2010/10/09
「増田こうすけ劇場ギャグマンガ日和」 - マッドサタン外伝。または、『そこに≪自分≫というものが』
参考リンク:Wikipedia「ギャグマンガ日和」
この「増田こうすけ劇場ギャグマンガ日和」がどういう作品かなんて、もはや説明しない。いつもだったら『この作品、人は知らないかもなあ』…なんて心配があるけれど、これに関してそれはないと信じ、さくさくっとイッちゃうでゲソ!
で、超いきなりだが、その第9巻からひとつのお話を見ようじゃなイカ! 第159幕、題して『ロック伝説』の巻(p.60)。
いまいちマイナーそうなロックバンド≪マッドサタン≫のメンバー4人が、ぶっちょう面でミーティング。その前日のライブが序盤は好調だったのに、やがて盛り下がって『最終的には お通夜の ようになってしまった』、その原因をお互いに押し付けあう。
で、その過程を文章にしても煩雑なので、このさい箇条書きにでもしてみる。問題点(×)にあわせて、それぞれについて言われた『唯一の取柄』(△)というところも書き出しておく。
≪横山 ボーカル担当≫
× ことばの発音がへんで、特に『夢』を『トゥメ』というのが耳障り
△ 高音がアホみたいに伸びるだけ
≪船越 ギター担当≫
× イントロでいきなり歯で弾くなど、タイミングの悪い行動がやたら多い
△ いろんな色のギターピックを持っているだけ
≪桜田 ドラム担当≫
× 家族をライブに連れてきて、それが最前列でじっとしてるので調子が狂う
△ どこを叩いても小太鼓みたいな音がするだけ
≪所沢 ベース担当≫
× ライブの最中にクラッカーを鳴らしたがり、かつその約半分がしけっていて不発
△ ギターよりも弦が太いだけ
こうしてメンバーらはお互いに問題点をいましめあい、かつ『今度やったら、代わりのメンバーを連れてくるぞ!』と宣告しあう。そこで彼ら全員が『オレは絶対やめねー!』と宣言したので、たぶんそれぞれ言われたポイントをどうにかしよう、という気にはなったはず。
しかし、その1ヵ月後のライブで。メンバー全員がその『今度やったら』を、ついつい(?)実行してしまったらしい。そしてその翌日、全とっかえで集まった代わりのメンバー4人が、ミーティングを行う。
するとなぜかその新メンバー全員が、伊豆半島の出身とわかる。それで彼らはバンド名を≪E'z イーズ≫とあらため、そこそこのヒット曲を出す。その一方のマッドサタンの行方は、誰も知らない(同居している家族以外は)。
…あれ? こんな風にしらっとまとめてしまうと、どこが≪ギャグ≫なのかよく分からない、ただのへんなお話みたいだが…まあそれはいいや!
で、マッドサタンのメンバーらが、それぞれに、変な感じ、引く、ムカッとくる、盛り下がる、と指摘しあった問題の行為ら。それを彼らは、ふしぎとやめられない。
そもそもボーカルとギターの2人など、言われたような行為をふだんしている、という自覚ができない。横山は自分の発音がおかしいと自覚できないし、船越はタイミング悪い行動をしていると自覚できなない。そんなでは、それらを改善できるわけがない。
だが一方、『家族を呼ぶな』、『クラッカーを鳴らすな』と、まったくもって明らか&具体的な禁止令が出ているにもかかわらず、あえてそれをなしてしまうドラムとベースの2人。これはもう、まったく何かの本物だと考えざるをえないし。
で、どうしてそんなことになるのか、という問題だが。…おそらくの話、彼ら4人はそれぞれにライブの中で、何か『引っかかる』・何かを『引っかける』、ということをやりたいのだ。その引っかかっているポイントにこそ、彼らそれぞれの≪自分≫があり、それをぜひとも彼らは確認したいのだ。
だから、ライブが抵抗なくスムーズに挙行されてしまっては、意味がないのだ。そしてその意味とは、彼らそれぞれの個人的な≪意味≫であって、どこでも誰にでも通ずる意味ではないのだが。
たとえばの話、謹厳に挙行されている学校の朝礼の最中に、何かよけいなことをしてみたい、へんな音などを出してみたい、といったことは、誰もが多少は考えたのではないかと思うが。これらは言わば、それに近い≪症候≫なのだ。その強迫は、自分がなくなってしまいそうな≪不安≫からくるものだ。
そうして彼らは、それぞれに『引っかかる』・『引っかける』ようなことを行い、そしてその摩擦によって、≪自分≫の存在を確認する。そして≪意味≫はわからないにしろ、ライブの最中に『自分だけのための行為』をしていることまでは通じるので、そこで人々もまた『引っかかる』。
ところでラカンの用語法だと、自覚的なふるまいを『行動』、思わずやっちゃうようなことを『行為』と呼ぶ。そしてライブという『行動』であるべきところに、マッドサタンの彼らは、それぞれの強迫的な『行為』らを持ち込むのだ。
で、彼らそれぞれの行為らの意味だが。この場合は何らかの≪外傷≫的な過去のイベントらを、おぼろにもそれらが再現している…とは、ひじょうにありそうなことだ。だがしかし、われわれが彼らの過去をよく知らないので、それは『おぼろ』な推理に終わりつつ。
かつまた彼らは、実のところで『成功』を望んでいないのではないか、という感じもある。海外の有名なロックスターらの告白にも、うかつに『成功』して多くのものを失った、そのおかげで自分が≪自分≫でなくなった、などという話はよく聞くが。
そしてぜんぜん成功する前に、マッドサタンらは無意識に『それ』をおそれる。そして、いまそこにある≪自分≫、何らかの摩擦によって確認できる自分、というものに、強迫的にしがみつかないではいられないのだ。
さらに、かつまた。一般的に人と接しているとき、へんにほめられたり好かれたりしても、そこで逆に≪自分≫がない感じになってくる、ということはないだろうか?
それよりむしろ、『おっまえは、ほんっとにうっとうしいヤツだ。使えねえし!』とでも言われた方が、『ああ、いまここに≪自分≫というものがあるな』、という気がする…そういうことはないだろうか? つまりこれまた、そこに摩擦があるというわけだし。
ただし『大人になる』ということは、そんな摩擦によっての≪自分≫の確認などを、卒業することであるらしい。言われなくてもものごとをちゃんとこなし、なるべく無用の摩擦なしで日々を送ることらしい。
ところがマッドサタンらには、それができない。いや小生にしても、できている気があまりしないッス! だからさいごの、カッコいいロッカーを目ざしていそうなヤツらが家族と同居中、というオチにも≪意味≫がありげ。
それぞれいいものをもっていそうな青年たちなのに、パパママのもとでの≪自分≫を棄てきれず、そして大人になりきれていない、というわけなのだ。朝礼の最中などにいらないことをしないではいられない、子どもの部分を彼らはキープしまくりなのだ。
なお、もうひとつ『新メンバーの出身地がそろって伊豆』、というふかしぎの≪意味≫をも考えてみたい。これを『こうだ』とはっきり言える人は、たぶんいないと思うのだが。
で、別に大していい考えもないのだけれど。ただ筆者の感じ、地図で見る伊豆半島の本州からの突き出し方&垂れ下がり方。あれが、男性の外性器というふんいきがなくはないな、とまでは思いついた。
ここはぜひ、皆さまにもご一緒に考えていただきたいところだ。その伊豆という地名について、『置き換えてもギャグが成り立つ』というものがあるだろうか? その地名はエピソードの序盤から出ていて、それでいちいち『また伊豆かよ!』と、われわれはうけているわけだが。
そして、ご当地の方々には失礼かもだが、それを秋田とか宮崎とかに置き換えたのでは、なにかちょっと来ない感じ。だがそれを、男鹿半島、能登半島、知多半島…と、半島づくしにでもしてみれば、『何でいちいち半島!?』くらいに成り立つのでは?
で、男性の外性器を象徴するものを≪ファルスのシニフィアン≫などと呼び、それはひじょうに多義的な記号だが、まず一方で『規範』や『社会性』ということを表す。だからE'zは、無用の摩擦などを起こさずにちゃんと活動し、『それなり』の成功を見る。マッドサタンらとは≪何か≫が違う…その違いの根拠として、その記号が機能しているのでは?
いや別に男性器うんぬんを強くは言いはらないが、にしても≪伊豆≫というところに、何らかの意味があることまでは確かなのだ。意味があればこそ…フロイトが「機知」(1905)で言った『無意味の意味』を受けとっていればこそ、そこでわれわれは笑っているはずなのだ。
ただしもちろんそれは『開かれた意味』であり、しかも笑った読者個々のパーソナルな≪意味≫なのだ。だからこの問いに、たった1つだけの答えがあるとは思っていないけれど。
といったところで、そろそろ店じまいにしたいが。そしてさいごにひとつ、思いつきを書かせていただきたい。
さきに見た、ボーカルの横山が『夢』をいちいち『トゥメ』と発音しやがり、しかも彼の書く歌詞に『夢』という語が出すぎなのでウザさきわまる、という件。なぜそこに、アクセントがあるのかって…。
こんなことは誰かがすでに指摘していそうだが、「ギャグマンガ日和」について、夢をそのまま描いたような…とまで申し上げては表現が過剰だが、しかし夢っぽい表現がよく目につく。それとちょっと、関連していることなのかな、という気もするのだった。
特に筆者は、第5巻・冒頭の第64幕『水中水戸黄門』について、その印象が強い。これは川の中を歩いて諸国漫遊しているへんな黄門一行が、陣痛に苦しんでいる妊婦を岸辺に見つけて、そして漫才的なかけあいをするようなお話だけど。
これについて、その≪川≫という記号は、産道でなければ生死の境(レテ川, 三途の川)を象徴している、としか考えがたい。胎児は生まれて来ようとしているのだが、しかし死産のリスクも大いにあるわけだし。
またお話の序盤で、悪い越後屋の手先に刺された人が川に投げ込まれ、黄門たちがその死をみとる。そして彼らは、死体を岸辺に押し上げて先へ進む。いいかげんな感じでもあるが、しかしその行為によって、死んだ人は、少なくともちゃんとした葬儀や埋葬を受けられるのだ。
そしてその生死の境目の場所で、黄門一行の3匹は、どちらの側に属しているのか、それはよくわからない。ともあれ妊婦は、黄門らとのかけあいに飽きたあたりで急に元気づき、そして出産のために歩いて帰宅していく。
それを見送った黄門は『人助けはいい気分だ』と、いい気もきわまったことを言う。そしてさらに、
【黄門】 今日はこのまま 川の流れにのって
どこまでも流れて 行きたい気分だよ…
生命の 源… 母なる 海へ…
と、かなり決定的そうなことばを口にするのだった(第5巻, p.17)。やがて生まれてくる赤ん坊へと、黄門らは転生していくのだろうか? さもなくば、胎児と入れ替わりに死んでいく魂らが黄門たちなのだろうか?
で、これが出生と死についての≪外傷≫的なストーリーの象徴的表現でないとは考えられず、そしてその象徴化のしくみが、かなりわれわれの知る≪夢表現≫に近いのだった。
いやま、それがそうだったとしても、だから夢は『トゥメ』なのだ…と言いはるは、あまりに強引気味だけど。むしろ、『夢』という語が実は恥ずかしくて、さすがの横山もまともには言えないだけ、という気もしてきたり。
そして、今回はそんなようなこととして。この「ギャグマンガ日和」については、ぜひとも別の記事でまた~! チャーオ!
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