのだが。そしてその2作の描く世界の危機には、『20世紀的な黙示録イメージ』のようなもっともらしさは、ない。
20世紀のそれがあくまでもこの世界、この次元に内在する危機だったのに対し、21世紀のその2作は、別世界や別次元に起因する危機、というものを描いているようなのだった。『ふってわいたもの』、という感じがするのだった。よってそれらの描く危機について、『不条理な』という形容詞をつけたくなるのは、そんなにおかしい感性でもないのでは。
かつ、その「GANTZ」と「ぼくらの」という2作について、作中の危機への対応に関連し、『ルール』ということばが目だっていることが、筆者には印象的だ。『ルール』が存在するからには、その生死をかけた闘いが、一種の『ゲーム』だということろう。

で、その『世界の存亡をかけたものとしての≪ゲーム≫』という発想が、筆者をも含む『20世紀少年』らの頭の中にはないものなのだ。かつ、その「GANTZ」と「ぼくらの」における『もっともらしさの“なさ”』という特徴について、『いわゆる現実』との対応のなさについて、『それはゲームだから、システムの上のことだから』という言い方は、いちおうできそうだ。
ところがその2作の描く『ゲーム』とやらのあんまりな不条理さが、いま逆に、われわれのマインドにヒットしているのだ。ふしぎとそれが、われわれにとっては『リアル』なのだ。で、それはなぜなのかということは、いずれ考える必要ありげ。

そうして話題を、「進撃の巨人」にまで戻し。その作品の描いている破滅には、『ありうること』という感じがまったくない。設定まわりに『リアリズム』というものが、からっきしない。さらには「GANTZ」と「ぼくらの」に見られた、『ルール』ということをからめてのリアルさの演出、という特徴すらない。
そうだとすると、われわれはこのきわめてプリミティブな物語を、何らかの心理的なことと解したくなるわけだ。何か心理の問題が、象徴的に描かれたものであろう、と。まさにその意味で、その物語は『悪夢的』だ。

そしてそういうこととすると、この物語は、≪他者≫に対する不安を恐怖に描き換えたものなのかな、という気もしてくるのだった。別にそういう読み方を、自分がしたい、というのではないつもりなのだが。
その物語の主人公である少年少女らは、巨人らの侵入を防ぐために作られた城塞都市の内側に、『引きこもって』生きている。やがて彼らが編入される巨人対策部隊は、常ひごろ『タダメシ食らい』として、ふつうの市民らからバカにされている。
ところがそこへ、前よりもさらに強力な巨人が襲ってくると、彼らには立ち向かうすべがない。で、その巨人らの風貌がわりと、単なるそこらのオッサンたちを多少グロっぽく描いたものかのようで、そんなには化け物っぽくないのだった。

と、こういうふうに言ってしまうと、『(可能態として)引きこもりやニートであるような青少年らからは、世間がどのような場所に見えているか』ということを、今作は象徴的に描いているような気もしてくるのだった。そうしてそれが、われわれの中の≪不安≫を形象化してくれているものなのだ。

鬼頭莫宏「ぼくらの」第1巻つまり人間らの中に≪不安≫というものがあるものとして、「宇宙戦争」から「MMR」にいたるような20世紀的な黙示録らは、それをびみょうにも『科学的な世界観』と関連づけて形象化しようとしている。ノストラ某の大予言なんてものをも、いずれは科学の内側にくりこまれるものかと見つつ。そしてこの営み自体を対象化したところに、『“本格科学”冒険漫画』との副題を付された「20世紀少年」のような物語が成り立つ。
続いた21世紀の黙示録である「GANTZ」と「ぼくらの」は、その同じ不安を根も葉もないような不条理な危機として描きつつ、作中の人々はそれへと『ルール』を介して対処する。その物語らのリアリティを支えているのは、不条理なものであるにしろ『ルールが存在する』、ということだ。
さらにわれわれが見ている「進撃の巨人」には、もはや『科学』もなければ『ルール』もない。その不条理な創作を素朴に支えているのは、『不安が、単にあるのではなく、形象化されねばならない』という情熱かと筆者は見る。

そしてそういうことを、もっとスマートな創作として描いているのは、もちろんわれらが支持してやまない≪不条理ギャグまんが≫でありつつ、さらには中山昌亮の傑作短編ホラー「不安の種」シリーズだ。ところが面白いと思うのは、≪不条理ギャグ≫にしろ「不安の種」シリーズにしろ、社会の内側からその外側への≪不安≫を描く。しかし筆者の見方によると、「進撃の巨人」ではそれが実質のところで裏返されている。そこだ。
だいたいのところ、この作品の「進撃の巨人」という題名にはおかしいふんいきがある。ふつうの感性で今作に題名をつければ、「“襲撃”の巨人」とでもなるのでは。ところが『“進撃”の巨人』というからには、物語の視点が巨人らの側にもあるわけだ。このことが追って、何かを意味してきそうな気もしつつ。

2010/03/28

三ツ森あきら「LET'S ぬぷぬぷっ」 - 『外傷的ギャグ』とはどういうものか

三ツ森あきら「LET'S ぬぷぬぷっ」第6巻 
関連記事:ラベル「LET'S ぬぷぬぷっ」

きのうの土曜日にせっかく浦和レッズが勝ったのに、きょうの日曜日に体調がよくない自分。『調子のいい音楽を聞いていると、逆に気分が悪くなる』とは、どういう症状なのだろうか。
そしてこの事態を、ダセぇ、まぬけだ…と嘆いていてばかりでも何なので、ちょっと小さな記事を投じてみると。

 ――― 三ツ森あきら「LET'S ぬぷぬぷっ」第6巻,p.130より ―――
頭が悪くて家が貧乏で、見た目も貧しく頭のてっぺんにペンペン草が生えている小学生≪スギヤ君≫。ある日、席替えで、クラス1の美少女≪雨野谷さん≫の隣の席になってしまった彼は、よせばいいのにへんな野心をいだく。
そこでスギヤ君は、彼女から辞書を借りて、その中の『Hな単語すべてに赤線を引いてしまう』といういたずらを思いつく。そんなことで女の子の気を引けると思っているのもおかしいし、何とも心の貧しい発想ではある。
ところが見ると、雨野谷さんの辞書には、『性器』、『性交』、『精子』と、すでにびっしりその赤線が引かれている。

ちょっと考えると、その赤線を引いたのが辞書の持ち主とは限らないわけだが、にしてもショッキングなギャグではある。というか、ショッキングではないものを≪ギャグ≫とは言いたくないのだけれど。
ここでいろいろ説明したいことはあるが、いまは思いきって略す。つまりこうしたものを、筆者は『外傷的ギャグ』=狭義の≪ギャグ≫、と呼びたいのだった。

文末にささいな雑話を書いておくと、近ごろ気まぐれで、日本語入力システムをMS-IMEからGoogleに変えてみた。すると、『どう』とまで入力したところで、『どうしようもない僕に天使が降りてきた』という変換候補がポップアップしてくる(!)。そして、『降りてこねェじゃねーかッ!』という筆者の舌打ちを誘うのだった。
それに限らないんだけど、このIMEの機能には、『どうしょうもない紋切り型を書け』という誘導を感じるのだった。じっさいのところ、それで誰が困るのだろうか? これまたSEOの話の続きみたいなもので(*)、『“平均化”された一般人の発想』のつまらなさを、このテクノロジーはイヤつうほどに見せつけてくれるのだった。

(…誤解なきように。『一般人の発想』がつまらない、などと申し上げているのではない)

2010/03/27

田丸浩史「スペースアルプス伝説」 - 斬れないハサミでヂョキヂョキと

田丸浩史「スペースアルプス伝説」 
参考リンク:Wikipedia「アルプス伝説」

ここで見ていく、通称「アル伝」と呼ばれるものは、少年キャプテンという幻の媒体、その末期の話題作(1995~97年掲載)。いきなりひどいことを申すけれど、これが人気ランキングの上位にいたようでは、その時点で雑誌の命運は決まっていた感じ(!)。
なお、初出時に「アルプス伝説」だった今作の題名は、1999年に全1巻の特装版で出たときに改題されている。何で『アルプス』かって、ようは登山部のお話だからだが。しかしその作中、まともな登山の場面なんてないけれど。
また何でのちに『スペース』がついたかというと、その特装版の巻末にスペースオペラもどき、寺沢武一「コブラ」のパロディの番外編が付け足されているからだが。しかし田丸作品ではいつものように、そのパロディの斬れ味が異様に『ない』けれど。

ところで、今作中の1つのキーワードが≪デスメタル≫だ。登山部のお話である今作は、当初『デスメタル部』のお話として構想されていたという。…すると。
追って世に出た若杉公徳「デトロイト・メタル・シティ」(DMC)が、『史上初のデスメタルギャグ』を公称していばっているけれど(!?)。そして『惜しくも』今作は、その名誉ある称号のゲットを逃した!…という見方が、まあできそうな気も。
だいたいのところ、何でこのタイミングで「アル伝」の話かというと、こっちの都合で「DMC」の話が出たばかりなので(*)、メタルつながりで思い出した。ただ単に、それだけなのでもあり。
そういえば、かの喜国雅彦センセもメタル好きギャグまんが家のはずだが、その近作にメタル要素などはお見受けしない。そんな要素を入れてもウケはしないと、すでに見きっておられるのだろうか?

にしても「アル伝」が1995年の作品で、続いた2005年の「DMC」まで10年間も、デスメタルのギャグまんがはなかった感じとは。ここでわれわれの得意の自虐になるが、デスメタルにしてもギャグまんがにしても、ほんとに人気がない。
かつまた、デスメタルをまんがに描くとすれば、それはギャグまんがになるしかないのだろうか?…という問題意識も出てはくる。それはそうか、とも思う。
あまり筆者が一般のまんがを読まないが、世間のうわさだと例の有名な矢沢あい「NANA」は、パンクバンドのお話らしい。それがまたどうしょうもなく通俗で惰弱なファッションパンク・ストーリーで、ヴィヴィアン・ウェストウッドをまた儲けさせるだけのしろものにしろ。
けれども自分は≪パンク≫ということばを聞くだけで、そのことばが社会の中を流通しているだけで、びみょうには気持ちがいい。だって、パンクだから。
そんなわけなので、コアなデスメタルの人から見たらあれなところが多かろうけれど、しかし「DMC」という作品の登場は、『よかったこと』と受けとめられねばなるまい。そして今作「アル伝」にしても、もう少し…そういうところの近くまで、行っていたらよかったろうに。

ま、それはともかくも、「アル伝」のお話を少々見ておくと。それがまた、ギャグにもラブコメにも徹しきらない煮えきらなさを、その特徴と見ねばならない。で、ちょっと聞けば、ゆうきまさみや西川魯介らのような同業者たる方々が、そのラブコメとしての要素を、大いに評価されているとか(ゆうき:本書, p.459。西川:田丸「レイモンド」第1巻, p.110)。
このご両人は、ふだんどのようなラブコメをラブコメだと思ってご覧になっておられるのか…(ただしご両人の発言が、本気で言われたものとも限らない)。少女まんがのラブコメを死ぬほど読む、とゆう荒行にいっときはげんだことのある筆者には、今作はラブコメとしたら超ダメダメ、論外で問題外だ。
特に、1980'sの廃品置場からわいてきたような超太まゆで、しかもいわゆる『ボクっ娘』のヒロインの造型あたり、超ありえねェ…とは思うが。しかし男子の読むようなラブコメだと、これらはありなのやも知れぬ。そのての作品をまったく読んでいないので、基準が分からない。
ただ、そうとは言っても、追ってヒロイン第2号のメガネっ娘が登場すると、その陰気さが1号の空疎な元気っ娘ぶりを引き立てるかたちになって、少々作品に活気が出てきている。そういうところは認めつつ。

ところで田丸センセのお作らに一貫している特徴として、ひじょうにあれこれの先行作らの込みいったアプロプリエーション(=流用・借用, いわゆる“パロディ”)としてできている。ただいまこの本を『くぱぁ』と開いてみると、海に来ているヒロインのトップに『膿が好き』と書いてある(p.433)、…などなど。
それはもちろん「うる星やつら」からで、まぁこれは小ネタとしてありかと思うが。けれども筆者は、田丸センセによる『流用・借用』らを全般的には、そんなに面白いとは思わないのだった。
というのも。筆者が今作を初めて読んだころには、「ジョジョの奇妙な冒険」の内容をまったく知らなかった。で、そちらをいちおう通しで読んだ後に今作を見ると、随所に「ジョジョ」からの引用や盗用があったんだなァ…とは気づく。がしかし、だからといってよけいに笑える、ということがない。

その借用例として今作には、ヒロイン2人がそれぞれ≪スタンド≫を出しあって対峙する場面があったり(p.435)、またずばり『ハイエロファント緑』なんてサブタイトルの回(p.467)もあったりするが。だからって笑えるということがなく、それらはただ、ばくぜんと面白げなふんいきを作っているだけだ。≪ギャグ≫には、なってない。
ただし、読者が≪その中≫へと入って行きたくなるような『面白げなふんいきを作る』ということもまた、ひじょうに重要ではある。田丸センセがもっとも敬愛するらしいながいけん先生が、誰がどう見ても才能にあふれつつ、しかしマイナーな存在にとどまっておられるのは、おそらくそこらが足りないせいかと。
つまり、ギャグといえども≪まんが≫であれば、読者の≪共感≫をあおるということは、大いに必要かつ重要だ。

とすると。ふしぎだが田丸センセは、ながい先生にもっとも多くを学んだようにおおせながら(「レイモンド」第1巻, p.59)。しかし、ながい先生にもっとも欠けた≪共感≫をあおるようなこと、そればっかしを、まずやっておられるように見える。
どうしてそうなるのかと考えたら、たぶんだが、田丸センセが≪ギャグ≫と思って描いておられることが、こちらからはふんいき作りの小ネタくらいにしか受けとれぬ、というギャップが生じているからだ。かつ、そうじゃなくても≪共感≫をあおってる部位が存在するので、すると田丸センセのお作らはひじょうにギャグ不足、ふんいきで読ませているばかり、という印象になってしまう。

そうして筆者は田丸センセのお作について、わりと常に意図的でなさげなところで成功しているものかのように思うのだった。その『成功』の例を言おうとすれば、筆者がほぼ唯一の『成功作』として評価する、「ラブやん」からになってしまうが。
で、そちらの作は、全体的に「ああっ女神さまっ」のアプロプリエーションになっている感じ…だが、『そうだから面白い』というわけではない。また、その作の途中から、見かけの悪い妖精が出てきて≪デーボ≫と命名される…コレは「ジョジョ」第3部の『呪いの人形デーボ』からの借用だろうけど、しかし『そうだから面白い』というわけではない。ジョジョには関係なく、デーボ君の活躍はありだな…と、筆者は見るのだ。
(ついでに申せば、ジョジョの『デーボ』のルーツは米ロックバンドの≪ディーボ Devo≫だと考えられるので、もはや3番煎じのアプロプリエーションになっている気配)

そんなわけで田丸センセによるアプロプリエーションらは、原作が構成した文脈を強引にねじ曲げてるというところがないので、原作を知っていれば笑える…というものでは、ない。文脈らが交叉し交錯する面白さ、というものがないのだ。
もっとはっきり言うなら、原作が構成しているふんいきを平気でじゅうりんする冷血さが、乏しいのかと思われる。「ジョジョ」ネタで言うなら、われわれが木多康昭「幕張」で見た『スティッキィー・フィンガーズ!!』というありえない≪ギャグ≫(*)、あの異様な残虐さを思い浮かべていただきたい。ああしたスルドさが、田丸作品の『パロディ』にはない。
けれども、デーボ君がわりと自然に「ラブやん」世界の一員になってるように、元ネタとは無関係ななところでそれが、何かとして『成り立って』いるとも見れる。この作風は、ほんとうにふしぎな珍品だと、筆者は感じるのだった。

と、ここまでの話をふりかえって見ると、『それでも田丸作品に読者を呼び寄せる力がある』ということの根拠を、筆者は明らかにできてはいない。『共感をあおっているから』と言っても、そんなにかんたんにあおりきれるものではないし。それについて、せめてヒントくらいは述べておかないと、あまりにかっこうがつかない感じ。
≪それ≫は、何なのだろう? 田丸作品が、斬れ味のないハサミで先行作らをツギハギしたものではありつつ、しかしよせ集め方のセンスがよいのかも…ということは思う。また、『そっちにもこっちにも行き過ぎない』、というところにその趣きがあるのかも、という気もする。つまり今作だったら、ほっとけばダダ甘なラブコメになりそうかもしれないところに、デスメタルやホラーの要素をブチ込んでいるあたり。
と、そのように言うと、『ラブコメとギャグの間で煮え切らないことを描いている』という今作の特徴は、むしろ長所であると見ねばならない。どっちにも足りないものらが、支えあって≪何か≫として成り立っているその構成に、うまいところを見るべきなのかもしれない。かつ、常識のない者どうしがお互いに≪常識≫をふりかざしあう、というそのいつもの構図がゆかいなのかなァ…等々と、気づくところはいろいろあるが。

で、筆者は、田丸センセによる≪ギャグ≫は、わりとフィクション世界の手前サイドの『ありそうなこと』、『あったようなこと』を描く…というところにすぐれたものがあるかと見ているのだった(今作で言うと、最後の方のエピソード『KING OF AMERICA』における旧万札発見事件など)。が、これ以上の話は「ラブやん」を題材にしたところで展開されるであろうかと…?

2010/03/26

若杉公徳「デトロイト・メタル・シティ」 - レマン湖のほとりにて

若杉公徳「デトロイト・メタル・シティ」第4巻, 白泉社ジェッツ・コミックス 
参考リンク:Wikipedia「デトロイト・メタル・シティ」

2005年からヤングアニマル連載中の、『史上初のデスメタルギャグ』(ジェッツ・コミックス版 第1巻, オビ)。現在までの21世紀のギャグまんがとして、ゆうに5本の指が入るくらいな大成功作。その、『1秒間に10回のレイプ発言』、『ファックは世界の共通語』、『お前をあの世でまた殺す』、等々という≪ギャグ≫を笑えるか否かで、われら人類を2種類に分断する試金石(!)。

いちおう今作の概要を書いておくと、現代日本のお話で、デトロイト・メタル・シティ(DMC)というデスメタルバンドが、聖飢魔IIやキッスのような扮装と壮絶なパフォーマンスと『殺せ犯せェ~!』みたいな唄、などなどの過激さで、インディーズ界の話題を呼ぶ。ところがそのギター兼ボーカルの≪根岸くん≫(主人公)は、実は、メタルなんかぜんぜん好きじゃない。
彼は大分の山奥出身のいなか者のくせに、スウェディッシュだかシブヤ系だか、オシャレなポップスを歌って人気者になりたい、などとふざけたことを考えてやがるのだ。しかし大分ではオシャレで通っていた彼のセンスが都会ではまったく通用せず、そっちの路線への評価は『キモい』以外でない。
で、そのうちに根岸くんは、とても正気とは思えない事務所の女社長に拾われてDMCのメンバーとなり、素性を隠してメタルの才能を、うかつにも発揮しまくってしまうのだった。彼は一種のジキルとハイドみたいな人間で、スイッチが入ると誰も及ばぬ『メタルモンスター』に変身し、そしてありえざるメタル行為やメタル発言の限りをつくすのだった。

ところでなんだが、≪メタル≫って何だろう? 今作を見ている限りだと、『メタルとはレイプである』、『メタルとはファックである』、のような観測がりっぱに成り立ち、それで筆者はいちおうなっとくしつつ(!)。
作中のあるところで根岸くんは、≪レマン湖≫の風景写真を見て『メタル!』と叫ぶ(第6巻, p.117)。ゆえに念のためわれわれもレマン湖の写真を見ておくと(*)、それがまたどこを切っても絵ハガキみたいなわざとらしい絶景でいやがって、みょうにムカつくッ!

はっきり申すとそれは、レイプ的なマインドを挑撥する眺望ではある。そこでわきあがる『バカにしてんのかッ、ファ~ック!×100』という感情こそが、根岸くんの言っている『メタル!』、なのだろうか? そしてそのレマン湖の、サファイヤのように輝く美しい湖水に、重油か水銀を10トンくらい流し込んだら気持ちいいかも(!)…などという恐ろしい発想が、自分の中のいずこからかわいてくるのを感じて、思わず筆者はさむけを覚えるのだった。
で、やらないんだけど、もしもそんな蛮行をやっちゃったとしたら、きっと自分は後悔して泣くだろう。そしてその後悔の涙にくれることの気持ちよさを思ってこそ(!)、自分はその欲望を放棄しきれないのだ。…こういうことが、ひょっとしたら『メタル!』なのだろうか?

そういえば、と、作品の話に戻り。われらの根岸くんには大学の頃からの友人で、≪相川さん(相川由利)≫という想い人がいる。見た目がさわやかな美人であり、いまは音楽雑誌の編集をしている彼女。そして、別に無理してこじつけてるとは思わないのだが、由利という存在こそが、根岸くんにとっての≪レマン湖≫なのだ。
彼女をあまりにも高みに見ているので、素の状態の根岸くんは、とても由利に告白できない。そこでその代わりに、彼の中のDMCのメンバー≪クラウザーII世≫である部分が、『レイプさせやがれ このメス豚めが!』と、まさにレマン湖に重油を流し込みたいようなことを、彼から由利に告白させているのだ(第1巻, 第3話『SICK MURDERER』)。

で、ある日、運悪く何かのまちがいでDMCのライブ会場に由利が来ちゃっているので、根岸くんはクラウザーが自分であることの露見を恐れ、超テンパる(第1巻, 第7話『PIG』)。そして演奏中にその緊張がきわまったところで、彼はブチ斬れて、逆に『どこに居やがる 出て来やがれ アバズレがぁぁぁ』と叫ぶ。
すると会場のいちばん奥で由利は、なぜかそれを自分のことかと感じて、『ビク』、と大きく身震いする。そうして始まったDMCの新曲『メス豚交響曲』は、『メスは豚だ 下半身さえあればいい 下半身さえ 下半身さえあれば』…と、まったくむざんなリフレインを繰り返すのだった(第1巻, p.104)。

というところで確認すると、身のほど知らずにもオシャレ系ポップスシンガーであろうとしている根岸くんを、誰よりも理解して常にはげましているのが、他ならぬ由利なのだった。かつ彼女は、まずいタイミングで彼がクラウザーの部分を見せてしまっても必ず彼を許してくれる、まるで聖母マリアのような女性(?)なのだった。
そのようなものである由利を、根岸くんの中のクラウザーの部分は、『メス豚、アバズレ、淫乱、肉欲の奴隷』…等々と、最大限に侮辱してやまないのだ。さらには女性に産んでもらったやつが女性を侮蔑しきるということの愚劣さと悲惨さが、『下半身さえ あればいい』というフレーズの繰り返しで埋めつくされたその画面を見ながら、爆笑しつつの落涙という反応を、筆者から引き出すのだった。

まったくどうにもならないことを申すのだが、ここでわれわれが笑いを返すのは、そのような根岸くんの振るまいに対して、共感を拒みつつも共感しているということだ。いや、共感しつつも共感を拒んでいる、と言ってもよいが。
あたりまえだが、牝のブタをつかまえて『このメス豚!』とののしる者はいない。そうではないと知っているからこそ逆に、『メス豚、アバズレ、淫乱、肉欲の奴隷』と、罵倒したいのだ。ここにおいてまさしく『レマン湖はマンコである』に他ならず、その高みにあるもの『こそ』が、われわれの中の下劣さをはげしく挑撥するのだ。そこで対象のイメージが崇高さと汚辱との間をはげしく往復する、その距離の大いさ『こそ』が、われわれの≪享楽≫の大いさを規定するのだ。

で、われらの根岸くんが、あれこれの大蛮行をやっちゃった後で。素に戻るといつも、ものすごい自己嫌悪を感じるのだが。
そしてその自己嫌悪が、何らかの手段で少年らがオーガズムに達した後に感じるそれと、似ていない、とはとても言えない。かの赤塚不二夫「おそ松くん」の描いた『シェー!』に始まって、ギャグまんがの描く≪ギャグ≫には、『オーガズムを婉曲に描くもの』という性格は常にある。

かくて心の中に≪クラウザー≫がひそんでいるのは、何も根岸くんだけではない、という事実を知って、われわれはおののく。そしてその衝撃を無理にでも『笑撃』と再解釈し、笑いという肉体の反応へと受け流し、そしていまわしき≪知≫は再び抑圧をこうむるのだ。
というようなことが、今作「デトロイト・メタル・シティ」が描いているメタル、なのやも知れず。にしてもまだまだ語りきれないので、今作については近くまた!

2010/03/24

木多康昭「泣くようぐいす」 - 『本当の仲間=マシーン共同体』!

 
参考リンク:Wikipedia「泣くようぐいす」
関連記事:木多康昭「幕張」 - Another Brick in the Wall

関連記事で見たように、同じ媒体の先行作である「1・2のアッホ!!」(1976)の作風を継承した(?)、『野球部なのにヤキューしない系』のギャグまんが「幕張」。そしてこの「泣くようぐいす」は、その衝撃的な「幕張」が衝撃的にブツ斬れで終わってしまった後、少年ジャンプから少年マガジンに舞台を移して掲載された、木多康昭の作品の第2弾(KC少年マガジン, 全7巻)。ときに時代は、運命の西暦1999年。

で、けっきょく今作「泣くようぐいす」は、「幕張」以上のブツ斬れ具合を示して終わってしまっている。それも「幕張」は作者の意思で終わったような話が聞こえているけれど、こちらは恐怖の魔王…じゃなくて媒体のつごう、要するに打ち切りで。
何がまずかったのかって考えたら、今作はけっこう野球をやっちゃってたのがよくなかったのだろうか? いくら野球部のお話だからって、野球しちゃ~負けじゃん! …うんぬんと、今作を笑いものにしてやろう的な邪心を少しはもって、筆者はこの堕文を書き始めたが。
けれどもちょっこし実作を読み返してみたら、『そういうもんじゃないな』と感じた。というか、笑ってやるつもりで見ていたら『逆に』笑かされてしまったので、気持ちを仕切り直して!

さて木多センセのこれおよび、現在ヤンマガで連載中の「喧嘩商売」とあわせ、びみょうにもまともくさい劇画、スポ根っぽい展開がしばらく続いて、それがおかしいタイミングでギャグまんがになって、またそれが続くとか、そうしたきわめてふしぎな作品になっている。
どうしてそうなるのだろうか? 今作についてみて1つの言い方をすると、これは主人公の≪うぐいす君≫が、野球をやったりケンカをしたりナンパ的な行動をしたり、というお話だとして…。
にしても彼が、野球をがんばっているときにはナンパ的なことは考えていない、かというと、まったくそうではない。そもそも彼が多少は野球をがんばろうかと思う理由自体が、かなりナンパ系のものだし。
と、いうよりも。底流的には常に、どんなときであっても、エロいことや幼稚な夢想や下劣な陰謀やしょうもなき芸能ゴシップたちが、彼の頭の中の一部分を、いやその大部分を駆けめぐっているのだ。で、それらがこちらの思わぬタイミングで言動にまで出てくるので、見ているわれわれは衝撃をこうむるのだ。

 ――― 木多康昭「泣くようぐいす」第1巻, 『第5話 泣くな, うぐいす!!』より ―――
恋がたきのピッチャーが属するよその野球部になぐり込んで、バッティング勝負を挑むうぐいす君。そこへ敵側のキャッチャーの太っちょ君が何やかや言ってくるので、うぐいす君は初対面の彼に、『俺に話しかけるな 陥没乳首のくせに』と言う。
すると夕刻のグラウンドの叙景をバックに、『<解説> デブには 陥没乳首が 多い』と、ナレーションが現れる。そして図星をさされた太っちょ君は、男泣きしながら『おのれええええ~』と、激怒しうらみの炎を燃やす。
『やっぱ 伊集院君は 陥没乳首 だったか』
『誰が 伊集院だ!! 勝手に名づけ るな!!』
よくわからないが、『伊集院』とはタレントの伊集院光のことか。そしてこれらを遠めから見ている敵野球部のコーチは、伊集院クンについて『めずらしく 燃えとるな』と言って感心する。

ギャグまんがのヒーローであれば常にそうかもだが、ふつうの人々が≪抑圧≫しているような想念を、彼はそんなには抑圧していない、という違いがありげ。つまり、『いかなるときでもくだらぬ下品でエロいことを考えている』とは“誰も”のことなのだが(!)、そしてうぐいす君らギャグまんがのヒーローたちは、その外傷的な事実をことさらに顕示してみせることで、われわれ一般人らに≪衝撃=笑撃≫を与えている。
しかもシリアスめいた展開をもり上げておけばおくほどに、その後の≪衝撃=笑撃≫の効果は高まるだろう。ただし筆者を感動させているのは、今作のギャグ要素が、シリアスまんがの中の『コミック・リリーフ』などという境地を、はるかに超越していることだ。

 ――― 木多康昭「泣くようぐいす」第4巻, 『第24話 発覚!? 御供マシーン!!』より ―――
かってにライバルと見込んだ他校との練習試合が、『事実上の敗戦』的なノーゲームに終わる。そしてシュンとしちゃった少年たちが帰りのしたくをしていると、女子マネージャーの≪御供≫のカバンから、バイブレーター的な『マシーン』が転がり出てくる。それで妄想にドカンと火がついて、さっきの試合のことなどは完全に忘れて(!)、少年たちは大フィーバー!
だが、追ってそこへ現れた御供は、『おしかったね』等々と、きわめてまともな反応に終始。そのマシーン自体を目の前につきつけられてもキョトンとしているばかりなので、思わず少年たちは逆ギレ! そうすると、こいつらが御供のだと思い込んでいたカバンは、バカ野球部のナメられている監督のものだと判明。
そこで少年たちは、こんどは監督を取り囲んでマシーンを示し、『いいもん 持ってん じゃんか』…と迫る。するとひるみ気味な反応を返した監督に対して、しかしうぐいす君は、『そうじゃないんだよ “先生”』と言う。
そして少年たちはさわやかな微笑みを監督に向けて、彼をその場で胴上げするのだった。そうして彼らは『本当の仲間』になった、『バラバラだった ナインが 今 一つとなった』…というわけなのだった。

しかもこのエピソード中、『本当の仲間』という文字には、何と『マシーン共同体』というルビが振られている(第4巻, p.57)。『本当の仲間=マシーン共同体』という認識(!)、それが示しているふかしぎな真実味と狂おしさ。
また「泣くようぐいす」という作品のこの後で、ヤキューとは何の関係もなく、パワードスーツ様のものを装備して人間が≪マシーン≫を演じる、というモチーフが目立っている。そしてそこでは認識の向きが逆になって、『マシーン共同体=本当の仲間』、となるわけだ。
かつご紹介のエピソードをきっかけにして、野球というモチーフは今作のすみっこに追いやられてしまうのだった。野球で結束できなかった生徒と教師たちは、その地点で、エログロナンセンスで≪ひとつ≫になったのだ。

セックス・ピストルズ「勝手にしやがれ」
マシーンといえば、そういえば。かのセックス・ピストルズによるロック史上最大の崇高さをきわめた超銘盤「勝手にしやがれ」(1977)には、『人間機械 human-machine』という語が2回も出てくるのだが(「God Save the Queen」と、「Problems」で)。
かつまたその詩句が、同じ1970'sの≪テクノ≫の至高作たるクラフトワーク「人間解体 Man-Machine」、および人間存在を『欲望機械』と言い換えてみたドゥルーズ+ガタリの言説らとシンクロしつつ(?)。そうして人間観というものをエログロナンセンスの方から(方まで)突きつめていったときに、≪マシーン≫のイメージはどういうわけか、そこに飛び出てくる。

 ――― 木多康昭「泣くようぐいす」第6巻, 『第43話 剛田のビーム!?』より ―――
第4巻からうぐいす君に刺客を送ってきている≪剛田くん≫、かのジャイアンを劇画に描いたようなキャラクター。彼との対決の大詰めでうぐいす君は、『なぜお前は 俺に恨みを もったんだ』と、たずねる。
そうすると剛田くんは、かってうぐいす君が剛田くんの父親の葬式で、その死体を使って腹話術を演じたこと(!)、そして参列者らのびみょうな受けをとったこと(!)、これを言い出して、またその場でくやし涙を流すのだった。
しかしうぐいす君は、『典型的な 逆恨み だな』と、とりあわない。そして野球部の顧問もうぐいす君の味方をして、そういえば…と、たいへんなことを言い出しやがるのだった。
『フッ 俺も 気がひけ ながらも 堀江しのぶ の没後に 写真集で オナニーした』
『そ そうか‥‥』(汗)

これこそが、『マシーン共同体』のりくつだ。ここにもまた、人間存在があったことの証しであるものを≪マシーン≫同然に扱うような実践と言説があるのだ。さらにうぐいす君は、剛田くんの父の死体に警備員の制服を着せてバイト代を稼いだとか(!)、そんな秘話までも明らかにされつつ。

で、それでほんとうに剛田くんは怒り心頭に発し、シャツを脱ぎ棄てて『かかって 来いや!!!』と、叫ぶ。しかしそのブヨついた体を見てうぐいす君らは、『フン‥‥ 乳首が 陥没してる ヤツとは 戦えんな』と、その挑撥を一笑に付す。かくてここに、再び≪陥没乳首≫というモチーフが回帰しているのだった。
とはまたいったい、どういうフォルマリズム的な創作なのだろうか? まあ、われわれから見るとこの≪陥没乳首≫という重要モチーフが、『去勢のシニフィアン』であるということまでは確かだけれど(…シニフィアンとは、意味不明だが意味ありげな記号)。

そしてエログロナンセンスを媒介に≪ひとつ≫になってしまったヤキュー部員らは、もはや野球をやるというところには戻れないのだった。かつ、それに並行した楽屋落ちのエピソードが、第6巻の巻末おまけまんがに描かれている。

 ――― 木多康昭「泣くようぐいす」第6巻, 『泣くよK』最終話より ―――
われらの木多康昭センセがついつい、アシスタントらの前で、『俺は金のために漫画家を やっている』と、はっきり断言してしまう。それを聞いてアシスタントらは、まんがへの純粋な情熱を忘れやがって!、等々と、センセに対して怒る。
けれども木多センセは彼らに冷笑を返し、『君達だって 金のために 漫画家 目指しとるんと ちゃうん?』と言う。さもなくば、どうしてメジャー週刊少年誌だけに作品を持ち込むのか、と逆にツッコむ。
するとアシスタントらは、何も言い返せない。そして、夜の街にイヌの遠吠えが響く。
そこからめくったところのド見開きで、月と夜空を背景に木多ファミリーはズラリと並び、それぞれにカッコいいらしきポーズをキメており。そしてその絵図の両サイドにやたらデカい文字のナレーションで、『そして彼等は 一つになった!!!』、とあるのだった。

かくて。まんがへの情熱では結束できなかった木多ファミリーは、『金のため』というところで≪ひとつ≫になれたのだ。いや別にそのことが事実かどうかはどうでもよくて、同じかたちのエピソードの反復があるな、ということ。
そして。まんが家稼業が、『金のため』という目的のみでやっていけるものかどうかは知らないが…いや、それまた別にどうでもいいが。

ともあれ、『マシーン共同体』になってしまった作中の少年たちは、もはや野球を取りもどすことができないのだった。あまり詳細には言いたくないことだが、今作の後半のどこかには、すんばらしい夢オチでお話に≪切断≫がかまされている個所がある。そしてそのどんでん返しで打ち消されているのは、ストレンジではあるけれどいちおうスポ根っぽく展開していたエピソードらだ。
そうした夢から目がさめた主人公≪うぐいす君≫の前には、彼たちの取り返しのつかない悪ふざけ、そのどうしようもなき結果だけが転がっているのだった。そして、野球どころかもっといろいろな多くのものを失ってしまいそうなうぐいす君は、天に向かって叫ぶ。

 『逃げきってやる!! この爆弾入りの 首輪をはずして』(第7巻, p.167)

その期に及んで、「バトル・ロワイアル」にひっかけたギャグをとばしているのだ。そういえば冒頭から、うぐいす君が、へんな金属のチョーカーみたいのを着けているな…とは思っていたが。しかしまさか、それがさいごに効いてくる伏線だとは、まったく思いもよらなかった。

かくて。ふつうのギャグまんがのヒーローたちはその悪ふざけの責任をとらないのに、うぐいす君はまったくふつうに、その行動らの責任を問われるのだった。
また一方で。他の作品、たとえば土塚理弘「清村くんと杉小路くん」シリーズ(*)で、珍しくまともなサッカーまんがになるのかと思ったらさいごに大き~く堕とす、という方向性があるけれど(第14話『清村くんと新必殺技』など)。けれどもそれは、『オチがついたら終わり→リセットして再開へ』というギャグまんがのお約束の中でやっているわけだ。
それに対して木多センセの創作は、お約束のない世界(=現実)へと踏み込んでいる。『リセットできない世界』、つまりわれわれの現実と等価な世界で、その作中人物たちは『取り返しのつかない悪ふざけ』を演じているのだ。

するとこの「泣くようぐいす」以降の木多センセの創作は、『お約束満載の“ギャグまんが”』をも、『コミック・リリーフを多めに含む“シリアスまんが”』をも、そのいずれをも撥無した、まったく新しい世界に踏み込んでいるのではなかろうか?
以前にわれわれが、施川ユウキ「がんばれ酢めし疑獄!!」に見たテーゼによると、『夢オチの後の現実を フィクションの中で 語るコトは出来ない』(*)。そうして今作「泣くようぐいす」という作品もまた、現実っぽくじょうずに描かれたフィクションであるのではなく、『(不ゆかいだが、)現実しか存在しない』という外傷的な認識を返す≪もの≫として、りっぱに破綻したものとして、ここにみごとなブツ斬れで終わっている。

それこれ見てくると今作は、バカっぽい野球まんがとしていちおうまとまった作品になるよりも、むしろ現状あるままで、ひじょうに正しい≪ギャグまんが≫として結ばれているような気もしてくるのだった。
すなわち。人がまともにヤキューに取り組むようなことはほとんど夢想でしかありえず、そしてうぐいす君を代表とするわれわれは、甲子園を目指す的なデカいことをちょこっと夢みつつも、しかしまったく悪ふざけに等しいことに、その生きる時間を費やすのだ。…と聞いてまったく身におぼえのない方々のみが、今作のむざんなオチ方と、ご覧の堕文のむしょうなくだらなさとを、ぞんぶんに愉しくご嘲笑なさるがよし。

2010/03/23

ひぐちアサ「おおきく振りかぶって」 - ≪明子ねえちゃん≫を泣かさない野球

 
参考リンク:Wikipedia「おおきく振りかぶって」
関連記事:寺嶋裕二「ダイヤのA」 - もはや巨乳は単なる巨乳ではない

現実の野球にはほとんど興味がないのに、むしろサッカー(浦和レッズ)が好きなのに、なぜか野球まんがのレビューを繰り返す筆者。まあ、サッカーに比べたら野球の方が、まんがに描きやすいようだ…ということは思うけれど。
そして以下で話題になる「おおきく振りかぶって」は2003年からアフタヌーン掲載中、『日本のサッカーどころ』埼玉が舞台なのに高校野球を描く、とんでもない作品。それをアフタヌーンKC版の第7巻くらいまで見たところで、ちょっとひとこと。

まず。今作「おおきく振りかぶって」が野球を描いている部分の特徴はというと、バッテリーと打者、および双方のベンチが、互いの出方をしつようかつ精細に分析し推理しあう、というところにアクセントがある。だから今作は、スポ根まんがとしてはずいぶん字が多い。しかも『神の視点』的な描き方もいいところで、その場のキャラクター全員の思わくが、モノローグで完全に透けて見えている。
またその『推理合戦』という様相から今作を、おなじみの少年ジャンプの「DEATH NOTE デス・ノート」以降の野球まんがである…と言いたい気もしてくるが。けれど連載のスタートがほとんど同じ時期なので、別にどっちがどっちに影響したのでもなさそう。こういうことを描くのが、いま全般的に好まれるのかもしれない。ちょっとそれは、考える必要ありそうなポイントだが。

ただ、そういう知的な面白さみたいなところをおいて、筆者的な観点から今作の特徴を抜き書きしてみれば。

 1) 主人公がたいそうめめしい男の子
 2) BLチックなふんいき
 3) マネージャー(監督)が女性で巨乳

というわけで、前にわれわれが見たこんにちの高校野球まんが、寺嶋裕二「ダイヤのA」(*)と、その特徴がずいぶんかぶっている。

まず、ヒーロー像について。「ダイヤのA」のヒーローは、山ザルのわりにはよく見ると、あまり男っぽくない、というキャラクターだったが。さらに今作のヒーロー三橋くんはあからさまにめめしく気弱で頼りない少年なので、彼とバッテリーを組むキャッチャーの阿部くんは、いちいち彼を『だいじょうぶ、オマエならやれる』、『オマエがエースなんだ、信頼してるから!』等々とはげまして、その心理的なマネージメントをがんばらなければならない。
かつよく見たら、三橋くんは『ボクなんか、ボクなんか…』とは言いながら、しかしめちゃくちゃ人々に世話を焼かせ、しかもぜったいに自分の我を通している。こういう主人公のあり方は、筆者のよく知っているところだ。
つまり少女まんがの『乙女チック』部門のヒロインに、その分野のあまり名作でもないところに、よくこういう人たちがいる。『わたしなんか』と言いながら、その種のヒロインたちは自己チューの限りをつくして作中の幸せを独占する。まあそれは、見ているわれわれがそのようにしたいのだ、ということなのだが。

そんなだから、この少年たちのネチネチベタベタとしたふれあいは『BLチック』に見える、というよりもそうしか見えない。「ダイヤのA」については腐女子チックなイマジネーションをもってすれば『BL的』、だったものが、今作についてはあからさますぎ。そっちの世界の格言に『バンドはボーカルの“総受け”が大基本』だそうだが(ミキマキ「少年よ耽美を描け」より)、並び立つこととして『野球はピッチャーの総受け』なのだろうか?

そして、彼らのチームのコーチが巨乳女子。この人が、どうして自分のバイト代までつぎ込んでコーチに打ち込んでいるのか、そもそもどこで野球をおぼえたのか、そこらが既読分では描かれていない。
『なぜ野球部のコーチが女性なのか?』。そこがおかしくもないにしろ、少々ふしぎだし珍しいのでは、というありそうな問いかけが、『逆に』作中にまったくないということは、それこそが実は最大のポイントであることの裏返しだ。
そして一方の「ダイヤのA」のヒーローは、東京の名門野球部の副部長の巨乳へと大いに注目するが、しかし今作「おおきく振りかぶって」に描かれた少年たちは、コーチの巨乳をまったく気にしていない。『逆に』ないということは、それこそが実は(略)。

で、このことを『お話のBL度が昂進している』とも言えながら。しかしヤキュー少年であれば巨乳ではなく白球を見なければならない、そのすり替えを促す仕組みがここにある。筆者が「ダイヤのA」について書いたことは、ここでもまったく妥当する。すなわち、『おっぱいに対する飢えを、(無意識の過程で)白球に対する飢えへとすり換えること』、『野球少年らの白球に対するあこがれや思慕を表す記号で、それらはある』…うんぬんと。
そうしてここまでを見てくれば、今作の題名「おおきく振りかぶって」という語に、巨乳にからめての性的なほのめかしが付随していること、それはきっぱりと明らかだ。ただし今作は単なる巨乳讃歌を歌いあげているものではなく、そこでまた巨乳のイメージを白球へ、主人公らが野球に打ち込むということへ、たくみにすり替えているのだ。
またそのBLチックなふんいきの濃さにしても、つまり作中の少年らが無名校から甲子園まで行こうとすれば、ふつうの性交や恋愛をしている場合ではない。そこでなされている≪昇華≫という現象の表れとして、彼らはBLっぽくふるまっているのだ。

よって皆さまにはご退屈であろうけど、まったく同じフレーズでこの堕文を〆ることを、そんなには手抜きでもないかなと、筆者はかん違いいたす。すなわち。
この地点において、もはや巨乳は単なる巨乳ではない。そしてわれわれはここで、ジャック・ラカンによるテーゼ『“昇華”は対象を、“もの”の尊厳へと高める』とはこのことか、と知るのだ。

が、異なる点はある。『巨乳BL野球まんが』と呼べるものとして、2006年の「ダイヤのA」に対し、2003年の「おおきく振りかぶって」の方が、はるかに先行してスタートしている。ゆえにその『巨乳BL』レベルは、きわめてピュアであり高い。その一方の「ダイヤのA」は、わりとそれらを挿話的に使っているだけで、お話の中心は名門校の“シビアな”野球実践を描くこと、かと見られる。
それに対しての「おおきく振りかぶって」は、甘ったれで泣き虫のヒーローでも甲子園にまで行けるかもしれない、というまったく夢みたいなことを描いている作品であり、そのふんいきが全般的にひじょうに甘い。かつ、お姉さん的なコーチと選手のママさんたちの力によって、少年たちを甲子園という高みにまで押し上げよう、ということが描かれているのは、かなり珍しい感じ。

それではまるで、野球とは、少年たちをプレーさせて女性たちが愉しむものだとか、そのような? かつそういうところから見ると、今作の描く少年たちは過剰にいい子でかわいい子ばかり、ということには気がつく。それがまた、お姉さんやママさんたちの嗜好に応じているところなのでは? タメ年や年下の少女たちは、もうちょっとツッパリ気味な少年像を好むかもしれないけれど、それがここにはない。
そうこうとすると、「巨人の星」でなくとも野球というものを、≪父-子≫関係にかかわることかと見るのがふつうの行き方であるに対して、ここにはそれへのアンチテーゼが描かれている。お姉さんおよびママさんたちから見て、高校野球はこういうものであってほしい、ということが、「おおきく振りかぶって」には描かれているのだ。そして、もしも野球がこういうものであったならば、もはや、かの≪星明子≫姉さんがめそめそと涙を流す必要はない…そこなのだ。

2010/03/20

nini「DRAGON SISTER! 三國志 百花繚乱」 - 三国志関係のまんが その7

 
参考リンク:Wikipedia「DRAGON SISTER! 三國志 百花繚乱」

性別改変の三国志まんがとしては、わりと古いほうの作品。筆者のまったく知らない『コミックブレイド』という媒体とその関連誌に、2002~2008年に掲載(ブレイドコミックス, 全6巻)。
で、自分がひじょうにつまらない話せないやつで申し訳ないが、『三国志キャラクターを女の子に変換』という趣向が…。現在わりに好まれているかのようだが、ちょっと分かりません。
うそ、ぜんぜん分からないということはない。これはつまり、『“誰も”が自分を、女の子だと考えている』という、いまの人々の心の傾向に即したことではある。

どういうことかって、たとえば。「あしたのジョー」を超HOTに愛読している人(「編集王」の主人公か)、彼は『自分は矢吹丈である』と考えたがっている。むしろ無意識においては、『そうである』と考えている。
しかしもちろん意識の上では『自分は矢吹丈では“ない”』と考えているわけで、ここにおいてわれわれの正しいテーゼは常のごとく妥当する。『“否定”は、肯定である。意識における否定は、無意識における肯定である』。
という事実に対応して、女の子ばっかしが出てくるまんがを熱心に読んでいる殿方たちは、『自分は女の子である』と考えたがっており、むしろ無意識においては『そうである』と考えている。そこまでは、ひじょうに明らか。
で、そうとはしても、そんな趣向に応じた作品らのプレゼンスが、メジャーの少年誌や青年誌にてさえも大いにあるというのが、このご時世のふしぎなところだ。

 ――― 野中英次+亜桜まる「だぶるじぇい」第1巻, 第6話より ―――
まんが家志望のキャラクター鳥羽少年、その作風は彼のご先祖という鳥羽僧正の直系で、あまりにも平安時代タッチでオールドウェイブ。
そんなのではデビューできないと思って彼の妹は、『いまのフツーのまんがは、こういうのよ』などと言って、現在の少年マガジンを鳥羽くんに見せる。すると彼は、驚愕する。
『こ……これは!? 微妙に目のでかい 女学生が出てきて 何のへんてつもない 日常会話をしてる だけだが……!?』

筆者はよく知らないが、かって「あしたのジョー」の掲載誌だったマガジンの誌面が、いまではそういうものらしい。たとえば「あずまんが大王」や「らきすた」みたいな、そんな作品ばかりが載ってる媒体になり下がっているらしい。いや、そんなんだと「はじめの一歩」はどこに載ってるんだ、という話になるけれど。

そしていま見た鳥羽兄妹の会話には、もう少し続きがある(p.59)。

 『こんな フツーのものが 良い訳ないだろ !!』
 『いや…… フツーでいいのよ フツーで…… みんな「フツー」の ものを求めているの』

しかし。女学生どうしの日常会話はふつうの現象かもしれないが、そんなシーンの描写ばかりが載っている少年まんが誌の存在は、あまりふつうでない感じだ。ところが一部の方々は、その状態を『フツー』だと考えたがっているのだ。

ま、いいや、話を「DRAGON SISTER! 三國志 百花繚乱」の方に返して。見ていると、作中の性別改変というかギャル化について、そのプロローグでいちおうの言い訳が描かれているところに、作者サマの誠意を筆者は感じたのだった。
すなわちこのギャル化現象は、後の黄巾のボス張角の呪術に起因する。彼は自分らの野望をじゃまするような英雄英傑らが、力なく生まれてくるような呪いをかける。ついでに彼らが女子として生まれてくれば、いっそうよいかもと考える。
するとその呪術がいちおう成功した気味なのだが、しかし悪意の術を使ったことへの天罰か何かで、まずは張家のむさっ苦しい3兄弟が、プチプチっとしたロリータ少女になってしまう。…きめェ! ただしこのキモさは、『自分は女の子である』と考えたがっている“われわれ”の中のキモさ、そのすなおな反映ではありつつ。

で、時は流れ。その次の場面で、美少女の関羽張飛が、あるじなき流浪の志士として登場する。と、『美少女の関羽張飛』と書いただけでもひじょうにキモいと思うので、どうにも筆者にはこういう趣向がほんとにだめだ。
そして2人は、むしろ売りの劉備玄徳と出会うのだが。しかし劉備の性別が変わっていないのは、やはり彼ごとき『英雄英傑』のうちに入らないからなのだろうか…ッ!?

ところで筆者を感心させたのは、この性別改変の設定によって、三国志物語の中に一般的に存在するふかしぎに、1つの説明がついていることだ。つまり、きわめてすぐれた関羽張飛という人材が、なぜ劉備ごときむしろ売りの兄弟分(今作では『兄妹分』)になったのか、というふかしぎ。
なぜかって、『この時代 女性が武芸で 身を立てることは考えられず』(第1巻, p.15)。よってまともな武将らが、彼女たちを雇ったりはしなかったので、というわけ。

とまあ、そこまではよかったんだけど。だが、それに続いて登場してくる人物らの、曹操の部下の夏侯トンと夏侯淵が女性、さらに董卓などは本人が女性。
え~ッ? そんなありさまでは、さいしょの設定の効果と説得力が大いにブッ飛んでるように思うんだけど…!?

で、その後は、まあ『フツー』に展開。このようなお話を『フツー』と感じる方々にとってはふつうなことらが描かれ、物語は長坂の役を何とか劉備らが逃げ切るところで終わっている。
ひとつ思うのは、曹操がアニメの『美形悪役』チックな冷血漢として描かれている、そこにまたちょっと今作のアクセントがある。例によってこれも美少女の曹仁が、新野城外戦の借りを返すため…というか彼女が愛する曹操にいいところを見せたくて、関羽に一騎討ちを挑む。がしかし敗れて、かわいそうに死んでしまう(第6巻, p.156)。
すると曹操は眉ひとつ動かさず、『中々やるではないか』と言って、関羽をさっそく自軍にリクルートしようとするのだった。いま目の前で、彼のために死んだ曹仁の後がまとして! そこで今作のメインヒロイン格の関羽チャンは、『そうではない』的なことを言う。

だいたい三国志の物語というものは、劉備と曹操との対立、政治的な対立およびキャラクター的な対立、それを軸に描かれるのが基本で、すかさず今作もそうなっているのだ。ただしそれぞれの子分のほとんどが女性なので、それだと筆者は今作について、まるで諸星あたる君と面倒クンのケンカを見ているような気分になってくるのだった。

そしてこの物語が長坂敗走のエピソードで終わっているわけだが、もうちょっと続きがあったなら、『劉備 - 関羽 - 曹操』の三角関係メロドラマで盛り上げることも可能だったかと。いやなやつとは思いつつ、しかし曹操にもひかれるところがある…という関羽チャンの心境を描くようなこともできたかと。
でも、いやだ。『ヒロインは関羽』というその設定のところで、もう筆者には、すみませんけどごめんなさい、としか言えないのだった。

2010/03/19

吉河美希「ヤンキー君とメガネちゃん」 - ヤンキー君(?)と、メガネちゃん(?)

 
参考リンク:Wikipedia「ヤンキー君とメガネちゃん」

2006年から少年マガジン連載中の、ゆかい痛快きわまる学園コメディ(KC少年マガジン, 刊行中)。これはまだ第1巻だけしか読んでないが、もう圧倒的にすぐれているので、とり急ぎざっと寸評みたいなことを。

その巻頭のお話。ある日の放課後、題名どおりにヤンキーとしてひねくれている≪品川くん≫が学校のトイレでたばこをふかしていると、題名どおりにメガネでおさげの委員長が、個室の仕切りの上からひょっこりと登場する(!)。そして品川くんに対し、明日の社会科見学にぜひ参加してネ、みたいなことを言う。
その『言表内容』は、いちおうまともだが。しかしそれを、登場いきなり男子トイレの個室をのぞき込んで言う、というヒロインの『言表行為』はいかがなものなのだろうか? もうこのつかみが、異様にさえまくっている。
で、われらのヤンキー君はもちろん『タリィから』行かないと言うわけだが。しかし相手も、もちろんかんたんには引き下がらない。

そして品川くんが『もう まとわりついて くんな』と言ってその場を去ろうとすると、委員長の体がふるふると震えている(!)。泣かせちゃったかと思って彼があわてると、メガネちゃんこと≪足立花≫は、『もじっ』としながら『トイレ したいん ですけど』と言って、てれ笑いを浮かべるのだった。そこで品川くんはキレかかって大きな声で、『行きゃ いーだろ!!!』とツッコむ。
そうすると花は、ためらいもなく『はい!!』と叫んで、目の前の個室に飛び込む。しかし男子トイレなわけで(!)、品川くんはそこをチェキって『となり行け!』と言いわたす。
そうして2人は廊下に出てきて、品川くんは花の背中を押して、『女は そっちだろ』と言う。がしかし花は『うう‥』と低くうめいて、なぜだかそっちのトイレを使いたくないようなのだった。

そこで花の内部に何かひらめきが生じたようで、『あ』と言って彼女はメガネをはずし、

 『ちょっとメガネ 持っててもらえ ます?』

と、メガネを品川くんの手に握らせ、自分は女子トイレに入っていく。
そしてその姿が見えなくなって、しばし後、品川くんはズル…とその場でゆっくりとズッコケポーズへとへたりこみ、

 『メガネ外す 意味が わかんねぇ‥‥』

と、やたら字のでかいモノローグにてつぶやくのだった(第1巻, p.10)。いやまったくわけわかんなくて、もう最高!

しかしだが、『意味』はりっぱに存在しているわけで。まずわれらのヒーローは、メガネをはずした花を見て意外にかわいいと思ったので、そこでそのいきおいに呑まれている。
また、そうでなくとも人からメガネをあずかったら、人として何らかの放棄しがたき責任が生じてしまう(?)、と考えられるのであり。『メガネをあずかった以上は逃げられない』、これこそは今作の描く最大のテーマ性であり、そしてこの21世紀のニッポン国へのザ・メッセージなのではなかろうか?

それと同じような趣向のエピソードは、続いたお話にも描かれているのだ。こんどは『水泳の授業で使う水着がない』と花が言い出して、めんどうなのに品川くんは、その買い物につきあわされる。
そしてめんどうなので彼が休憩コーナーで待っていると、試着室のカーテンの間から顔だけを出して、花が遠くから彼を呼ぶ。『ちょっと試着 することに なって‥‥』と、花は彼に言い、そうしてまたもメガネをはずして『持ってて 下さい』と、それを品川くんにあずける。
もはや品川くんはツッコミもせず、『おぉ‥‥』とつぶやいてすなおにそれを受け取る。で、彼女がカーテンの中にこもっている間、彼はスクール水着の花の姿を想像し、『悪くねー かな‥‥』と、浮かれたことを考える。

やがて『シャーッ』と音がしてカーテンが開き、『ど‥‥ どうですか?』と言って花が現れる。ところが水着にはなってなくて、“いつもとまったく同じ”の姿だ。ゆえに『似合います かね‥?』という問いに答えようもなくて絶句していると、花はガッカリしてカーテンを閉めてしまう。
そこで、『何が 似合い ますかね? だ!!』と叫んで思わず手に力が入ると、品川くんの手の中で、花のメガネが『ミシッ』ときしむ音をたてる。そうして初めて気づくのだが、水着ではなくメガネの試着…(!)。

 『メガネ かよォォ!!!! 試着室入る 意味がわかんねぇ!!』(p.59)

と、またでかい字でモノローグしながら、その場にはいつくばった品川くんはお店の床を叩き、そしてその歯を喰いしばるのだった。
しかしだが、『意味』はりっぱに存在しているわけで。むしろ、その後のシーンでプールの授業中にもメガネをはずさない花が、品川くんの前ではそれを平気で(?)着脱することの意味は、逆に重すぎるくらいだッ!

ところでさいしょのお話に描かれたことなのだが、花は『メガネの委員長』というキャラクターを意図的に演じているだけで(!)。実は授業の成績もひじょうによくないおバカさんでありつつ、しかも中学時代は大いにならした元ヤンなのだった(!)。よってそのお芝居は、常に大破綻のすれすれだ。またその一方の品川くんもまた、ひねくれて粗暴ぎみだけど、ちっとも悪い子じゃないので。
するとここでは、『ヤンキー君』と『メガネちゃん』、という題名のそれぞれの部分が、うそでもないけど彼たちの本質でもない、フェイクとして演出されている部分がピックアップされて呼び出されている。
(また、花が元ヤンの地金を出しちゃう場面では、そのメガネがはずされた状態になっている…これはまんがのお約束として、当然!)

かくて。品川くんは『ヤンキー君』としてほっとかれたいと思っているし、花は『メガネちゃん』として学園に溶け込みたいと思っているのだが。けれども花のお芝居の破綻をフォローさせられる過程で、品川くんのお芝居までが破綻してしまう。
そうして2人は入れ替わり、すれ違う。花があんまりなついてくるので、『こいつはオレを好きなのか?』と、品川くんが考えることにはむりもない。ところがそこで、品川くんの方から花に声をかけたりすると、向こうの反応は異様によくないのだった。よく分からないのだが、それで彼女は自分のお芝居を維持しているつもりらしいのだった。

で、この2人がしまいにどうなるのか、ということは知らないが。連載中の作品だし、それを筆者は第1巻しか読んでないので。にしても、まったくすばらしい!
別に筆者は、西川魯介センセをぜひ侮辱したいとか(*/*)、そんなつもりはもうとうない。ところが必死にメガネばっかを描いている作家の表面的ながんばりが、ここではきわめて軽やか~に凌駕されている。

フェティシズムにおぼれるばかりが、それへのアプローチではないということだ。花にとってメガネは一種のぶそう品でもありつつ弱点でもある、それを彼女はヒーローにあずける。あずかったところには、責任が生じる。ここでやり取りされるメガネは、知性や秩序をさし示す≪シニフィアン≫(意味ありげな記号)だが、しかし2人ともそれらを持っている、そなえている、ということがない。
よって彼ら2人は、お互いの持っていないものを求めあい与えあっている、とも言える。そして『自分のもっていないものを与えること』とは、われらのジャック・ラカン様が≪愛≫というものを定義して言ったことばだ。

そうして彼たち2人はお互いの向こう側に『まっとうな人間』の世界を見ている、むしろメガネというシニフィアンのレンズを介して彼らには、『あるべきまっとうな人間同士のかかわり』が双方から見えている。しかし、彼たちそれぞれはあまりまっとうな人間でもなきアウトサイダーであり、そして『あるべきまっとうな人間同士のかかわり』などというイメージが、屈折作用の作り出す錯覚でないという保証もない。
いや、そんなものが『あるか/ないか』・『ありうるか/ありえないか』、ということが問題になっているのではなく。なぜか彼らがレンズをはさんで、『お互いの中にそれを求めあっている』、というのが、ここに描かれていることなのだ。
つまりヤンキー生活の長かった花には、ふつうの人間との会話がまったくできないことなので、ヤンキーの品川くんになついていく。ところがそこで花が品川くんにたずねるのは、『真人間になるにはどうすれば?』、のようなことだ。
これほどまでにおかど違いな質問行為は、そうあるものでない! ところがわれわれのすべてはいつか、それと同じ質問に答えなければならない。そこで、『オレには聞かないでくれ!』と言いたいのがやまやまでありながら。

このように『社会の中でのメガネ、ライフステージの中のメガネ』というのを描いているので今作はすごいわけで、これは『メガネっ娘、萌え~♪』みたいなバカな作品では、ない。
つまり女子と男子との間に≪メガネ≫というアイテムを同じく置いているとしても、そのメガネは社会や理性という不可視かつ規範的なものにつながっているシニフィアンでもある。そのフェティッシュが想像的なものばかりでなく、≪象徴的≫にも機能している。そこまでを描いているので、今作はすごいと。
しかもそのメガネっ娘で委員長キャラクターのつもりのヒロインが、こともあろうに男子トイレをのぞき込むというところから、いちいち毎回のエピソードが始まっている。…とはいったい、どういう作品でやがるのだろうかこれは? まったくすごいので未読の方には『ぜひ』とおすすめしつつ、寸評という予告に対してはちと長い賛辞を、かく今作へと贈る。



【付言】 別にあれなんだが、少々補足すると。以下、読まなくてもいいので…。
すべてフェティッシュというものは≪ファルスのシニフィアン≫であり、勃起したペニスを象徴するものだとして。ところがフェティッシュの表しているファルスは『母の欠けたペニス』を表すものであり、それは『想像的なファルス』であり、それの意味するところは『去勢は、ない』という甘ったれた非社会的な想像だ。『萌え』的なフェティシズムとは、つまりそういうことだ。
ところがそれと別に、『象徴的なファルス』というものがあり。『あり』というのは、人間らの頭の中にだが。それこそが≪ファルス≫というべきファルスであり、それは父性的でありつつ理性・秩序・性欲などを同時に象徴し、『すべてのものが、去勢されなければならない』というメッセージを発する。『社会的行為としての性交=労働』へと、それは人を導く。そこらの違いを、まあいちおう見ておきたい的な。

【追記】 ごめん。今作こと「ヤンキー君とメガネちゃん」なんだけど、第2巻から後、めっきりふつうの学園コメディだった。4巻くらいまで読んだら、『もうめんどくせぇ、タリィ』と思ったほどに。ま、こういう作品もあるということですよ!

2010/03/18

津山ちなみ「HIGH SCORE」 - ブルジョワジーのグロテスクなお愉しみ

 
参考リンク:Wikipedia「HIGH SCORE」

以下で今作と呼ばれる4コマのギャグ作品「HIGH SCORE」は、津山ちなみ先生の1994年のデビュー作。そして2010年の現在も連載中の、りぼん史上にまれなる超ロングラン作品だ(りぼんマスコットコミックス, 刊行中)。かつ筆者の知る限りちなみ先生は、このタイトル以外のお作を描いたことが、まったくないはず。
それもだんだんに内容や登場人物らが変わっているということもなく、ちゃんと一貫し、全盛期のブリジッド・バルドーばりの美少女で『高慢ちきでわがままな』ヒロインこと≪めぐみ≫、彼女を中心とする学園(+ホーム)ものとして。筆者がはじめて今作を見たのは1997年のりぼん誌上で、当時は男子らの見分けがつかなくて困ったものだったが。そうしてそれから、ずいぶんと長~いおつきあいになり。
で、これの第7巻(2008年7月刊)を、つい先日読んだのだが(…ご覧の堕文は、けっこう古くに書かれたものの再利用)。

そうして久しぶりに読むと、くっきり浮かんで見えたことは、この作品世界には≪凡≫がない、ということだった。きょくたんなものらしか、わりと存在しない。
まずそのヒロインが、極端な美少女で極端に性格が兇悪、また成績も極端に悪いということをはじめに。そのステディな彼氏の≪政宗≫は、極端にケンカが強い極端なナルシスト。その政宗の妹≪えみか≫は極端に男前な女の子でカッコいいが、彼氏の≪京介≫に対して極端に粗暴。その京介は極端な『へタレ』野郎で極端な浮気モノだが、しかし極端に脳がかしこくて家が極端なお金持ち。
と、この作品の中心にいそうな4人だけをざっとご紹介しても、このしまつだ。で、これらに対して、めぐみの親友の≪かおり≫だけは≪凡≫なふつうの少女かのように見えるが。ところがこの子は極端に乙女チックな片想いをこじらせて、極端にきもち悪い『おまじない』にふけったりするのだった。たとえば自分の部屋の中に、ナマの魚を吊るすとか!

という絢爛ごうかなこの世界が、筆者には、『女子中学生が夢想する一種のユートピア』という感じがしたのだった。じっさい今作が初めて描かれたころ、作者のちなみ先生はいまだ中学生だったはずだし。で、そのような性格を現在まで残しているからこそ今作が、小中学生向けのりぼん誌上にて、大ロングランを達成しえてるのでは、と。
すなわち。そのヒロインは目にもまぶしいグラマー美少女で、その彼氏はこわもてのイケメンで、そのママはTVや映画の大女優で、パパは元モデルのハンサムなお金持ちで…と、今作「HIGH SCORE」には、小中くらいの女の子たちの喰いつくような要素がありまくり。だがこういうことを、ただすなおに描いていてはしまいに反撥を買うので、そこをさけるために≪ギャグ≫に展開している、という見方もできなくはなさそう。

そしてその≪ギャグ≫の演出のため、この絢爛ごうかな作品世界のスミっこのようなド真ん中のような場所にめっきりと出没しているのが、さっき見た『ナマ魚』もそうだが≪グロテスク≫、という要素なのだった。グロテスクといえばまだしも日常的な表現だが、われわれの言い方だと≪現実的なもの≫というか。
(めんどうなことを申してすまぬが、ジャック・ラカンの用語の≪現実的なもの≫とは、まず『ことばにはできないもの』であり『考察の対象にできないもの』だ。ゆえにそれらの表れは、きもち悪い、わけが分からない、怖い、といった印象を人に与える。『ナマ魚』は魚屋やキッチンにあればただの食材だが、場所を変えれば異なる≪何か≫を訴える記号、しるしになる。そしてその≪何か≫が何なのかを、われわれはことばにはしきれない)

そうした≪グロテスク≫の出没は、今作のごく初期から仕掛けられていることで。まず生物部員のわき役≪沙夜≫には、むしろふつうの世界が見えていない(!)。そして自宅でこっそりと、大量のナマ肉を喰らう化けものを飼育しているらしい。また、めぐみの父の≪麗二≫はやたら幽霊が寄ってくる体質なので、ぜんぶ心霊写真になっちゃうからモデルとしてつとめきれず、実家のお寺の住職になったというお話で。
そうしてゆかいな仲間たちが集ったカラオケ屋で、めぐみのイトコの≪嵐士≫はこんな唄を歌うのだった(第7巻, p.29)。

 『目ん玉ほじくり 出されたフランス人形♪
 四つん這いで階段逆走 子供部屋が血で染まる♪』

この嵐士クンは、手芸や料理を趣味とする心やさしき大男だが。…しかしひと皮むけば虫を殺すの大好き(!!)という陰湿きわまるグロ野郎であり、かつ応援団では鬼の副団長としてヒラ団員らを瀕死までしごきまくり…という設定なのだった。
で、その目ん玉人形の唄がデュエット曲なので、続いてめぐみがその女声パートを、 『キェエェェエェェー!! オマエ達の目ん玉も ほじくり出してやるよォォォォォ!!』…と歌う。そこで京介は、かおりが嵐士クンにホの字なのを知っているので気を利かす。唄の2番はめぐみに代わり、『かおりが歌えよ!』と言うのだ。
けれどもかおりはこの唄のキモさにひきまくっているので、『えっ!?』と、ただとまどうばかり。京介のやさしい気配りは、惜しくもありがた迷惑だ。

かくて、エログロバイオレンスおよび交錯する≪愛≫によって彩られたこいつらの青春グラフィティ(?)みたいなことが、きょくたんに高まった美と才知と力と富貴などなどの乱費乱用をともないながら、すでに実世界の時間では15年間以上も続いていて、しかもさらにず~っと続きそう。と見れば『いいなァ彼らは、素でうらやましい!』とは思いつつ。
またそのように形容してみると今作には、19世紀ブルジョワジーどものおごり高ぶり驕慢ぶりを赤裸々に描いた仏自然主義文学、バルザック「人間喜劇」連作とか、そんなような風味もありげ。

何せ題名が「"HIGH" SCORE」とはよく言ったもので、この世界からは"low"なものらが、排除されつくしているのだ。けれどもその中へ≪グロテスク≫としてひんぴんと侵入してくるのは、排除されている"low"なものら…その影、その断片のようなブツたちだ。
すなわち、女性美の頂点をきわめたようなヒロインも血と肉と臓モツのかたまりにすぎず、また、どれだけのチカラの持ち主もいずれは衰えて死ぬ。そこいらの凡人どもと、何ら変わりなく。…といった排除された認識らを、≪現実的なもの≫としてのグロ物件やグロ事件らは作中に、この世の栄華を愉しんでやまぬ連中に向けて、≪回帰≫させているのだ。

と言っていると思い出すのは、バルザック「サラジーヌ」(R.バルトの批評「S/Z」の題材として有名な小説)の冒頭、新興ブルジョワジーの邸宅での盛大な宴の最中に、ババァかジジィかも分からぬ≪グロテスク≫な老人がぬっそりと現れて、一同のきもを冷やす。この人物の正体は読んでのお娯しみだが、にしても『虚栄の市』のド真ん中ッぽい場所へと≪グロテスク≫がちん入してくるには、わりと大いなる必然性があるかのようだ。
つまり、『死を想え、メメント・モリ』とでもいうような…? そうして、『排除されたものの“回帰”』というところまでをちゃんと描いていることが、今作のすぐれた…一本調子に終わってないところなのか。かつ、≪ギャグまんが≫というものが一般には"low"な世界のロウなイベントらを描きがちということに対して、今作はハイソでセレブな世界に"low"な事物がわき出している。そこらにひと工夫が?

ところでだが、りぼん作家としてのちなみセンセの大センパイたる一条ゆかり先生。そのきょくたんに高まった1970'sの大名作ら(「デザイナー」, 「砂の城」)は、さいごその『排除されたものの“回帰”』によって、浮かれていたヒロインらが没落するようなお話だったとして。
しかし一条センセの後年の作たる「有閑倶楽部」(1981)ではそうした展開がなくなり、ただもうだらだらと『虚栄の市』が続いてるばかり(!?)。けれども作中、殺人事件などの発生や幽霊の出没といったイベントによって、その世界には『排除されたもの』らの影がさしている。ああ…『セレブ』の世界のまばゆさと、その一方の影の深さ…あはっ、苦笑っ!

申し訳ないが筆者はこの堕文の参考にと「有閑」をちょっこし読み返して、ついつい『苦笑』という反応を返してしまったのだった。で、ここまでの堕文により、『きょくたんな美と才知と力と富』およびその乱費乱用を描く2作、すなわち「有閑」と「HIGH SCORE」との間に、性格の重なりがあることは明らかだとして。
そしてその「有閑」の『苦笑』的なところをストレートなこっけいと≪グロテスク≫に変換しつつ、かわいげある限りに仕上げているのが、今作のなしていることなのか。…のような見方をここに示して、いったん終わる。今作については、いずれまた語ることがあろう。

2010/03/17

ヤマザキマリ「テルマエ・ロマエ」 - バスルームから自己愛をこめて

 
参考リンク:Wikipedia「テルマエ・ロマエ」, Yomiuri Online「マンガ大賞に『テルマエ・ロマエ』」

ついさっきのニュースから。参考リンクの読売オンラインの記事を引用すると、
『書店員らの投票でお薦めの漫画を選ぶ「マンガ大賞2010」(同賞実行委員会主催)が17日発表され、古代ローマの浴場の建築技師の男が現代日本の風呂にタイムスリップする、ヤマザキマリさんの「テルマエ・ロマエ」(エンターブレイン)が選ばれた』
…とのこと。

ところでだ。まったくもって情報にうとい自分が、どうしてそんなことを早々と知ったかというと。
世間で話題のTwitterというものをきのうくらいから始めてみたのだが、まったくもってすることを思いつかない。筆者は有名人に興味がないし、こんなことをやっていそうな知り合いもいないので。
しょうがないので『ギャグマンガ』をキーワードにツイートを検索していたら、この話題が引っかかったのだった。これはまあ、さっそくツイッターがニュースゲットの役に立った、と言えることなのだろうか。

で、ことのなりゆきからして、世には今作をギャグまんがだと考えているお方がいそうなのだが。Wikipediaの説明でも、今作は『ギャグ漫画』のカテゴリーに入ってはいるのだが。…どうかな?
専門家としての筆者は、懐疑的だ(すみません)。古代ローマ人が銭湯のフルーツ牛乳を飲んだり、温泉卵を喰ったりして、やたら美味いと感心する、そんなふざけたお話ではあるようだけど。

今作についてすなおに申したら、ギャグじゃないにしてもコメディではあろうけど、その既刊の第1巻には、とくに笑える個所もなく。そうしてこれには、ふかしぎな高尚みを感じるというか、自分のようなおバカさん向きではなさそう、というか。
公衆浴場の文化をキーとして、古代ローマと日本とを結びつける。それは分かるんだけど、その発想がトータルふつうぎみで驚きに乏しいと、筆者には思われる。つまり、高尚さがから廻りしている。で、『ともあれニッポン人らのナルシシズムを満たすような、そんな内容ではあるようだな』と、そのくらいのことしか感じなかった。

そうしてここに表れているナルシシズムを、とくべつにいいとも悪いとも思わず。そして『誰かにとって“使える”作品ならば、それはあってもよかろう』と、筆者はあたりまえすぎることをここにてつぶやくのだった。

ただし。『マンガ大賞20xx』というものの趣旨を、筆者はまったく知らないのだが。にしても巨視的に正しい意見として、まんがの世界はお子さま中心で廻っていなければならないものだ。子どもたちに先んじておとながそれを愉しむのは、ほめられたことでない。
送り手の側にしてみても、おとな相手の商売の方が、相対的にかんたんなのだが。何しろいまは子どもが少ないし、おとなの方が当然サイフのヒモがゆるいので。だから『書店員らのお薦め』として、この「テルマエ・ロマエ」というひじょうにおとな的な作品が選定されたこともまた、そこらをねらってのことかと。

がしかしそんなビジネスに終始していたら、この業界には未来がなくなる。『ノーフューチャー!』という語は好きとか嫌いじゃなくて筆者につきまとっているものなんだが、こんなところでもそれを言わねばならなくなる。
だからことさらまんがに対して賞なんてものを授けるなら、小中学生による人気投票か何かで決めたらよかろうと思う。たぶん自分もそれなのだろうが、くろうと気取りのまんが読みらが持ち上げる作品とか、あまり。もはや老いていく一方のこの社会で、再び子どもらがまんが消費の中心に返り咲く見通しはひじょうにない、けれどもそれは目ざされなければならないのでは。

ところでナルシシズムというところに話を戻すと、われわれが(自分の)子どもたちを愛することはナルシシズムの延長であると、フロイト様は教えている。他ならぬ筆者が『まんがは第一に子どものために!』などときれいげなことを申すのも、かっての『まんがっ子だった自分』をいつくしんで言っているのだとは認める。
だがそうとしても、『その程度にさえも自分を殺せない』ということは、そこまでのむき出しなナルシシズムにおぼれることは、おとなげないにもほどがあろう。

山口舞子「もうすこしがんばりましょう」 - ちょんまげを、ゆわせてちょんまげ!

 
参考リンク:Wikipedia「山口舞子」

2002年からわりとさいきんまでの『花とゆめ』掲載作、『脱力女子高生三人衆の ホンワカSCHOOLライフ』を描く4コマ(花とゆめコミックススペシャル, 全5巻)。つまり、少女まんがのギャグ作品らしいものなんだが。
だが筆者においては『少女まんがのギャグ』というと、何といってもりぼん系のあれで。1970'sには土田よしこ大先生が「きみどりみどろあおみどろ」や「わたしはしじみ!」という大輪の毒花を咲かせ、1980'sには岡田あーみん「お父さんは心配症」や「こいつら100%伝説」が続き、そして1990'sには「まゆみ!」(*)、「へそで茶をわかす」(*)、「赤ずきんチャチャ」、「HIGH SCORE」(*)らが、という系譜…。
何を言ってんのかって要するにりぼん系を筆頭に、少女まんがといえどもギャグ作品であれば、『ホンワカ』じゃなくてパワフルかつ毒々しいものが多い、というか。そもそもそうじゃない作品を、≪ギャグまんが≫とまでは言わないし。さもなくばひじょうに古いところを見て、倉金良行「あんみつ姫」(1949)にしても、かなりダイナミックでテンションの高い作品だったわけだし。

また1990's以降、ギャグにおいてあまりふるわなかった他の少女誌からも、別コミの新井理恵「× -ペケ-」、LaLaのにざかな「B.B.Joker」と、すばらしい作品らが出ている。2作の共通点は、Late 1980'sの青年誌の≪不条理4コマ≫のインパクトが少女まんが的に消化されているものであることと、ひとまず見ておく。
(付言、さらに追って登場してきた別フレの美川べるの「青春ばくはつ劇場」もまた、その系列でありつつ。かつご存じのことだろうけど、「ペケ」・「BBJ」・「青ばく」と、いずれも4コマ作品)

だから…とも言いきれないが、その2作ともテンションの高さより、むしろシニカル(冷笑的)なふんいきがフィーチャーされている。そして現在までの21世紀のりぼんを代表するギャグまんが、前川涼「アニマル横町」もまた(ドタバタ要素もありつつ)、≪不条理≫とシニカルな感覚をフィーチャーした作品になっている。
さらにそこから≪不条理≫をもシニシズムをもマイナスしたとすると、テンションが低まったままに、お互いがお互いを『かわいい、かわいい』と言ってなぐさめあうような作品が、できなくもなさげ。そして今作「もうすこしがんばりましょう」を、そのようなものと見ることが、まったく不可能でもない。

で、筆者が、その『脱力女子高生三人衆』とやらのじゃれあいを描いた今作を見ていると、『もう分かったよ、君たちは“かわいい”から!』…という気分にならないこともない。がしかし、そのようなシニシズムに終始していても何なので、わりに自分がうけたところをご紹介しておく。

 ――― 山口舞子「もうすこしがんばりましょう」(第1巻, p.52)より ―――
教室でボブカットの少女≪ひよ≫が、ロングヘアの少女の髪をすきながら、『ふみちゃんくらい 髪が長かったら ちょんまげ 結えちゃうね』と言う。と聞いてふみは、『結いたいの?』と返す。
そうするとひよは、『結わない よ~』と言って手のひらを左右に『パタ パタ』と振る。だが、それから彼女はその手を振り続けながら、中空に視線を泳がせ、しばし『―――…』と何やらを考え込む。
やがてひよは意を決し、てれ笑いを浮かべながら『だめ! やっぱり結い ませんっ』と言い、さらに手のひらを『バタタタタ』と激しく振りまくる。これらのことを見ていたふみは、『……… 迷ったの? まさか』と、声低く静かにツッコむ。

これが一種の≪不条理ギャグ≫で、その内容に『まさか』もへったくれもない。そして別に申したくはないことだが、作中の『ちょんまげ』こそはフェティッシュであり、すなわちわれわれの言う≪ファルスのシニフィアン≫(勃起したペニスを象徴するもの)である以外にない。

そういえば。すごくむかしの話だが、あずまきよひこ「あずまんが大王」(1999)についての世間の評判を聞いて、筆者は女子校のお話なのかと思い込んでいた。しかしご存じのように実作を見れば、超わき役のモッブだけど男子らは登場している。
で、こちらの「もうすこしがんばりましょう」という作品の、第1巻を読んだ限りで。こちらには本当にオスが1匹もぜんぜん出ていないので、『今度こそは!?』と思ったのだが。
ところが巻末近くのバレンタイン話で、ふみが大量のチョコをゲットして、という場面で『女子校か ここはっ』というセリフが出ており、これに筆者はびっくりしたのだった(p.109)。

びっくりしてからこの第1巻を見直すと、ひじょうに何げなすみっこに1ヶ所だけ、校内の男子が描かれているのだった(p.30)。にしてもこの学校の男女比は、氏家ト全「生徒会役員共」(2007)のガッコと同じくらい(およそ1対18)だってのだろうか? まさかねえ。
では、どうして今作の中では男性の存在が≪抑圧≫されているのだろうか? それは筆者の言い方だと、『性交は不可能であり、かつ不可避でもある』というテーゼの前半の実現だ。

ではその『性交は不可能であり、かつ不可避でもある』とはどういうことか? それはもう、あらゆる意味で『そうである』としか言いようのないものなのだが、特に≪少女≫ということばの出ているところで問題になるテーゼではある。
そして、われわれがご紹介のエピソードで見たところ。作中の少女の想念、『ちょんまげを、結いたいような気もするが、しかし結えない』とは、『性交は不可能であり、かつ不可避でもある』というテーゼの言い換え、変奏、バリエーションに他ならない。

2010/03/16

東野圭吾+間瀬元朗「HEADS ヘッズ」 vs.「ドグラ・マグラ」 - 脳髄は物を考へる処に非ず

 
参考リンク:Wikipedia「間瀬元朗」 , 同「東野圭吾」, 同「ドグラ・マグラ」, 青空文庫「ドグラ・マグラ」

まずは、「HEADS」というまんがについて。よくは知らないが高名らしきベストセラー作家の原作による、2002年の医療サスペンス作品(ヤングサンデーコミックス, 全4巻)。
そして掲載誌がヤングサンデーというだけで『悪趣味な作品に違いない』と思い込む、そんな筆者の偏見の深さ(…今作は、そこそこ)。なお、正しい題名表記は『HE∀DS』と、Aが逆転している字。

それはどんなお話かというと、美術を愛する若い工員で小心者のヒーローが強盗事件に巻き込まれ、頭部に銃撃を受けて、瀕死の重傷を負う。それから病院のベッド上で意識を取り戻したものの、≪何か≫がいろいろとおかしい。自分が自分でない感じ。
やがて彼が知ったのは、彼が治療の過程で、世界でも初めての『脳組織の移植』を受けて蘇ったということだった。でまあ手っとり早く申せば、移植ドナーの人格が脳組織から、彼の人格を侵蝕していくというお話なのだった。そしてそのドナーが何ものなのか、ということがまた問題だが。

さいしょにささいな感想を書いておくと、まんが作品らの中に、『脳をいじられた人間』独特の相貌の系譜みたいなものがあるな、と気づく。脳手術を受けた後なのでスキンヘッドか超短髪であり、後者の場合はしばしば、その髪が逆立っている。あわせて≪火星ちゃん≫風に、頭デッカチぎみな場合もある。そしてその顔つきは、目がやたら大きく、知的なようにも冷血兇悪そうにも見える、と。
筆者の知るその系譜の古いところは、宮谷一彦の超まぼろしの作品「キャメル」(1975)のヒーローだ。現在それは有志の尽力によりWebで読めるので、「HEADS」に興味を抱かれるような方にはぜひ、ご閲覧をおすすめいたす(→こちらにて)。
あと、大友克洋「AKIRA」(1982)のかたき役≪鉄雄≫。彼の場合は外科的ではなく、内科的に脳をいじられているわけだが。それと手塚治虫「ブラック・ジャック」の脇役にも、この系列の人がいたような気が。また手塚といったら今作「HEADS」は、脳の半分をコンピュータに入れ換えられたヒーローを描く「火の鳥 復活編」(1970)のパロディになっているような気もしつつ。

ところで。筆者は現代の小説は読まないけれど、夢野久作「ドグラ・マグラ」(1935)がものすごい傑作だということは知っている。そしてそっちの作品は、まったくの逆方向からこのような問題を扱っている。
まずその作品の主人公たる青年がベッドの上で目ざめると、自分が何ものかが分からないのでパニックに陥りかける。やがて若林博士という医師が現れて、その場所が九州大学の精神科の病棟だ等々と説明し、そして『自分の名前が思い出せるか否かが、あなたの治療の一大ポイント』と言う。
先廻りになるが、この主人公にとって、『自分が“その自分”であることを受けとめきれるか否か』が、まさしくポイントなのだ。けれどもお話はそのかんじんな方にまっすぐには進まず、これまた重要な人物…主人公のもとの主治医だった故人、正木教授の事蹟、という方に展開する。この型破りで大革新的な精神医学者の持論は、『脳髄は物を考える処に非ず』だったというのだ。

 ―― 夢野久作「ドグラ・マグラ」, 『絶対探偵小説 脳髄は物を考える処に非ず』より ――
『吾々の精神……もしくは生命意識はドコにも無い(引用者注、感覚や意識や想念らは、脳の中にあるのではない)。吾々の全身の到る処に満ち満ちているのだ。脳髄を持たない下等動物とオンナジ事なんだ。
お尻を抓(つ)ねればお尻が痛いのだ。お腹が空くとお腹が空くのだ。
頗(すこぶ)る簡単明瞭なんだ。
しかしこれだけでは、あんまり簡単明瞭過ぎて、わかり難(にく)いかも知れないから、今すこし砕いて説明すると、吾々が常住不断に意識しているところのアラユル慾望、感情、意志、記憶、判断、信念なぞいうものの一切合財は、吾々の全身三十兆の細胞の一粒一粒毎に、絶対の平等さで、おんなじように籠もっているのだ。そうして脳髄は、その全身の細胞の一粒一粒の意識の内容を、全身の細胞の一粒一粒毎に洩れなく反射交感する仲介の機能だけを受持っている細胞の一団に過ぎないのだ』

というわけなのだが、いま読み返してみたら、筆者の記憶とは異なる部分があった。いま引用されたものは、正木教授の主張とイコールではなさげ。彼の病棟の患者である≪アンポンタン・ポカン氏=主人公≫が、その病相が躁状態に近いときに語ったところを『興味深い』として、正木教授が紹介している(らしい)のだ。
そうして正木教授は、ポカン氏の学説を紹介し終えると、

『「脳髄が物を考える」という従来の考え方を、脳髄の中で突き詰めて来ると「脳髄は物を考える処に非ず」という結論が生れて来る……という事実はモウわかったとして、その「考える処に非ず」をモウ一つタタキ上げて行くと、トドの詰りが又もや最初の「物を考えるところ」に逆戻りして来るという奇々妙々、怪々不可思議を極めた吾輩独特の精神科学式ドウドウメグリの原則までおわかりになるという……』

と、まったくどうにもならないことを言って、聞き手の新聞記者にはぐらかしをかますのだった。
ちなみに夢野久作独特の文体として、ご覧のように、ヘンにカタカナ表記を多用してるワケだケド。コレが気に入って筆者も一時期、けっこうマネしておりマシタ!

ところで。やがて正木教授のお説はだんだんと過激になってきて、しまいには『生体を構成するたった1つの細胞すらが、“すべて”を憶えている』という主張になる。『すべて』とはどういうすべてかというと、地球上に生命が誕生して以来の『すべて』だ(!)。う~む。
関連してわれわれが興味をもっている精神分析の主張として、実は人間には『忘却』という現象はまったくない(!)、ただそれらは無意識へと抑圧されているばかりなのだ、というが。で、さすがの筆者もその『すべて』の主張ばかりは、100%うのみにできかねるのだが…。
(またユンク一派の『集合的無意識』という面白チン説もあるが、それは問題とするに値しない)

かくして「ドグラ・マグラ」という作品に書かれたこととして、『脳が考えているわけではない』、でありつつ(ここは現実に照らしてもうなづける)。そして、『むしろすべての細胞が考えている』というところを起点として、とほうもないお説が飛び出しているのだった。
しかしだ。『脳が考えているわけではない』、というところから『むしろすべての“細胞”1つ1つが考えている』を導き出すことは、地味な還元論をいったん否定してから、大胆きわまる還元論を新たに繰り出している、ということではなかろうか。『1つの生体が考えている』、というべきではないのか。
(なおかつ、われわれが『考える』とは、必ずことばを使って考えるわけなので、むしろ『ことばが考えている』とも言いうる。そうして、ことばの自己増殖の媒介として人体が使われているのかも、という見方はぜひ保留されとくべき)

そこいらにお話上のトリックがあるな…とは思うのだが、しかし面白い。ホラ話として「ドグラ・マグラ」は、ひじょうに面白い。
なおいろいろと思うところがあって、例によってこれもまた≪オイディプス神話≫の派生物だと見うるのだが。けどまあそれらの論点は、たぶんやらない『「ドグラ・マグラ」論』で書くということにして。

で、やっと話が「HEADS」に戻るのだけど。筆者においてはこのお話が、すでに述べた『移植ドナーの人格が脳組織から、主人公の人格を侵蝕していく』ということを、何ら意外性の演出もなきまま、ただめんめんと描いているだけ、というところに大きな退屈を感じる。
だから『そんなことがあるのか?』という疑問を、ここで検討してみる気にもならない。かつまたドナーの正体にしても『まったく意外性ねえな』、と感じた。それと大学病院のえらい先生が、テレパシーの実在などをあっさり認めるのも描写が軽い(第3巻, p.124)。

ところでだが、移植ドナーの人格の、突発的な兇暴性、そして極端な潔癖症、というところが「HEADS」作中で問題になる。ヒーローがそれを自分の兄のことと偽って精神科で相談すると、医師はその症状を、『一種の“エディプス・コンプレックス”という 見方ができますね』、と言うのだった(第3巻, p.158)。
と、聞いて。筆者の中には兇暴性や潔癖症と≪エディプス・コンプレックス≫とのつながりがなかったので、『おや?』と感じた。しかし調べてみたら、『フロイトはエディプスをあらゆる(略)神経症の核として位置づけた』(シェママ他編「新版 精神分析事典」, p.216)、とのこと。さすれば“すべて”の症状をエディプス・コンプレックスに還元することは、じゅうぶんに可能だ(!)。

しかも万人が段階としてのそれを必ず経ていると見ているわけだから、『彼は、あなたは、私は、エディプス・コンプレックスだ』という言表に、何の意味があるやらないのやら? もしもそんなことばっかし言ってるのだとしたら、人々が精神分析を懐疑的に見ることに何のふしぎもない!
だが確かに言えることが、1つはある。「HEADS」作中の精神科医は≪エディプス・コンプレックス≫について、『本人に原因を認識・自覚させることで ほぼ治せます』というが、しかしその『認識・自覚』とやらがどうにもできないことなのだ。
さっき「ドグラ・マグラ」に関しても述べたことで、『自分が“その自分”であることを受けとめきれるか否か』が、常に大問題なのだ。そのことは別に、病んでいる方々ばかりの問題ではない。

で、もしも『私はエディプス・コンプレックスです』という言表行為があったとしても、それで主体がそのことを『自覚』しているということにはならないのだ。そのひじょうにできない『自覚』にいたるために精神分析は、『短くても1年』とかのような長い分析期間を費やすのだ。
よってそんなかんたんに『認識・自覚させれば治せます』というものではないし、そもそも≪エディプス・コンプレックス≫は、病名では『ない』。ここを誤解してはいけない。

亜樹直+オキモト・シュウ「サイコドクター 楷恭介」 - 無意識世界の出来事を引きずり出…さない!

 
参考リンク:Wikipedia「サイコドクター 楷恭介」

『モーニング』誌掲載の心理サスペンス(KCモーニング, 全4巻)。もとはMid 1990'sに「サイコドクター」として出ていた作品が、びみょうにもようがえして21世紀に復活したものらしい。その間の事情がよくわからないが、別にあまり深入りしなくてもよい感じ。

これは何か精神分析にかかわりあるお話かと思って見てみたのだが、結果的にはかん違いでした。そのかん違いの過程を、ごくごく手短に説明すると。
さいしょのエピソードでおかしな身体症状に悩むクライアントが登場し、そこでドクターはブロイアー+フロイト「ヒステリー研究」(1895)をひいて、『その症状がヒステリーからのものということは、大いにありうる』、と説明する。『ほほう』と思って見ているとドクターは、

 『ブロイエル(ブロイアー)はアンナを 催眠状態にして
 隠された本音を 引き出した』(第1巻, p.30)

と言い、催眠術療法にとりかかるのだった。

…ところが催眠術療法は『症例アンナ・O』の治療に役立ってないし、そこから催眠術を否定しての≪精神分析≫が始まっていることは、こんにち「ヒス研」を読もうという人間には分かっていることであろう。

 『抑圧された 本音……』
 『そうです ただ こうして 会話しているだけでは
 それはなかなか 見えてこない』(同)

わざわざブロイアーの名前を出してまで、そうも精神分析を侮辱する理由はないはずだ。そうではなくて。アンナ・Oの自発性から、催眠術を用いない『談話療法 talking cure』が始まったということに、われわれはその永遠の価値を見出しているのだが。
だいたいのところ、実はブロイアー医師はアンナ・Oの治療において大失敗しているという、後に明らかになった有名な事実がある。そのかっこ悪い事実を含めつついろいろ考えるべきことがあるが、しかし今作の水準が低すぎて、『それにからめての話』など展開できはしない。

まあ出だしがこんなんだから、すぐに続いてこの作品が『多重人格』という面白トピックを取り上げるにいたっていることには、『やっぱりね』という感じしかなかった。興味本位。面白半分。クライアントに対する操作的態度、その尊厳に対する尊敬のなさ。

 『彼に施した(中略)無意識世界の 出来事を 引きずり出す 方法』(第4巻, p.55)

だ~から! それをむりに操作として引き出すことは≪治療≫として成り立っていない、ということを、フロイト様がその出発点で明らかにしているので! 『出てくるのを待つ』ということと『引きずり出す』ということの違いも分からないような鈍感人間が、おろかにも『心理』とやらをおもちゃにしているのだ。
またどうでもいいけどその第1巻のカバー画で、クライアントを座らすような長いすに主人公がどっかりと座って安楽にしていることは、『逆だろ! わきまえろ!』というツッコミを誘発している。

…運が悪くもこの記事を見てしまっている皆さまよ、転んでもただでは起きないというスピリットによって、ぜひこれだけは憶えて帰っていただきたい。『精神分析=フロイトの方法』は、その大前提として『催眠術否定』なのだ。なぜならばクライアントの自発によるのでなければ≪治療≫がありえないような病を、専門にそれは診ているのだから。
とりあえずこの作品は、『無意識』とか『トラウマ(外傷)』とかいう語を使うことを、止めたらよかろうと思う。近ごろメディアミックスに関連して『原作レイプ』というイヤなことばを聞くことがあるが、この主人公もまた作中のクライアントらの『心理』をレイプし、かつわれわれの理論をレイプしている以外でないので。

ただしエンターテインメントとしてのまんがにおいては、これもありかも知れない。そもそも分析家の実践なんて、これっぽっちもかっこいいところがないし。じっさいのところその役まわりは、たんつぼとそんなに変わりがないのだから。
そうではなくて『カウンセラー』とやらを名のる主人公が、操作的な態度でかっこよく(?)、猟奇的殺人犯とかをビシビシ摘発するようなお話になっていることは、商品としての今作の必然なのやも知れぬ。

けれど、こんなものしかないんだとしたら、筆者がいい年齢して≪まんが≫ごとき読んでいる理由はない。追ってわれわれは山上たつひこ「喜劇新思想大系」(1972)を見ることになるだろうが、正しい理解にもとづいて≪精神分析≫を描いているのはとうぜんそちらの大名作に他ならない。
いやむしろ。精神分析の考え方、そのポイントを深くえぐったところを描くことは、ギャグまんが以外では不可能なのかなあ…と、近ごろ筆者は考えるのだった。

2010/03/15

佐藤まさき「ボクら超常倶楽部です」 - パンチラは阿片である

 
参考リンク:Wikipedia「佐藤まさき」

佐藤まさき先生の初単行本(1997)、月刊少年チャンピオン掲載作、第1巻のみ単行本が出ている状態。
むかしからあるギャグまんが虐待の例として、少年サンデーコミックスは未収録編を多く残した歯抜け状態で刊行され、こちらの少年チャンピオン・コミックスは最終話さえも未収録で刊行を投げ出す(!)。たぶんそこらで今作も、まったくきりのついていない状態で読者に向けて放り出されている。
まあそういうこととは別に、筆者の考えだと、ギャグまんがにはきれいなまとめ、まともな最終回などは別に要らないんだけど。…にしても。

ともあれ、今作がどういうお話かというと。その主人公らしき≪起田クン≫は転校先の中学校で、不運にもむかしの悪友の≪紺情クン≫に再会してしまう。そして彼が部長の『超常倶楽部』に入部させられ、そうしてアホな部員らとのバカげたオカルト探求の冒険にツキ合うハメに…!
お話のさいごまでは読んでないにしても、今作にはそんなには特別さえたところがない。が、後の「未来人間GOGOGO」や「超無気力戦隊ジャパファイブ」の作者の初期作品だとこれを見れば、後の傑作らにつながる特徴が発見できなくはない。

まず、『登場人物が多い』。第1巻のカバーを見ると、狭いところにいっきなり、6人もの超常部員らがひしめきあってる。このように佐藤センセのお作はわりといつも、ギャグまんがにしてはキャラクターが多めなのではなかろうか?
そしてこの「超常倶楽部」は作者の初長編として、いっきなしWヒーローとWヒロインと濃いめの脇役らがワラワラと出てくる…とあっては、ちょっと未整理な感じが否めない。面白くなりそうな感じもあるのだが、惜しくも作劇がついてきていない。特に、Wヒーローのそれぞれがフィーチャーしきれてない。

次に、『劇画チック』というか『スペクタクル志向』というか。今作の第5話で、UFOを捜して野営しているバカらの前に、ついに『それ』が出てくる場面のド見開き(第1巻, p.142)などを見ると、『常にやりたいことはこれなんだなァ』と感じさせられる。が、この作品にては、その要素がただ浮き気味かと見れる。

さらにお話の動因としての、『ラブコメ的趣向』。今作で起田クンがついつい超常倶楽部につきあってしまう理由は、アホたちの中にかわいい女の子がまぎれ込んでいて、その子に関心をいだいたからだ。このように構成の根幹がラブコメ仕立てであるところは、後の「未来人間」にも「ジャパファイブ」にもつながる要素。

で、さいごに『エロス』というか『ヘンタイ性』というか。「未来人間」にそのまま出てくる老人の校長の女装趣味もそうなんだけど、第4話に登場するカッパが≪エロガッパ≫を演じるシーン(第1巻, p.108)には異様に作画に力が入っていそうだが、これはこうならざるをえぬであろう。
ハッキリ申せば、そこがこの本のNo.1のみどころだと思うのだが。しかし似たようなシーンが他にないというのでは、ウリにならないではないか。たかがパンチラ、されどパンチラ! いちどやったら、随意にはやめられない…という、まんが界のきびしぃ~い宿業をわれわれは見ねばならない。

そうこうとすると、この初期作品にすでに見えている、まさきセンセのお作の特徴ら…

 1) やたら多数のキャラクターが登場
 2) 劇画チックでスペクタクル方面な展開・描写への志向
 3) ラブコメ的興味
 4) エロス・ヘンタイ・下ネタ

…これらの要素をみごとに展開し消化しきって、しかもリッパな≪ギャグまんが≫にしたのが、後の「ジャパファイブ」だということになる。というきれいげな結論が出たところで、この続きは「未来人間GOGOGO」のところにでも書こうかと。

金田一蓮十郎「ジャングルはいつもハレのちグゥ」 - 密林の中の≪テーバイ王家≫

 
参考リンク:Wikipedia「ジャングルはいつもハレのちグゥ」

作者・金田一蓮十郎センセの1997年のデビュー作にして、最大のスケールを誇るシリーズ。構成がよく分からないがお話の途中から「ハレグゥ」と改題されて、それぞれ全10巻出ているとかどうとか(ともにガンガン・コミックス)。

で、どういうお話かって。空想的な設定のジャングルの中の村、ヒーローの≪ハレ君≫と母との2人暮らしの家に、身寄りのない女の子≪グゥ≫が引き取られることに。で、さいしょ一瞬だけしおらしく振るまってたグゥだったが、実はこれがとんでもないしろもの! その本性は、妖怪変化か悪魔のごとし! そしてハレ君一家とジャングル一帯に、グゥの演出による不条理と疑心暗鬼の大うずが巻き起こる…ッ!

とま、そんな感じかと。これはおそらく名作と言われてるものなのだが、けれども筆者は現状のところ、さいしょの2巻までしか読んでいない。読めないのだ。
なぜって言い訳を申すならその内容が、≪外傷的≫というにも自分にはコワすぎる、ヤバすぎるッ…との理由によって。

何せ『外傷的ギャグまんが』というしろものであれば、それを読んでの拒否反応…てのはとうぜん大いにありうることだ。そして今作の内容がとくべつに悪趣味すぎる…とも言いがたいのだが、しかしそれは筆者のとくべつ痛いところに触れてくれたようなのだった。よけいなことかも知れないが、筆者の自己治療か何かのために、感じたことを書いておこう。

まず、グゥの特技が『まる飲み』であり、そしてその胃の中はおそらく異次元か何かで、そこでは呑まれた人らが平気で暮らしている。…こんなのは耐えられない! 恐ろしすぎ!
そしてその恐ろしき現象の存在を知ったハレ君もまた恐怖に襲われ、自失して壁に頭をぶつけながら、『長い夢だなぁ(中略)早く目ェ覚めないと』…などと悲惨なことを言う。この状態をナレーションは、『頭で理解した 事実を体全体で 否定する 少年』…と言う(第1巻, p.46)。よくもゆってくれやがッたモノで、『頭で理解した事実を体全体で否定する』とは、われわれの申している≪神経症≫の定義に他ならぬ。
ついでにグゥの挙動のワケ分かンなさに触れすぎたハレ君を、ナレーションは『現実がわからなくなる 少年であった』…と言うが(第1巻, p.184)。で、そのように≪現実≫が、分からなくなる、分からないものとしてのそれに気づく…ということが精神分析の始まりでありかつ、≪狂気≫とのふれあいの始まりでもあるのだった。はっきり申してこの作品は、われわれの方から見て、うがちすぎだしエグりすぎだッ!

かつきもち悪いといえば、この作品世界には≪ポクテ≫と呼ばれるふしぎな動物、『食用うさぎ』と呼ばれるものがそこら中に登場する。これはどういう動物かというと、見た目はへんだがひじょうに美味であり、しかも心やさしく知性ありげで、遭難した人を助けたりするという。
それこれによってポクテは、『神の使いでありつつ大切な食料源』なのだそうだが。しかしそのルックスのおかしさとあわせて、どうにもうすきみ悪い存在としか思えず。そして『神の使いの心やさしい動物を食用にする』、という神経が分からない。しかも、

 『あまりにも ポクテを食べ すぎると
 その仲間から 逆襲される』(第1巻, p.92)

などといううわさ話までがあるときては…! きも~!

で、話を戻し。そのようなグゥの存在に対してハレ君が、むりにでも慣れたような気分になったところで。こんどはハレ君らのガッコに超ナンパでイケすかねぇ男が保健の先生としてやってくる。で追って、何とこれが、ハレ君の実の父親だと判明する(!)。
向こうはハレ君ができたことをまったく知らなかったが、心当たりは『すっげーある』、ということなのだった。10年前に遠い都会で、たったの15歳だったハレ君の母を、こいつは手ごめ同然にどうかしたらしいのだった(!)。

しかもこのイヤな男、ハレ君の母によれば『ルックス(の良さを)取ったら ただの性格破綻者』(第1巻, p.169)というヤツが、再びハレ君の母に言い寄ってくる(!)。そして、イロケ過剰で酒にも生活にもだらしない彼女は、へたすればそいつとよりを戻したりしそうなのだったッ(!!)。
いやァ言うなれば、この物語の主人公たるハレ君の父親は、DIO様のお父上(えっと、名前が…ダリオ・ブランドーか)にも匹敵するくらいな、ロクでなしでヒトでなし…てことらしい。するとハレ君もいずれは父親を謀殺し、その墓にツバをかけて野望の旅立ちへ…。なんて展開もあるか?…とも考えたが、しかしそんな境地にまでは追いつめられてもいない。

それは、グゥとの関係にても“同じ”ことだ。ハレ君はグゥを気味悪く思って怖れてるし、彼女が、自分とその好きな女の子≪マリィ≫との間に割り込んでくるにもムカついてはいる。がしかし敵は、『もうガマンできない!』というところまでは彼を追いつめて来ない。
かつ、彼がとうぜんいちばんの頼りにしてる母はグゥをふしぎと気に入ってるので、彼はもろもろの状況をブチ壊しにはできない。そうしてなし崩しに、ハレ君が暮らしていた≪日常≫は異常化していくのだ。

ここで少々分析的な見方もすれば、ハレ君を囲んで3人のキーになる(気になる)女性らが存在し、そのそれぞれが≪“現実”的な女=グゥ≫、≪“象徴”的な女=母≫、≪“想像”的な女=マリィ≫、という機能を持っているようでもある。
(めんどうなことを申すがラカン用語として、“現実”=わけの分からぬキモいもの、“象徴”=すじ道や規範を示すもの、“想像”=好きかってなイメージ、という感じ。この3つを≪ラカン3界≫と称し、それらは合わさって人間というものを表す)

しかし一部の機能不全により3界のバランスが失調しているので、ハレ君は『不安』の高まりという症候をきたしている。≪想像≫は期待通りのイメージにならないし、≪象徴≫たるべきものは規範を示してくれないし、そしてグゥという女=≪現実的なもの≫ばかりが、ズズズィ…と彼へと迫ってくるのだ。
かつ、あまり言い張りたくないことだが、息子に対して≪規範≫てものを示すべき父親が、ハレ君においては『ただの性格破綻者』であり。そして今作の特に冒頭あたりで、ハレ君とその母との間に近親相姦チックなムードがあることにも注意がなされるべきであり。
で、その異常化していくハレ君の生活を見るに筆者は忍びない、こちら様の≪テーバイ王家≫の悲劇のケツ末を見届けたくはねェ…というのが、自分の正直なところなのだった(テーバイ王家は、われらがオイディプス君の家系)。そうするとグゥの役回りは、≪オイディプス=ハレ君≫になぞをかけまくるスフィンクスというところか。

と、さいしょに筆者が『自己治療』と記したように。こうして字で書いてみると多少は状況を客観視できてきたようなので、いずれ今作を読むことへの再ちょーせんがないとも限らない。

…とまでの堕文を、昨2009年の夏に書いていた。追って筆者はきもち悪いのをがまんして、「ハレグゥ」の第7~8巻あたりまでは目を通した。だがそこまでに、お話というか散漫ぎみなお芝居(?)は展開しているかも知れないが、テーマ的な深まりは特にないようだった。
そこまでをも見た上で、どうも筆者はこの作品を、『ギャグまんが』とは受けとれないようなのだった。これをつまらないとも思わないが、確かに≪何か≫を描いた作品だとは思うが、しかし笑えるところが多いという気はしないのだった。≪不条理≫系のギャグまんがというものは、そういうふうにも読まれてしまうものではある。

【追記】 2010/03/17。以下は今作を読んだものなら、誰でもうすうす感じていそうなことだが。グゥのきもち悪く恐ろしき行状のあれこれは、ハレ君に対しての単なるいやがらせ、ただの悪ふざけ、なのではないようにも思われる。それはむしろ一種の求愛(!?)、『“現実的なもの”としての女』を愛せよ、という意味のパフォーマンスなのかも知れない。
そういえば、ハレ君から見てのグゥは、ふだんはひじょうにへんな女の子だが、またあるときには光り輝く美少女だ。そしてその見え方の変化はハレ君だけが感じるところらしく、つまり『グゥが何ものであるか』を決定しているのは、意外とハレ君の側の態度や感じ方かも知れないのだ。

かつ。筆者にはよく分からないところだが、グゥはおそらく『成功したまんが作品のヒロイン』として、読者層の人気者なのでもあり。そしてなぜ彼女が(きもち悪いのに!)一定の人気を集めているかと考えたら、それが女性の一面、女性が『現実的なもの』でもあるという事実を表しているから、なのではなかろうか?
別の言い方をすれば。今作は少年誌の掲載作だが、女性らにも人気を博したと伝えられており。そうしてこれを読む女性らは、まったくもってわけの分からないグゥという存在に、自分の中にもある≪何か≫を見ているのではなかろうか?
で、そうして『女性というなぞ、“女の欲望”とは何か?』という問いをいきなりつきつけられた未熟な少年は、『不安』に苦しみ神経症を病むくらいしか対処のしようがなくて、ずいぶんかわいそうなのだが…っ!

ながいけん「神聖モテモテ王国」 - 体は疲れているのに妙に脳が

ながいけん
「神聖モテモテ王国」
 
参考リンク:Wikipedia「神聖モテモテ王国」

たったいま調べてみたらこの「神聖モテモテ王国」は、完結はしていない作品だそうで。1996年から2000年まで断続的に少年サンデーに掲載、少年サンデーコミックス版は第6巻まで刊行。
さてこのような作品が『ある』とはむかしから知ってたのだが、読んでみようかという気を起こしてしまった理由は、田丸浩史センセがこれ等の、ながいけん先生のお作群を大絶賛されてたからだ(田丸「レイモンド」第1巻, p.59)。で、この先生のご著書を捜してるんだけど、いまだ今作の1,2,5巻しか手元にない。売ってないんだもん。
…と書いていたのは昨2009年のことで、追って現在までに「チャッピーとゆかいな下僕たち」の新装版(2004, 大都社)はめっけた。でもそれについては、そっちの項目で語るとして。

で、「神聖モテモテ王国」について、そこまで読んだ限りでの寸評だが。

主人公らしきボーズ頭にメガネに学生服の少年15歳は、≪ファーザー≫を名のるひじょうに奇妙なおっさんとアパートで2人暮らし。何が奇妙と言って、そのおっさんの姿が≪ギレン・ザビ≫を崩したような軍服とマント、そして下半身は白ブリーフいっちょに裸足。しかも、耳があるところにへんなツノが生えており…ときては、奇妙だとしか!
そしてファーザーは少年を≪オンナスキー君≫と呼び、自分の息子であるかのように言い、そして2人で『神聖モテモテ王国』なるものを建国しようとか言う。それは、『ナオンと彼等だけの蜜あふるる約束の地』だとか何だとか。
そうして彼らは、ファーザーの珍アイデアにもとづくナンパ実践にはげむのだが。しかし、いっこうにナオンが釣れないばかりか、通報されて終わりとか、巻き込まれたヤクザや不良にボコられて終わりとか、いつもそんなケツ末ばっか!

ところでこのシチュエーションが何かおかしいわけだが、実は少年は記憶の一部を失っていて、そこらの治療のために通院中だったりする。そしてファーザーは実の父ではないらしいのだが、しかしほんとうの家族がどうしているのかは分からない。
なので。今作の中身は、≪不条理ギャグ≫というのとも異なる感じのドタバタ劇だが、しかしその内容以前のシチュエーションの部分に、≪不条理≫なふんいきがある。知らぬことだが今作のラストというものがあったなら、そこでそのなぞが明らかになってるのやも知れぬ。

にしてもこの少年が、自分の名前や身元さえもハッキリせぬ心細い身の上なのに、しかしファーザーの提案する『ナンパ実践にはけっこう乗り気である』というトコが、ふしぎというのか、人の性欲のものすごさというのか、あたかも安いRPGのヒーローみたいなおきらくさというのか!
あとついでに申して、いくら何でも『ナオン』は死語すぎではッ? 1970'sの『週刊プレイボーイ』とかに出てた語じゃねーか…と思うのだが、しかしファーザー様の青春時代の用語ではあるのやも。

かつまた。われらのファーザーは、現在の先進国らで支配的な≪代議制民主政治≫という制度に異を唱え、≪開明的専制政治≫として彼の王国に(いずれ)君臨し統治する気がマンマンのようだが。
しかし、『開明的独裁は必ずや、単なる独裁暴政に堕す』という格言の正しさは、ファーザーの行状を見ていればおのずと明らかでしかないっ。
が、そうかと言っても現に存在している代議制民主政治とやらの姿のみすぼらしさが、ファーザーが自分と自分の一人芝居で激論を交わしてる戯画と、何ら選ぶところがない。というところで意外にこれが、社会風刺的な作品であるのやも?

とまで、説明をしてきたが。なるほど田丸センセがHOTに指摘されている、ながいけん先生の『言語感覚のスゴさ』、それは大いに今作へと認められる。
その例をどこからもってきたらいいか…逆に分からないほどだが、1つ引用しとけば。

 『泣かぬなら 雨ニモ負ケズ ホトトギス
 僕の前に道はないから じっと
 手を見る カラダ記念日』(第2巻, p.77)

芸術の秋、詩人はモテるのでは…と思いついたファーザーは≪詩人ガーZ≫と号して、ヘンな詩を口ずさみながらナオンちゃんにつきまとって、しかしまいどのごとく轟沈するのだった。
うーん、ちょっとまた異なるところを見るべきだろうか…。では次に、名探偵はモテそうだと考えたファーザーがホームズっぽい扮装をきめながら、自分の名探偵ブリを示すべく、ナオンらに言う。

 『百人一首の 犯人は紀貫之。ザクの 犯人はシャア。
 デカン高原の 犯人は綿花。縄文時代の 犯人は、縄。』(第2巻, p.184)

とまぁ…。こんなでは、ながい先生の言語感覚のスゴさをご紹介できたような気がしないが。しかし筆者は、今作を見て思うのだった。確かにすごい要素が大いにあるけれど、でもそれが≪まんが≫としての面白さには、必ずしも帰結してないのでは、と。
≪ギャグ≫がどうこう以前に、この作品には、『読んで笑うようなふんいき』が…まず読者らの心がゆるむようなふんいきが、なさすぎなのでは? 筆者だけかも知れないが、その全般の冷ややかな感じに入っていけないのだった。≪共感≫はギャグまんがのメインの要素ではないが、しかしそれがまず≪まんが≫である以上は必須だし。
つまりだ。すまぬことだが自分という読者の感覚は、ファーザーらの奇行を見てすなおにひきまくるナオンらの感覚に近いようなのだった(!)。

ところであんまり関係ないことだが、少年サンデー系列の若手・新人ギャグ作家らの単行本には、たまに高橋留美子先生によるすいせん文が載っている。これがいつもいいこと書いてあって、『留美子先生は読者としても超一流だな!』と、筆者をむしょうに感動させるのだった。
で、それがもったいなくも(?)、今作の第1巻にも出ているので、何かの記念に引用しておこう。

 ――― 『高橋留美子先生 大絶賛!?』(「神聖モテモテ王国」第1巻カバーそで)―――
『体は疲れているのに妙に脳がさえて眠れない時など特に良い。センス抜群のネームと、確かなストーリー展開が、快い笑いと脱力感を与えてくれ、いろんな事がどーでも良くなって心が癒されます。本当です』

この評言について、『センス抜群のネーム』は誰にも大いにうなづけることだが。しかしその『確かなストーリー展開』、とはどういうことだろうか?
今作はどうでもいいようなドタバタでまいど展開しつつ、しかし何らかのなぞへと遠廻しに迫っているような感じがなくもない…そのことだろうか? または毎回のファーザーの計画が『まったく必然的に失敗している』という、そのことが『確かなストーリー展開』なのだろうか?
そこらでわれらが留美子先生の真意はよく分からないのだが、しかし筆者としては、『これを機会に、ギャグまんがにおける≪ストーリー≫概念を再検討してみそ』、という啓示を拝領した気分なのだった。

2010/03/13

≪初音ミク≫ - 矢野顕子、戸川純、越美晴、そしてミク(…!?)

 
参考リンク:YouTube「2.5次元 - ミクFES'09(夏)」

以下はまったくの雑文でしょうがない、ということをまずお断りしつつ。というか参考リンクとやらの先の動画が“すべて”で、筆者の堕文がひじょうに蛇足なように思いつつ。

見れば分かることでもいちおう説明すると、動画は「ミクFES '09(夏)」という一種のコンサートの中の10分間で、ご覧のように会場はたいへんな大盛況だ。どんだけの人がいるのかと調べてみたら、このべニュー(新木場“STUDIO COAST”)のキャパシティは2400人だとか。
で、このコンサートらしきイベントの主役として青少年たちを熱狂させているのが、皆さまもご存じの『バーチャル・ボーカロイド』こと≪初音ミク≫なのだった。

たまたま見たどこかの掲示板に、この動画へのリンクが張ってあって、うかつに見に行った筆者をずいぶんびっくりさせてくれた。そのショックのあまりに、ついついこんな堕文を書いているけれど。そこで調べてみると、このようなミクのパフォーマンスをフィーチャーしたコンサートは、現在からわずか数日前の3月9日(=ミクの日!)にも大盛況裡に行われたばかり(参考リンク:毎日.jp「ミクの日のコンサートに2500人」)。
それも1日2回興行、というので大変だが(?)。しかし生身の歌手とは違って疲れない壊れないというところで、『バーチャル』のメリットは最大限に発揮されている(!)。ようし!

ところでミクの『半機械的』ともいうべき歌声が筆者には、テクノポップが流行っていた時代(Late 1970's~Mid 1980's)の、矢野顕子、戸川純、越美晴、といったテクノ系ディーヴァたちの系統にしか聞こえないのだった。で、ひじょうに、『いちおういい意味で』のノスタルジーがあってならないのだった。
昨2009年には≪HMO(初音ミク・オーケストラ)≫を名のったユニットによるYMOカバー集CDがちょっとしたヒット作になったようだが、聞いてみて筆者には『それはとうぜん、合いすぎだってば(笑)』という感想があった。ついでに申すと、そこで自分の大好きな細野晴臣の曲「Lotus Love」の、歌はいいけどオケの聞こえ方が、原曲に比べてずいぶんフラットだと感じた。むしろ原曲のあまりにも立体的な音像感が異常なのだが、しかしミク版のフラットさこそが、21世紀の音というものかも知れない。

で、リンク先の動画の2曲目「ロミオとシンデレラ」の出だし。その過剰にひねくったメカニカルなメロディがどうにもYMOチックで、しかもそれを歌っているミクの声の≪非情さ≫が、筆者にはほんとうに何かが蘇ってくる感じでショッキングなのだった。
だいたいこの楽曲は、明らかに人間が歌うようにはできていない。メロディもそうだが、ブレスが少なすぎて≪非情≫。
まじめに聞いていれば『何だかすごい』と思うばかりだが、他のことをしながら聞き流していると逆に、『それはおかしい!』と思わず口走ってしまうような不自然さがある。ここらはミクが明らかに、旧世代のテクノ・ディーヴァらを『追い越して』いるところだ。

そうして筆者の察するに、さきの動画でミクの歌声に熱狂していた青少年たちは、だいたいがYMO世代のジュニアなのでは。と、こんなことを申している筆者も、いちおうYMO世代だけど。
かくて、何がどうしてかは分からないが、こうしたサイクルで一周おきに伝承される嗜好や趣向みたいなものはある。またミクをプロデュースしているスタッフサイドにも、とうぜんYMO世代のオッサンらはいると思われつつ。

これらのことによって、ボーカロイド初音ミクの活動のもとに、ノスタルジーをもともないながら、『人工的なエロス』のイメージが集約されつつあるのだった。一部で『テクノ系』と見られているギャグまんが家・江口寿史の描く、人工的もきわまった人格性のないエロス的イメージがあるが、ミクにはびみょうにそれを継いでいるようなところもある。
かつ『イメージよりも音声を、人は真実に近いと感じる』というウィリアム・バロウズのテーゼにより、これは単にリアルなCGの背後で声優さんが歌ったりしゃべったりしているものとは、何かのレベルが一段ほど異なる。そのいわゆる『中の人』がまったくいないとも言えないのだが、しかしかなり『いない』に近づいている…そこがよくて。
しかもミクは、可能性としては誰にでも操作できるようなキャラクターではある。とりあえずDTM的な操作で歌わせることができるわけだし、実態は知らないが映像を動かすこともまた、可能性としては“誰にでも”できよう。この『オペレーショナル』なキャラクターであるところがまた、『だから いいんですよ これが! ハハハハハ』、と。

だいたいキャラクターとしてのミクのイメージのベースが、ヤマハの往年の超名機シンセサイザー『DX-7』というのが、本気で憎たらしいところだ。そんなんではある世代の音楽ファンには、『いつの間にかできていたわれわれの娘』、母なくして生まれたオレらの娘、というミクへの見方にならざるをえない。
よって言いたくはないことだが、筆者がもしもミクに対して欲情するとしたなら、それは≪近親相姦≫の欲望の等価物であるに他ならない。…『萌え』と呼ばれる感情は、ぜんぶそれだが。ところがいちおう『こんなイロ気のねえモンに』という感じ方なので、自分の思ったよりも反応がノーマル気味かも知れぬ。

で、この堕文は何しろ堕文だけに、そんな大したさいごの結論などはない。いや、まったくめんぼくない。
そうして筆者は、人々の『これ』への熱狂について大いに共感もしつつ、またこれは初代のロボットアイドル(?)を描いたフリッツ・ラングの「メトロポリス」(1926)チックな≪未来≫だな、とも感じつつ。『だがこれはありなのか』…とついでに小首をかしげ、ほんっっとに煮えきらぬ限りの反応を返すのだった。

2010/03/12

施川ユウキ「がんばれ酢めし疑獄!!」 - イヤだけど、現実しか存在しない

 
関連記事:施川ユウキ「がんばれ酢めし疑獄!!」 - グッド・バイブレ~ションな、不安・不安・不安(!?)

≪われらの作家≫こと施川ユウキ先生が、どこだかで言ってらしたようなお説。『すべての物語は、潜在的には夢オチである』、とか何とか。もしもそういうものだとすれば、『夢解釈』ということを得意とするわれら精神分析の陣営が、≪物語≫らに対して黙っていられるわけがない。

ところで精神分析の夢解釈とは、『それもこれも性的な象徴なので、つまりあなたは性的欲求不満なのです』などといった、世間のイメージするようなくだらないものでは『ない』。

 ――― 久米田康治「さよなら絶望先生」, 第18集, 第177話より ―――
 『フロイトの 夢分析に よると 大抵の夢が
 性的欲求(リビドー) 不満の現れと されているのよ』

と、こんな適当なことを言っている≪智恵先生≫が学園のカウンセラーだそうなので、どうりで「絶望先生」作中の学校には、おかしい人間がひじょうに多いわけだ。そういう意味では、お話としてすじが通っている。
そもそも『性的欲求不満』と言ったら人間は“誰も”がそうなので、そんなことを指摘して『分析しました』なんて、バカなことを言っててもほんとうにつまらなすぎる。中学生ならいいけど、お互いもう大人なんだからさ!

さてここで筆者が大まかな見取りを示すと、精神分析の見方から、人間の夢とは次のような仕組みでできている。

◆比較的さいきんに主体が強い印象を受けたイベントやイメージが、『隠喩・喚喩』への変形をこうむりながら再現される。
◆かつそうやって再現されたものは、主体が無意識へと抑圧している幼時の≪外傷的≫な記憶が、遠廻しに再現されているものでもある。
◆かつ、夢の内容には、主体の(無意識の)願望を充足する要素が含まれている。『夢は願望充足である』の大テーゼは、必ず妥当する。
◆そして『なぜ人は夢をみるのか?』について1つの理由を言うと、それは『目ざめないため、もっと眠るため』だ。尿意の生じているときにトイレへ行く(行こうとする)夢をみるのは、それの分かりやすい例だ。筆者の体験だと、目ざまし時計が鳴っている時に、『セミの声がやたらうるさい』という夢を見たことがある。
◆ついでに。夢に出てくる長いものや棒状のものを、何でもかんでも『それはペニスの象徴です』、と言う。そのような精神分析の主張が紋切り型で失笑を買うわけだが、しかしその解釈がまちがっている、ということではない。われわれの解釈が紋切り型なのではなくて、夢みる人間らの発想が一般に紋切り型きわまるのだ。かつまた、正しく解釈すればいいというものでもなくて、それを『言う』タイミングが治療論の課題になる。

と、フロイトがそのような見通しを示した超名著「夢判断」(1900)の公刊から、すでに110年。その間に、脳生理学者やら何やらが別の方面から夢というものを研究して、何らかの成果を挙げているようだけど。が、そうかと言って、フロイトの理論が無効になったわけでもない。
つまり『レム睡眠のさいちゅうに脳波がウンヌン』、といった夢理論を皆さまも耳にしたことがおありだろうけれど、だがそれは別に、フロイトの夢解釈を無効にするようなものではない。それに対抗しているものですら、ない。同じ現象に対しての並行した記述がいくつかある、ただそれだけだ。いや、『同じ現象』を記述していると『さえ』も言えない。

すなわちあなたの気分や考えていることを、『脳波のざわめき』に還元するような主張もある。あなたがいまそこで生きているということを、ATPだかADPだかの代謝がなされている、とも言える。それらの主張も別にでたらめではなかろうが、しかし、『それ』があなただろうか?
つかみどころのない想念を何とかことばで表すより、脳波の波線の記録でも見たほうが客観的で『確か』なのだろうか? そしてそのように、現行の『科学』の守備範囲にあわせてものごとをスケールダウンして『理解』した気になる、そんなものが≪科学≫の営みなのだろうか? 別に筆者はセンチメンタリズムや実感信仰などから、これらを言っているのではない。

 ――― 2010年3月11日、icenerv(筆者)の、目ざめぎわの夢 ―――
朝7時、自分はいつもの職場で、検査器具を見たり利用者さまに声かけしたりと、いつもの仕事をしているつもりだ。そこへ遠くから女性の声で別の職員が、『iceさんは、鉄柱を見てくださーい!』と、業務上の指示を送ってくる。
鉄柱…? 鉄柱を見るとは、どんな仕事? 自分には分からないが、『とにかく行ってくださーい!』と、指示する声が重なる。
言われたとおり、ともかく自分は下の階へと向かおうとする。どこか下の階に、その鉄柱とやらはあるらしい。こうして通常の煩瑣な業務からしばし離れることになって、ややホッとしている気分もある。このどさくさまぎれに一休みできないかなと、ふらちな考えも脳裡をよぎる。
そうして自分が乗り込んだエレベーターには、OLらしき制服姿の女性がどこか上の階から先に乗っている。そして彼女は『もう、遅いわね!』と、かごの動きの遅さにいらだっている。…と、ここらで目がさめた。
(補足。夢の中では『いつも通り』のつもりだが、しかし『いつもの職場』ではないし、いつもの仕事ともだいぶ異なる)

ちょっと、解釈を。朝7時は自分のかっての職場で、早番の始業時刻だった。それに当たると5時半までに起床せねばならないし、人によるけど相棒の夜勤者は疲れてへんにイライラしてやがるしで、それが筆者は大きらいだった。
そのことがこの夢に関係していることは、かなりはっきりしている。かつ願望充足の要素がすなおに出ていることも、まったくご覧の通りにて(赤面)。

けれども≪鉄柱≫というものが何なのかは分からないし、OLっぽい女性の登場とそのせりふの意味も分からない。思い当たることがぜんぜんないでもないが、別にむりしてすぐに解釈をひねり出す必要はない。むしろ、解釈を急ぐことはひじょうによくない。
分からない要素がどうしても≪剰余≫として残るのが、夢解釈の『逆に』面白いところだし。かつそのなぞっぽい要素らは、多重の隠喩作用の向こうで、おそらく筆者が思い出したくもない≪外傷≫を示唆しているのだろう。
ここらにおきらくな自己分析の限界めいたところがありそうで、人間は思い出したくないことは思い出さないように努力を惜しまない。しかも、現に何かを深刻に病んでいるのでないとあれば、なおさらだ。

なお。あまり言い張らないのだが、≪鉄柱≫はとうぜん≪ファルス=勃起したペニス=父性的なもの≫を思わせる要素。そしてエレベーターは子宮と産道だとか、OL様は母親的なイメージだとか、そういうことは考えられなくない。
そういえば筆者が生まれるとき、母親は初産で、出産が予定日にはずいぶん遅れたらしいが。また、いちばんさいしょに出た≪検査器具≫にも、何か性的なイメージのような感じがありつつ。
どうであれ『自分が女性とエレベーターに同乗する』というイメージは、性交を示唆している要素という嫌疑が濃い。かつエレベーターの『下降』という現象は、倫理道徳的な意味での下降をも表すものだろう。
だから『遅いわね!』というせりふもまた、何か性的な意味に解釈されうる。別に言いたくはないのだが、いわゆる『遅漏』ということで女性から叱られたことはある。

とまでを見てから、話がいちばんさいしょまで戻り。そうは言っても≪物語≫が夢の一種であるとは、さまざまな前置きなしで言えることではない。そうだと言うにも、まずそれは“誰”がみている夢なのか?
その問いに対して『作者がみている夢』、という答には超0点を進呈せざるをえない。われわれの論議で、作者の心理とかはまったく問題にするところではない。
そうじゃなくて。広く共有された物語とは、『社会がみている夢』なのだ…という答は、大きな正解だと言いうる。正しい答だが、あまりにも大きい。

しかしながら、施川ユウキ先生のみことばを、また見直せば? 『すべての物語は、潜在的には夢オチである』とは、その物語のさいごで、お話の中の誰かが目ざめるということだろう。つまり作中人物の中の“誰か”が、その夢をみたのだ。

 ――― 施川ユウキ「がんばれ酢めし疑獄!!」, 第5巻, 最終話より ―――
 『夢オチの物語が 好きだ。
 フィクションを フィクションと 潔く認めている所がいい。
 本当の現実主義(リアリズム)だ。
 全ての物語は 誰かに語られた時点で フィクションとなり
 それは 夢オチであるべき なんだ』(p.177)

おやおや。いまさらながらちゃんと確認してみたら、筆者の記憶とはぜんぜんイコールでない気もする。そもそもこれは作中人物のモノローグであって、ユウキ先生の語りではない。
かつまた異なるのは、『である』と『である“べき”』との差異だろう。われわれは作品の外側から『である』かと考え、「酢めし」の作中人物は物語の中で『である“べき”』と言っている。

 『夢オチの後の現実を フィクションの中で 語るコトは出来ない』(同書, p.183)

まったくそうなのだが、われわれはその逆に『夢オチの後の現実』の側からフィクションを語ることしかできない。言い換えて、≪語り=騙り≫という行為でフィクションを編み続けることしかできない。「酢めし」最終話の作中人物は、悪夢的なエピソードの反復の中で『夢オチの到来はまだなのか、現実への帰還はまだなのか』、と考えているが、しかし『夢オチの後の現実を フィクションの中で 語るコトは出来ない』であるのだ。

ところで皆さまもご存じの、『胡蝶の夢』というお話がある。荘子が蝶になる夢をみて、夢の中では『自分は荘子である(であった)』などということは忘れて、楽しく舞い遊ぶ。ところが目ざめると、彼は荘子だ。そこで彼は、『自分が蝶になった夢をみていたのか、蝶である自分が荘子であることを夢みているのか、それは分からない』と結論するのだ(参考リンク:Wikipedia「胡蝶の夢」)。
そうしてこのお話について、誰かラカン系の大先達がするどく分析していたのだが、出典を思い出せなくて申し訳ない。…確かスラヴォイ・ジジェク様だったか、違ったか…?
ともあれその言うは、このような感じ。『そんな相対性は成り立っていない。荘子本人が正確に書いている通り、夢の中で蝶になった彼は、荘子ウンヌンもその生きていた環境もさっぱりと忘れている。ところが目ざめた荘子は夢の内容を憶えていて、それを(多少は)批判的に考察の対象にしている。目ざめている人間は“この現実は夢ではないのか?”と疑ったりするが、夢の中の主体は、そのようには考えない』。

筆者がここで自己反省してみると、夢というものの内容の合理性のなさに対して、夢の中で『これはふしぎだ』と考えていることはある。けれども『それは夢だからかなあ』と、そういうふうに夢の中で考えたことはないのだった。

そうすると、われらが見ている「酢めし疑獄」の1人のキャラクター。悪夢的なエピソードの反復の中で『夢オチの到来はまだなのか、現実への帰還はまだなのか』、と考えている彼は、まったくもってそれ以上は目ざめようがないのだ。彼は彼の現実を生きており、われわれはわれわれの現実を生きている。

 『きっと全てが夢で 現実なんてどこにも 存在しないんだ』(同書, p.183)

…と彼は考えたいのだが、そうではない。『そういうふうに考えたい』というところから、彼にしろわれわれにしろ自分で自分を騙り、そしてその≪騙り=語り≫の存在さえをも忘れてしまうのだが。
ここではむしろ、『現実しか存在しない』(夢という要素を包んだ現実)、ということの前にわれわれは(彼とともに)おののいているのであって、そしてそのことのあまりな≪外傷性≫を、ギャグとして『受け-流す』のだ。何度も申すけど『まんがとは人間どもの無責任な想像を描くもの』、ではありつつ、その中でギャグまんがだけが≪外傷的≫な『ほんとうのこと』を、かろうじての方法で描き出しているのだ。

(さいごに、蛇足的な釈明。筆者もいちおう≪ラカン系≫を名のりたいものとして、『現実』という語には注意しなければならない。けれどもいろいろ考えて、文中ではそれを≪現実界 real≫ではなく、夢との対比で一般的な≪現実 reality≫として用いている)

寺嶋裕二「ダイヤのA」 - もはや巨乳は単なる巨乳ではない

 
参考リンク:Wikipedia「ダイヤのA」

少年マガジン連載中の高校野球まんが、2007年小学館漫画賞(少年部門)受賞。その単行本(KC少年マガジン)は、18~19巻あたりの時点で累計500万部突破。筆者は今作の連載・第1話を(珍しく)掲載誌で読んでいて、当時けっこう印象がよかったので、こんどまとめて目を通した、というしだい。

で、まず。野球まんがで「ダイヤのA」というからには、すごいエース(主力投手)を描くお話になるのかなと、初めて今作を見たころの筆者は『すなお』に思っていたのだが。
ところが意外にそうではなくて、主人公らの属する野球部には、絶対的なエースがいない。一長一短な4人のピッチャーによる小器用な継投策で、夏の甲子園への予選を闘っている。それが第19巻までも出ていて、いまだに1年目の大会の予選の最中というから、「スラムダンク」ほどじゃないけれど、のんびりと展開しているお話ではある。

ただし作中の人々は、『絶対的なエース』の不在をよしとはしていない。むしろそれは、大いに望まれている。
チームを支えながらチームに支えられ、連携しながら孤独に闘いぬく≪エース≫。チームの闘いでありながら個の闘いでもあるという『野球』というスポーツの矛盾を、その身に背負ってその力でそのつど解決する≪エース≫。
それが大いにいるべきなのだが現状はいないので、主人公らの型破りな1年ボーズ2人が、いつかそこまでに育ってくれれば…というお話になっている。かつ、どちらかといえば、いま言ったような≪エース≫は、ライバルチームらの方に、よっぽどそれらしいのがいるのだった。

さて筆者は現在は野球に興味がないけれど、まあむかしの野球まんがの傑作らは、いくつか読んでいる。「巨人の星」、「男どアホウ甲子園」、「アストロ球団」、「ドカベン」、「キャプテン」…と、そのくらいか。
それらに比べたら、今作「ダイヤのA」という作品の『エースがいないのでエースを育てる』というテーマ性には、何かひじょうに逆向きなものを感じるのだった。反動的というのではなくて、問題の立て方が逆向きなので新しいな、と。かつそれがたぶん、21世紀の現代的な野球観に即したものになっているのかな、と。
そういえば今作について、その試合過程の描写が、むかしの野球まんがとは異なる。今作では『点が入る』というところの描写がわりに淡白で、しかもたいていは大量点の獲りあいになっているので、まるでその展開がバスケットみたいだ。けれども現代のベースボールとは、そういう感じのものなのかも知れない。

逆向きというなら、もう1つ。いま題名が出た大むかしの傑作野球まんがらの、学生野球を描いている部分はすべて、『弱小校がブレイクを目ざす』というお話になっている。「男どアホウ甲子園」の後半なんかごていねいで、どアホウの主人公がカンニングで東京大学に入り(!)、6大学リーグで東大を優勝させようというお話になっている。…言うまでもなさそうだが、当時6大学で東大はひじょうに弱かった。いまは知らないけど。
ところが今作「ダイヤのA」は、いわゆる野球名門校のお話だ。名門であっても近年は甲子園にまで行けてないので、古豪の復活を目ざす、ということだが。
すると。中学野球ではまったく名を売っていなかった主人公にとっては、野球でどうしようと『失うものは何もない』。ところがチームにとっては、『現状は瀬戸ぎわ、これ以上は落ちられない』と、個と集団の闘いのベクトルが異なっている。
まあ筆者のようなむかしからのまんが読みにしてみたら、『野ザルのような主人公が規律ある集団の中で、その一員として鍛えられていく』、というお話は、それ自体としてはあまり好きじゃない。はっきり申して、横紙破りなヒーローが好きかってに暴れまくるお話が好きだ。かつ、バカだけどわりかしすなおに集団の中に溶け込んでいく、という今作のヒーロー像が意外と男っぽくない、むしろ女の子みたいだ、という気もしつつ。

もうひとつ特異なのは、今作では、主人公に対して同格のライバルがチーム内にいる、ということだ。同学年に主人公と同じピッチャーがいて、ポジションを争っている。ただしどちらも半人前なので、ライバルがやや有利でありつつも、継投策の中で両雄が並び立っているのだが。
これと似たようなことを描いた野球まんがというものが、ちょっと思い出せない。が、そうは言っても現代野球のピッチャー同士のライバル関係なんてそんなに深刻でもなくて、もしも正捕手を争うようなお話だったなら、もっとふんいきが重くなっていただろうけど。キャッチャーなんて、めったに換えないんだから。

ああ…。ここまで書いてきて、やっとこ筆者は気がついた。つまりわれわれが『もっとも現代的なサッカーまんが』と認めたツジトモ「GIANT KILLING」(関連記事はここ)に等しく、今作「ダイヤのA」でもまた、真に闘っているのは、両チームのコーチとコーチなのだ。
こちらは野球のお話なので、マネージャー対マネージャー、というべきか。今作は一見ふつうのスポ根まんがとして、1人の選手たる主人公の運命と行動を描いているようでありながら(?)、しかしお話の根幹をなす闘いは、両チームのマネージャーがそれぞれのプランや信念をぶつけあう、そこに力点がある。

そういえばむかしの作品について、『「ドカベン」の明訓高校の監督はどんな人だった?』ということを聞かれたら、まったく憶えていない自分がいる。がしかし今作「ダイヤのA」では、主人公チームの監督はもちろん、他チームの監督らも個性的で、かんたんには忘れられそうもない。特に印象的だったのが、2人。
まずは、薬師高校の轟コーチ。彼はふだんが無軌道なバクチ打ちで生活力ゼロで、その息子を超逆境において『逆に』スパルタで鍛え上げたという、ひじょうにまんがチックな人物。実を言ってこういうお話の方が、筆者は好みだ。そしてこいつが選手らに向かって『オレを甲子園に連れてってくれ!』と、≪南ちゃん≫みたいな恥ずかしいことを言うのだった。
もう1人は桜沢高校の菊川早苗コーチ、通称は≪教授≫。早苗といってもこの人は初老すぎの小柄な長髪の男性で、本人はスポーツマンではなく学者。何かのまちがいで超進学校の最弱な野球部の顧問になってしまった彼は、ある年の新入部員たちの情熱に心を打たれて、野球理論とコーチングを猛烈に研究し始める。そしてその翌年の現大会、彼たちはシード校をも撃破して、西東京地区のベスト4にまで進むのだ。

かくて。『ハングリー精神』などと言うもおろかな無手勝流でワイルドに高校野球を暴れている薬師と、ほんとうにピュアな情熱のままに自分たちを鍛えプレーを楽しんでいる桜沢と。筆者にしてみればこの2校の野球の方が、まんがの主題として魅力的だ、面白い、と感じるのだった。
ところが今作「ダイヤのA」は、何かある種の職業的な使命感(?)、エリートとしての矜持(?)、というあたりで野球をしている主人公らのチームを、その中心として描くのだった。ここで今作と「GIANT KILLING」の方向性が、大きく異なってくる。『反骨精神』のない者が「GIANT KILLING」という作品につきあいきれるということはなさそうだが、逆に今作には反骨精神が『ない』。

そうすると今作は、その作中で薬師と桜沢があらわしている≪自由≫、野球における自由、アマチュアスポーツの自由、しがらみからの自由、1つのボールを前にしての自由を、トータルでは否定しているものなのだろうか? まあそれが現代野球の≪リアリズム≫、といえばそうなのだろうが。
もうひとつ言って、手塚治虫的な≪まんが≫というポピュラー・アートのコアは何かというと、それは『風刺』であり『反骨精神』だとは、本人がさいさい述べておられるところ。そこから今作「ダイヤのA」を見てみると、くそまじめな野球名門校に山ザル的ヒーローがまぎれ込んだというところに、一種の風刺性やこっけい味はある。その要素がなかったらまったくつまらないであろうが、しかしトータルでは名門校の面白みのない野球実践を肯定している作品であろう、ということが疑いえない。
なお、手塚治虫の作家歴の初期、彼にたいへん大きな危機感を与えた『対立する作風』の登場というのが、1951年の『スポ根まんが第1号』こと福井英一「イガグリくん」だったそうで。かくて何かもう根本的に、手塚治虫的な≪まんが≫とスポ根とは相性わりぃな、という気もしつつ。

それこれによって今作「ダイヤのA」は、その作品構造がふしぎだ。まずその中心には山ザルっぽい面白ヒーローがいるけれど、その近い周りには面白くないくそまじめなチームがある。そもそも主人公が、視点としては中心だけどチームの重要な地位にいるわけではないし。そしてそのまた周りに、個性的な面白チームらが敵手として登場している。
というその中心と端っこの『面白要素』がなかったら目もあてられない作品になり下がるのであるが、しかしお話を駆動しているのはその部位では『ない』。これを筆者は『逆ドーナツ構造』とでも名づけたい気がするが、しかしこれと似たような作品が、他にあるのかどうかが分からない。

ひょっとしたら「巨人の星」がこれに近いのやも知れず、そのヒーローが属した当時の巨人軍は、まったくもって『職業野球』に徹した面白くないチームであり、もっと過剰なものをかかえた主人公とその相棒は、その中で浮いている。
そもそも当時の巨人軍なんて、主人公がどうであろうと勝つので(!)、別に彼はその中心にも何もならないし、なる必要がない。また彼の最大のライバル≪花形満≫もまた、『野球に対して、実はそんなに執着がない』(!)という点で、職業野球のシステムの中では大いに浮いている。
ただし異なるのは、同じく浮いているにしても「ダイヤのA」の主人公は、その面白くないシステムの中に溶け込もうと、自覚的にがんばっているのだ。しかし先行したヒーローの星飛雄馬はなぜか、がんばればがんばるほど、チームからも人間社会からも孤立していくのだったが。

そろそろ、まとめて。ここで筆者が申すのは、何でもかんでも過剰で面白いことを描こうというような『よき時代』のまんがと、今作との違い。今作にしたって十分に面白い作品だとは思うのだが、しかしあわせて、『面白くない要素』をさらりと大量に呑まされているような気がする。お話をもたせるための面白要素が構造的に、お話の中心ではなくて周辺に配置されている。そこらがいにしえの作品らと異なるのでは、と。
で、『面白くない要素』をあわせて大量に呑ませてくるようなシビアな野球まんがとして、今作はかの「巨人の星」を思わせるようなところもある、とは述べたばかり。

と、ここまでわりかし作品構造に注目しての話だったので、以下に少し、今作の感覚的な印象のようなことを書いて終わる。

ちょっと『内容』を離れたところで今作を見ると、その特徴は≪つり目≫だ。つり目が描かれないと、今作は始まらない。まず主人公がつり目なのは当然として、そこに高校のスカウトのつり目美女が現れて、そして彼はつり目の天才キャッチャーに出遭い、つり目の主力バッターにはいきなりケンカを売る…と!
しかもそれぞれの描き方がとうぜん違ってて、かわいいつり目、キレイなつり目、シャープなつり目、怖いつり目、そして大きなつり目と小さなつり目。筆者が今作の第1話を掲載誌で見て、『ありきたり気味だが引き込まれる』とその時に感じたのは、そのつり目パワーにやられたものかなと、いま思うのだった。

そして≪つり目≫に対抗するもう1つの目だった記号は、≪巨乳≫。お話の冒頭、中学さいごの大会に敗れた主人公を、東京の野球名門校の副部長がスカウトしに来る。すると彼はそのメガネ美女の『どどんぱ』と突き出た巨乳を見て鼻血を流し、そして、

 『人生山あり “谷間”あり!?』

と、加瀬あつし大先生の描くヒーローみたいなことを、モノローグで言うのだった(第1巻, p.28)。

かくて、おっぱい目当てに東京へ出たような主人公であったが(!?)。しかし彼たちの野球活動は、あたりまえだが、ほとんどおっぱいとは関係ないのだった。
むしろ彼が入っていった野球部のふんいきは≪BL≫的で(!)、彼が入った寄宿舎は「トーマの心臓」みたいな世界で(!?)。そこで『ヤンチャ受け』とでもいうようなわれらの主人公は、たっぷりと≪総受け≫チックにかわいがられてしまう。
ではあるのだが、しかし筆者は、『野球とおっぱいは関係ない』、とは思わないのだった。そうではない! 今作の内部に限った話としても、『おっぱいに対する飢えを、(無意識の過程で)白球に対する飢えへとすり換えること』によって、主人公らの野球活動は成り立つのだ。だからこのプロローグに≪巨乳≫が出ていることを、『無意味な過剰さ』などとは、まったく言いえない!

かつ彼女に限らず、今作の女性全般の描き方としておっぱいにアクセントがあることは、皆さまもご覧の通りだし。そしてそのメガネ美女の副部長は、イントロでのみ大活躍して、だんだんと出番が少なくなる傾向にあり、近刊部分では遠くからチームを見守っているばかりだが。そうかといってもその巨乳が、作中の賭け金として担保されていることには変わりがないのだった。
しかもわれらの主人公には、巨乳副部長に対する恋愛感情もなければ、本気でそれを『どうにかしたい』という野心もない…ここがまた面白いところだ。今作における巨乳とは≪巨人の星≫と同じで、見えるものであり目ざすことはできるが、しかし『自分の手に入るというものではない』のだ。野球少年らの白球に対するあこがれや思慕を表す記号で、それらはあるのだ。

この地点において、もはや巨乳は単なる巨乳ではない。そしてわれわれはここで、ジャック・ラカンによるテーゼ『“昇華”は対象を、“もの”の尊厳へと高める』、とはこのことか…と知るのだ。

2010/03/10

氏家ト全「妹は思春期」 - オレはアナーキーという手段を使う

氏家ト全「妹は思春期」第8巻 
参考リンク:Wikipedia「妹は思春期」
関連記事:西川魯介「あぶない! 図書委員長!」

関連記事で出かかった『フェティシズム論』を、丸っきり放置するのもどうかと考えた、責任感にあふれる筆者(!?)。そこでこの場は、氏家ト全「妹は思春期」で『メガネっ娘』が話題になったところを扱った旧稿を再掲して、お茶をにごしてやろうかい、と愚考いたす。
いちおう説明しておくと「妹は思春期」は、氏家ト全(うじいえ・とぜん)の2001年のデビュー作ともなる4コマ・シリーズ(KCヤンマガ, 全10巻)。超かんたんにその概略を申しておけば、むっつりスケベの兄と妹がお互いを無意味に挑撥しあうような関係を軸として、周りの人間らがまたそこにへんにからんでくる、的な。では、どうぞ。



 『Looking Through the Eyeglasses - いないいない/バァ』 (2006/12/15)

時間つぶしに書店へ寄ったら、いつの間にか氏家ト全「妹は思春期」の第8巻が出ていたので買い求めた(発売日・12/6)。
で、読んでみて。その内容は相変わらずだ、と言えばそうだけど…。だがその中の1つのネタから、少々の話をば。

 ―― 氏家ト全「妹は思春期」, 第196回・『メガネの効果』(第8巻, p.86)より ――
ヒロインらの親友で常人の≪アキ≫が、珍しくおシャレとして、だてメガネをかけている。変態少女の≪マナカ≫が、そこへ問いかける。
『それでアキさんは どの路線で いくんですか』
『え?』
『私のデータを 参考にしてください』
そしてマナカが示した円グラフは『メガネっ娘といえば』と題され、面積が多い順に、優等生・ドジっ子・おっとり・天然・お色気・M・その他…と色分けされている。
それを見てアキいわく、『私は 自分というものを 大切にしたい』。

『データ』って言うけど、どこから出たデータだよ…。と、オレまでがつっこんでも仕方がない。まったくしょうがない。そうじゃなく、これを見て気づいたのは。
マナカの示してくれた貴重な『データ』によっても(!?)、問題の≪メガネっ娘≫という記号には何ら実定的な意味がなく、そして時には、相反するものらを平気で同時にさし示している…という事実だ。ちなみに作中で時たま『メガネっコ』を自称している≪小宮山先生≫25歳にしても、ぜんぜんおっとりしてないし、しかも自ら『S』だと広言しているし。
しかしそうかといって、女の子の顔の上の≪メガネの有無≫に何の意味もないとはとても思われず、『きっと“何か”の指標であるにチガイない!』と、ある種の人々がそれを想定してやまないのだ。

よって≪メガネ(っ娘)≫とは、『意味ありげだが意味不明で、みょうに気になる記号』…すなわち、≪ラカンの理論≫に言われる≪シニフィアン≫に他ならない(←まいど“こんなこと”ばっかし言ってるが、意外とあきないもんだ…自分では)。
そういえば。いつも筆者は、『源初のシニフィアンとしての≪ファルス≫は、≪享楽の禁止≫と≪享楽の強制≫とを、平気で同時にさし示す』…などと申し上げながら実は、『それホントかよッ!?』と自分で疑ってるとこがあるのだが(!)。しかしこうして人間らの記号活動は、『たかが“意味”ごとき』に関する矛盾撞着なんざ気にしちゃいない、という事実が確認される。
(ご説明、≪ファルス≫とは『象徴化されたペニス』と言い換えられうるもの)

そしてそのシニフィアンとしての≪メガネ≫への1つの読みを示すと、それは『勤勉』と『失敗』とを、同時にさし示しているように思う。それの呼び出すイメージとして、『勉強か何かにつとめすぎたあまり、視力の維持には失敗した』のような感じがあるからだ。それによって≪メガネっ娘≫の2大路線、『優等生(-勤勉)』と『ドジっ子(-失敗)』と、がある。

ところで。こうして『≪メガネ(っ娘)≫とは、1つの≪シニフィアン≫に他ならない』などというが、また一方で。それを熱烈に追い求めている方々にとってそれは、≪フェティッシュ≫(物神, 呪物)にも他ならない。
われらが見ている「妹は思春期」作中にもしばしば『フェチ』という略語が出ているが、これまた根深いことばだ…。もとはといえば民族学や宗教学の方の用語だろうけれど、それをマルクス様が流用(アプロプリエート)したもので…。

 ―― マルクス「資本論」(1867), 『1-1-1-4 商品の物神的性格とその秘密』より ――
『(経済社会で諸商品らの織りなす諸関係は…)それは人々そのものの一定の社会的関係に他ならぬのであって、この関係がここでは、人々の眼には物と物との関係という幻想的形態をとるのである。だから、類例を見出すためには、吾々は宗教的世界の妄想境に逃避しなければならぬ』
(中略、そうした妄想わーるどの“想像”的産物らがそなえる、見せかけの生命力や幻想的な自立性などを見た上で…)
『これを私は、労働諸生産物が諸商品として生産されるや否やそれらに纏(まと)いつくところの(中略)、物神崇拝と名づける』(出典は文末に)

とはとうぜん、断固だんぜん憶えておかねばならないことだ。もしも万がいち、このマルクス様の偉大にして空前の理論的達成がなかったとしたら、われらを導く≪フロイト-ラカンの理論≫もヘッタクレもありゃしねンだぜェ~! いぇ~!!
だがしかしわれわれは、われわれの話の文脈へと、いまはたち還って…。

 ―― 「新版 精神分析事典」, 『フェティシズム』の項目の冒頭 ――
『完全な満足が、ある特定の対象つまりフェティッシュの存在およびその使用がなければ達成されえないような、性的欲望あるいはリビドーの特別な組織化。精神分析は、フェティッシュを母の欠けたペニスの代理、さらにはファルスのシニフィアンとして認めている』(シェママ他編, 訳・小出他, 2002, 弘文堂, p.418)

この用語解説をさらに読み進むと分かることだが、ここにも再び、『相反することらを平気で同時に』…さし示す記号作用がある。
異様に分かりやすい例(!?)を1つ挙げてみると、女性のショーツに特殊な興味を超HOTにいだく男がいたとする。その妄想わーるどの中でそれが、どれだけイキイキと幻想的に輝かしき存在であることか…なんてことは、あまりこっちは考えたくもないが。ともあれ彼の意図せざる真の目的は、『女性(ら)が“去勢”をこうむっている』という想念への、否定と肯定と…その両方だ。

さらにほんと言うと、彼は“去勢”を否定して済ませたいのだが、しかし『女性(ら)にはそれがない』と知ってもおり、その認識をも完全には排除しきれない。そこで、『否定(+肯定)』というどっちつかずの戦略に出るのだ。
そして≪ショーツ≫はその中に陰部を隠す『覆い』であるので、この目的を実現する。筆者がひとこと付け加えるなら、それを≪想像的≫に実現する。

 ―― 「新版 精神分析事典」, 『フェティシズム』の項目の結び ――
『フェティシズムは、現実の前に、現実を隠す覆いを広げるのであり、この覆いこそ、主体が最終的に過大評価しているものなのである(中略)。「何故、覆いは人間にとって、現実よりも価値があるのであろうか?」ラカンはこの問いを1958年に呈した。この問いは今も現代的意義を(後略)』(同書, p.421)

またもう1つ見ておくと≪フェティッシュ≫には、『覆い』ではなく『出っ張り』というタイプのものがある。フロイトはその超名著「性欲論3編」(1905)で、ゲーテ「ファウスト」第1部(1808)第7章から引用している…『とってくれ、彼女の胸のスカーフを わが愛の喜びの靴下どめを』。

へんなところに念入りな筆者は、上の引用個所を「ファウスト」全訳書にチェキってみた。何の関係もないことだが押井守「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」(1984)の冒頭すぎで、ハゲの校長がお説教に『かの文豪ゲェ~テいわく』、と言う場面を想い出しながら。そしてさらなる余談とすると、その校長の言った『苦悩を経て大いなる歓喜に』…ウンヌンとは、ゲーテじゃなくてシラーの詩句ではなかったかと…。
…あ、ともかく、該当個所は。それはお話の序盤、ファウストがマルガレーテにひと目ボレした直後、メフィストに向けて言うせりふで、『かの文豪ゲェ~テいわく』、

 『あれの胸からスカーフでも手に入れてくれ。
 くつ下どめでもいい、わしの愛の慰めのために』

とはまたこっちの訳文の方が、さらにナマっぽい感じだ…(訳・高橋健二, 1960, 世界文学全集 第2巻, 河出書房新社, p.81)。

そしてそのように女性(ら)の身体に接してそうびされた『出っ張り』らは、とうぜんのように(!?)≪ファルス≫をさし示すシニフィアンとして機能する。よってそっち系のフェティッシュにしても、さきの『覆い』系に見出された『“去勢”の否定(+肯定)』という意味作用は変わらない…と、見られているのだった。

そうすると、まとめて。話の起点の≪メガネ≫もそうだが、われらが見ている「妹は思春期」なる創作の中では、さまざまな≪フェティッシュ≫が数え上げられている。さしつかえない程度にそれらを列挙しとくと、下着・毛髪・体毛・エプロン・ブルセラ・水着・ナース服・ワイシャツ・レザーのように一般的なもの(!?)らから、そしてネコ耳(+シッポ)・メイド服・アホ毛(←おたく用語で、へんにハネている1束の毛髪)のように特殊っぽいものらまで。
ここですごくどうでもいいことを付け加えとくと、西洋の方の話にはよく聞かれる≪毛皮≫と≪クツ(ブーツ)≫というフェティッシュ界の2大ビッグスターの出てないことが、『ニッポンですねェ』…という感じだが、まあそれは別によくて。
そしてこれらの“すべて”が、われらの見てきた≪フェティッシュ≫の2大系列…『覆い』系か、『出っ張り』系か、またはその両方に属するものだとは、すでに賢明なる諸姉兄のご理解のことかと。
そしてそれらの意味するところを、われわれは知った。

(2010年現在の補足。ここまでを見ておくと、「妹は思春期」の作例で、『メガネ=お色気』という解釈が出ている理由も分かってくる。それは≪ファルス≫のシニフィアンなので、人々に≪享楽≫の強制と禁止とを同時に示唆する。『メガネ』とあるところを、毛皮やブーツやブルセラや『ネコ耳』に変えても、また同じ。
かつまた、関連記事(こちら)の題材の「あぶない! 図書委員長!」p.114には、こういう見方が出ている。『メガネとは“見る意思”の具象化、すなわち“男性原理”。ゆえにそれを装着せる女子は、“完全なる存在”となる』。
“男性原理”などという用語は要らぬものだが、言われたような『完全なる存在』のイメージを、精神分析は≪ファリック・マザー, 男根的母親像≫と、まったくふつうに呼んでいる。すなわちそれは、「事典」に言われた『母の欠けたペニス』が補完された状態のイメージだ)

…というところで、ひとこと。思えば筆者もずいぶん長く生きてきたように思う(!?)が、だがしかし。言われたような話で、たとえば女の子のセーラー服の胸もとのスカーフが、何と≪ファルス≫をさし示すシニフィアンやも知れぬ…などと考えてみたことは、たぶん1度たりともなかった。別にあんまり気にしたこともないけど、どっちかといったら『カワイイ』と形容できるようなアイテムか、くらいにしか。
とはまた、ひじょうにうかつだった…(のかな…ッ!?)。

繰り返しになるが、かくてわれらが精神分析の主張として。別に『フェチ』ではなくともわれわれが、ふつうにカワイイとか女性らしいとか『萌える』とか(!?)、そういうふうに見ているアイテムらの多くは、『“去勢”の否定(+肯定)』という想念の遊びを≪想像的≫に実現するための、≪ファルス≫をさし示すシニフィアンとして機能するものに他ならぬ…というのだった。
すなわち別の例で、≪裸エプロン≫という趣向の1つの『フェチ』があったとして(…くだらない話が続いてて申し訳ない)。そこではその実現する1枚のベールの向こう側に、男子の持つような“それ”が、『あるような?/ないような?』、というイメージのたわむれが…。まるで(筆者の見るところ、)フロイト「快感原則の彼岸」(1920)で報告された、幼児の『いないいない/バァ』(fort-da)の独り遊びを再現するかのように(?)、エンジョイされている(!)との主張があるのだ。
そしていまそれを申し上げながら自分でびっくり仰天しているので、『オレもけっこう≪常人≫だな』…と考えることを、筆者にお許し願いたい。

…いやはやわれらの精神分析とは、何とまたすごい≪真理≫を言いたてるしろものだろうかッ!? いやむしろここでは、それがえぐり出してみせている、人間らによる記号活動のすさまじいアナーキーさにこそ感動しておくべきなのだろうか…ッ!? ここにてラカン様(ら)の主張にピタリとシンクロしつつ、また別のわれらが大ヒーローたるセックス・ピストルズいわく、『オレはアナーキーという手段を使う、欲しいものをゲットするために』。



旧稿の再掲、終わり。見直してみて思ったのだが、約4年も前に書いた堕文といまの自分の頭の中身が、あまり変わらない…これは『逆に』ショックだ。
変わっているのは、当時はやたらとカタカナが多いふざけた文章を書いていたのを、近ごろもう少しノーマルな二ホン語にした、それだけだ。いま見ると恥ずかしいので、そこらはだいたい直しているけれど。

とはいえいま思うのは、作例の中でアキが『私は 自分というものを 大切にしたい』と言ってオチになっているが。しかし、そこで言われた≪自分≫なんて、『あるもの』ではないということだ。むしろ人から見えているところの自分こそが≪自分≫なので、われわれはそのギャップに傷つきながら生きるしかない。
そしてじっさいに作中のアキもまた、うかつに『萌えキャラ』を演じてしまったことで傷ついているのだ。そこまでがひそやかに描かれていてこその『外傷的ギャグまんが』であり、そしてそうでこそ氏家ト全「妹は思春期」が、世紀の変わりめを画する大傑作なのだ。



補足。文中の「資本論」の引用は、マルクス「資本論 経済学批判」, 訳・長谷部文雄, 1954, 青木書店, 第1部・上冊, p.172-3より。ふりがなと改行は引用者、“旧字”は新字に置き換え。

2010/03/09

西川魯介「あぶない! 図書委員長!」 - その有する、ささやかな『うそじゃなさ』

 
関連記事:西川魯介「SF/フェチ・スナッチャー」 - きみの町はねらわれている

前記事に続き、もうどうせなので、西川魯介先生のご本を連発で。この「あぶない! 図書委員長!」は、表題シリーズに「ディオプトリッシュ!」という連作をあわせた短編集(2008, ジェッツ・コミックス, 全1巻)。どっちも要するに『フェチ+うんちく』がばくはつしている魯介先生ワールドがみっちりとあれしているお作品であってまちがいない。

さて「図書委員長!」の最初のエピソードに、『シャケの会』というまったくよく分からない、学校内の秘密結社が登場する。なぞだと思っているままに読み終えてしまったが、あとがきあたりをながめてみたら、これは『盾の会』をもじったものであるのだとか(!)。
それは分からないよなあ…。知らないけどそれ、三島由紀夫が晩年に組織していた、へなちょこな右翼団体でしょ?
そして、そうだと聞いてみたところで、それならば『シャケの会』の奇行がふにおちてくる、ということがいっこうに『ない』。別に調べてないけれど、『盾の会』とメガネ愛好とは何ンの関係もないような気がするし。
なんというなんぎな、これはおまんが作品であろうか。この独創的なすべり方が面白い、という風にこれは読むべきものなのだろうか?

もうひとつ申しておくと、「図書委員長!」第4話のサブタイトルが『乙女はその思春期たちによって裸にされて、さえも』という。作者解題によればその元ネタは、『マルセル・デュシャンの「花嫁はその独裁者たちに裸にされて、さえも」』、だとか。
しかし一般的な理解では、そのデュシャンの作品の題名は、「彼女の“独身者”たちによって裸にされた花嫁、さえも」(1915-未完成)だ。語順の入れ換わりはどうでもいいけど、“独身者”を『独裁者』などとまちがったのは、魯介先生のヒトラー崇拝が高じすぎたがゆえの≪症候≫なのだろうか?
それが印刷所での誤植だったとしても別に同じことなので、つまり筆者が申すのは、魯介先生のお作に関しては、『仕込んでいるところよりも、すべり方や素ボケの方が(まだしも)面白い』。そしてその作品らの仕掛けていること、その≪意味≫がぜんぜん分からないことはないが、でもそこらは大いにスルーしたいなあ…と思うのだった。

がしかし筆者が「図書委員長!」で『はっ』とさせられたのは、作中のメガネで巨乳でメイド服着用の図書委員長が、何と生きた虚構でしかない。すなわちそのメガネは伊達めがねであり、巨乳は作中の用語で『だてちち』であり、メイド服にしたって演出のために着ているだけだ。
それは要するにコスプレ、見せかけ、擬態にすぎないのだが、しかし『それでよし』という見方が魯介先生のお作に出ていることに、ちょっと『はっ』とさせられた。そういう割り切り方ができるとは、『逆に』予想していなかった。
ところで世間を眺めてみると、単なる『美少女』に喰いつかない人が『コスプレ美少女』と言えば喰いつく、という現象は、あることかと思われる。フェチ者にとってはどちらかといえばフェティッシュの方が目的なので、『中身よりもパンツの方に興味がある』とでも言い切れればホンモノだ。

 ―― はいぼく『西川魯介作品に見る倫理問題 -「人格」と「属性」の間』より ――
『「萌え」を超えて「愛」を追究する西川の姿勢は、人間を「感覚の束」と断じて「人格」の存在を否定したイギリス経験論に対して「人格」の唯一性と至高性の復権を主張したドイツ観念論、特にカントの立場と通じている』(本書解説文, p.158)

筆者には哲学ってまったく分からないのだが、いちおうこの主張は受け取っておいて。『萌え』というものが愛の一種ではなくて、また別のものだ、と明らかにしているところに、その論の鋭さを見て。
がしかし、ではどうして西川作品では『属性』が、フェティシズムが、否定的媒介(?)として『必ず』起用されているのか、ということは考える必要ありげ。
ただ単にきれいな『愛』を描くようなまんが、といったら少女まんがでも見ていればよさそうなわけで、そうじゃない俗悪きわまる西川作品が、なぜそこにあるのか? そもそもはいぼく氏の論調だと西川作品は、フェティシズム(萌え)を超越して崇高なる愛にいたるようなものだという感じだが、しかし筆者にはそうは見えていない。
フェチ(萌え)もあるなら愛もある、と、そこでは2つのものの並置がなされているにすぎない。ところが西川作品のその点にこそ、一片のささやかな『うそじゃなさ』が存在するのだ。

そうしてはいぼく氏の論に欠けている考察は、『どうして(一部の)人々はフェティシズムなどという症候をきたすのか? なぜにフェティッシュらは魅惑的なのか、それは≪何≫なのか?』…という問いかけなのでは? それが『フェティッシュらは魅惑的である』ということをとうぜんの前提とした論になっているのは、氏もまた『メガネっ娘研究者』のフェチ人間だそうなので、しょうがないところなのだろうか。
そして『フェティシズムとは何か?』という問いかけに正しく答えうるものは、われらが奉ずるフロイト-ラカンの正しい分析理論以外にない。それは確かだが、しかし何となく、この場面で『それはこうこうで』…と、説明する気にはならないのだった。なにしろ筆者は、魯介先生がまともに投げてくるボールは見逃す主義なのだった(!)。

【追記】 さいごのところの問題『フェティシズム論』には、続いた記事の『氏家ト全「妹は思春期」 - オレはアナーキーという手段を使う』(*)においてふれている。

西川魯介「SF/フェチ・スナッチャー」 - きみの町はねらわれている

 
参考リンク:Wikipedia「西川魯介」

『メガネっ子“萌え”』などという趣向がいつからあるのかは知られていないが、まんがの世界に初めて集中的にそれを描き込んだのは、こちらの魯介先生の最初期のシリーズ作「屈折リーベ」(1996)であるらしい。
そして以後、『メガネっ子“萌え”』以外のことを描いておられるふしがないので、作家としての魯介先生の存在は『出オチ的』(!)…などと失礼なことを考えてはいけない。そして「SF/フェチ・スナッチャー」は、何かそのような魯介先生の初めての作品集(ジェッツ・コミックス, 全2巻)。

その『作のあらまし』はというと、もろもろの≪フェティッシュ≫に化けてご近所に潜伏中の侵略宇宙人らを退治するため、宇宙刑事とその宿主にされた少女ががんばる。で、その宇宙刑事がまた、メガネという≪フェティッシュ≫の姿で、気の毒な少女にくっついているわけだ。
そして彼女と彼は、悪っぽい宇宙人らが化けているショーツ・ブラジャー・水着・上履き、等々の≪フェティッシュ≫らをチェキってチェキりまくり。で、そのような所業がいつしか女子校の級友らにバレてしまい、そしてヒロインは『かわいそうな子』としてナマ温かく、みんなからの見守りをこうむるのだった。

…いつもそうだが魯介先生のお作らは、ギャグとしたら笑えずエロとしたら使えない。何かこう、フェティシズムとうんちくの詰まったある種のラブコメ、と形容すべきものになっているので、その『フェチとうんちく』のところで最初に共感できれば、おそらく愉しめるのではないかな、と。
そういうものとして、魯介センセのわりと近刊の「あぶない! 図書委員長!」(2008)、そこらでやっと、センセのそういう作風が『1つのもの』の水準にまで高まったかなと、筆者は見ている。別に『フェチ+うんちく』という構成要素はまったく変わらないし、かつ大爆笑もできないが。で、それはそちらで見ることにして。

さてだが、そのように筆者において魯介センセのお作らの評価は、いまいち高くもない。にもかかわらず、いちおうチェキしておこうかと思う理由は…。
そのわけは魯介センセが、かの田丸浩史センセの押しかけライバルとして、その周辺でチラチラと出没してるからだ。筆者において田丸作品とゆうのが、また分かるようで分からないしろものなので、『周りから攻めてみようか』と考えて。それで、ながいけん先生と魯介先生が、筆者の研究の対象になっているのだ。と、失礼なことばかりを申して申し訳ないがいまは終わる。

2010/03/08

南ひろたつ「漢魂(メンソウル)!!!」 - 走りぬけ、≪漢≫の道をッ!

ああ激動の時代たりし20世紀、そして今作「漢魂!!!」は、その前世紀の末期の少年サンデーの誌面を飾っていたショートギャグ(少年サンデーコミックス, 全3巻)。基本的には1P区切りの構成で、その内容ともあいまって展開にスピード感があるのはよし。
(掲載データを補足。週刊少年サンデー、1999年16号~2001年4・5号)

さてその『内容』とやらには関係ない話…と、言い切れるのかどうか分からないが。にしても今作には、作者・南ひろたつ先生の顔写真が出すぎだ。カバー袖に『著者近影』的に出ているのはとうぜんよしとしても、しかし、本編の扉ページにまでしばしばご出演されているのはどういうわけなのか?
しかもそれが、ヴィジュアル系ロッカーみたいなお姿でカッコいいのだった。かって、若かりしころの喜国雅彦センセといい勝負だろうか? 筆者が知っている男性の≪ギャグまんが家≫の肖像として、もっともイケている。やべぇ、ホレそうかも。

しかぁ~しィ、そうだからといって…ッ!?

なお、作者がノリノリで顔写真を出しているのは、この時期の少年サンデーのギャグまんが全般の特徴かとも考えられる。われわれがリストアップしている作品だと、久米田康治「行け!!南国アイスホッケー部」や久喜青葉「アホアホ学園」らにも、その特徴が見られるが。
そうしておそらく南センセにおかれては、『≪漢≫たるものは自分の顔に責任をもつべき!』、のようなお考えでそれをなされたのか(!?)…とでも考えて、ここらを流すけど。

そして今作「漢魂!!!」なのだが、まずその表紙が全巻にて、何だかギャグまんがっぽく『ない』。何か異様な…。ヒーローともモンスターともつかないキャラクターらが、その『カッコいい』というよりは『醜怪』だと言えそうな姿を誇示、というものになっている。
さらによく見ると背景も、RPGのラスボス城の悪趣味な造形みたいで、いわば『内臓的な風景』とでも言うか。正直なところ、筆者の現在のメンタルの状態では、気分が悪くなるのでジッとは見てらんない。
そしてそのヒーローかモンスターか分からない連中こそ、作中で≪マッスル・ソウル≫(略して、単に≪マッスル≫)と呼ばれる、ふかしぎな存在が描かれているのかと。
そしてそのマッスル・ソウルとは何であるのか…ということを、筆者ははっきりとは言えない。よく分からないがそれは、今作全般の主人公らしき少年≪直行クン≫、または後にその子として生まれる≪たけし君≫、彼らには見えている何らかの『もの』なのだ。

しかしびっくりなことを申すようだが、筆者には直行クンとたけし君との区別が、イマイチついていないのだった(!)。こんど少々めんみつに読んでみて、初めて『ありゃ?』と思ったのだ。第3巻の冒頭で直行クンが結婚し、そしてできた子どもの名がたけし(第3巻, p.29)、ということは確かそうなのだが。
ところが何と、作品のド頭でまず活躍しているのは、たけし君の方だ(第1巻, p.12)。よくよく見てみれば、前髪を分けてるのがたけし、分けてないのが直行だが。
にしたって、父と子がそれぞれの少年時代の姿で、かってに並行して活躍しているまんが作品なんて…! ここにて筆者は、南センセはほんとうにふしぎなことを描かれた作家だなァ…と感じないわけにはいかない。

で、物語というほどのものでもないが、今作のメイン的なモチーフとして。その直行クンらの生活に、大小さまざまで多種多様なるマッスルらが、へんなところで介入してくるのだ。
その典型的な出方としては、何か日用品の類がマッスルになっていて。それが『オレを使え! 役に立つぜ!』と、彼らに主張してくる。しかしまったく使いにくい、もしくはぜんぜん役に立たない…ということがオチになりがち。

マッスルが登場するさいしょのエピソード『マッスルトイレ』が典型的で、たけし君がどこだかの共同トイレに駆け込むと、そこで1匹のマッスルが自分の黒パンツをググッと引っ張って、『スペース』を作っている。そのスペースを例の男性専用の、≪朝顔≫に見立てているのだ。
そしてたけし君に向かって『俺にもエネルギーを わけてくれ』と言うので、このマッスルは出されたものをパワー源にしているらしい。しかしたけし君がソッコー『ことわる!!』と言い切るので、マッスルの≪欲望≫は満たされない(第1巻, p.6)。
そしてそのすぐ次のエピソード『マッスルトイレ~TURBO!!~』では、たけし君が再びトイレに駆け込むと、何とマッスルによって便器がすべて破壊されている(!)。そこでしょうがなくたけし君が≪マッスルトイレ≫を用いようとして、前のチャックを下ろす。するとマッスルは、『俺のより デカい!!』と叫んで、いちもくさんに逃げてってしまう…!

といったような≪マッスル&たけし(or 直行)≫を描いたエピソードを中心に、その他にも多種多様なキャラクターらが、それぞれの≪漢ぶり≫を魅せる…という作品だが。しかし申し訳ないことに、今作でしばしば題材になっている洋画のネタが、筆者にはよく分からないのだった。
≪ニコラス刑事≫などというキーワードに反応できるなら、もっとより今作が楽しめるのかも知れない。だが特にディープな題材が描かれているのでもなさそうなので、ちょっと自分は常識不足かな…と、思わず筆者は反省した。

で、今作の全般に言えることとして、≪漢ぶり≫を魅せようかとしたところで必ず、その登場人物らはズッコケを演じてしまう。ああ、≪漢≫はいかに生きるべきなのか、むしろいかに死ぬべきなのか…!?
そうしてあまり見たくない場面だが、今作のラストの第3巻、そのカバー表4のイラストでは、たぶん年老いた直行の臨終の床で、大小さまざまなマッスルらが彼の末期を看取っており。
そしてその往生を見届けたマッスルらは、『…任務… 終了…』とつぶやくのだった。どうであれ独りで生きて独りで死なねばならざる≪漢≫の宿命、そんな“われわれ”にそっと寄りそう『もの』が、彼ら≪マッスル・ソウル≫なのだろうか?