2010/10/17

kashmir「百合星人ナオコサン」 - 阿部幸弘氏の論にも学びながら

kashmir「百合星人ナオコサン」第2巻 
参考リンク:『週刊・読書北海道』
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以下は、筆者がツイッターに投じた堕文の再利用。なるべく直さない方針で、そっくり自己引用したもの。
なお、どうして阿部幸弘氏(まんが評論家・精神科医)のご文に興味がわいたかというと、たまたま見ていた伊藤潤二「顔泥棒」(「伊藤潤二の恐怖マンガCollection」第4巻)に氏が解説を書いておられ、『なるほど!』と感じたので。ではどうぞ。



1999年の阿部幸弘氏のエロ漫画論を発見し、『これは鋭い!』と思った。『ポルノグラフィーには、(それを愉しむ人々の)性の実像とは、ある意味「まったく逆の絵」が描かれる』(*)。

(それがひじょうにいいところなので、前後の部分をもあわせた引用を補足。タイモン・スクリーチ「春画」{講談社選書メチエ}について…)

著者は文中で多くの春画を分析して、「春画の幻想世界はお互い等しく楽しんでいる信頼と非暴力の世界だ」と述べる。そして、こう言う――「春画の時代はセックス黄金時代というわけではなかった」「江戸の性が金で売買されるものであり、愛し合う二人が心の底からしたいと思うことの結果ではないことが、まったく逆の絵を描かせ、描かれた二人の対等を謳わしめたのではないだろうか」と結論づける。ふーん…なるほど…。
ポルノグラフィーには、性の実像とは、ある意味「まったく逆の絵」が描かれる、即ち、実際の生活の中の欠乏が逆説的に映し出されるというこの認識は、非常に示唆的だ。

阿部幸弘氏のご文の続きから。『男性向けエロマンガが、女性の体をひたすら都合良く(有り得ないコラージュまでして)盗み見ようとしているのなら、この女性向けポルノコミック(by 柏原妃呂美)は、極限の快感の存在を暗示しているように見える』。

で、それが(阿部幸弘氏による)10年前の観測なわけで。追っていま、2010年に自分が見ると。男性向けの『触手』・『ふたなり』・『百合』、そして女性向けのBLといった趣向らは、それぞれ『他の性』の側に、その極限の快感を想定して描いている。

阿部幸弘氏のみことばの、『実像とは、ある意味「まったく逆の絵」』&『極限の快感の存在を暗示』。この2つを合わせると、いまのエロ漫画界のエッジな趣向、『触手・ふたなり・百合/BL』らの存在理由がみちびき出せるわけだ。

むかし何という人だったか、面妖系同人マンガをパクって現代アートというアレで、巨乳ふたなり少女が全身からあらゆる汁を吹き出しながらアヘアヘ、みたいなイメージがあったが。これがその『極限の快感』への想像と、あわせてナルシシズム。2つのベクトルを、うまく表現できているものではあった。

『見ることは考えることである』とはジャスパー・ジョーンズの名言(?)だが、これをいまのわれわれは、どう受けとめるべきだろうか。『見ることは享楽である』、『記号消費である』、裏返して『見られることである』、いろいろに考えてみるが…。

自分の頭が止まっちゃったので、阿部幸弘氏の論に戻ると。『(町田ひらく作品について、)幼女を愛でる現実社会の“常識的な”視線と、幼女を犯す町田の虚構との関係は、やはりコインの裏表だ』。あわせて“誰も”が幼女の中に、貴重で希少な何かの存在を想定し、そしてそれに対して対照的な態度に出るわけだ。

つまり幼女について、『純粋だから貴重で不可侵なものである』という見方と、『純粋なのでけがしたい』という見方が、『コインの裏表』と、阿部幸弘氏によって言われているのかと。『純粋』ということばを外しても、『何か』があると想定されている。

阿部幸弘氏の幼女論にからんで。「百合星人ナオコサン」より、『最新の学説によると 一般尿と幼女尿では厳密には 差はないそうだ』。なぜこんなことが≪ギャグ≫として機能するのか? これを笑える者は、何かその『差』を、無意識にあるものと考えている。

阿部幸弘氏、古屋兎丸「Garden」について、それを北海道新聞の紙面で紹介しようとして断られたの巻(*)。さきからずっと、『週刊・読書北海道』メールマガジン版のバックナンバーを見ながらしているお話。

古屋兎丸「Garden」阿部幸弘氏、古屋兎丸「Garden」について。『問題とされる可能性があるのは、この短編集のラストに収録されている「エミちゃん」だろう』、『森をさまよう主人公・少女エミが、偶然、幼女大量殺人の現場に出くわし、犯人のおたく風な青年に無惨に殺されてしまうという、いかにも世間が忌み嫌いそうなもの』。

自分が読んでない作品の話をして申しわけないが、その古屋兎丸「エミちゃん」の示しているところもまた同じ。幼女自体は何でもないものなのに、ある種の人々はその中に『何か=対象a、ゼロ=∞』の存在を想定してやまない。そしてその『何か』を掘り出しゲットしようとして、兇行に及んだりもする。

(≪対象a≫とは分析用語で、『何でもないけど“すべて”でもありそうなもの』。『黄金=ウンコ』であるようなもの。きわめてふしぎで、かつざらにあるもの。さっき出た『幼女尿』というものが、またそれだ。そんな≪対象a≫については、この記事で、やや詳しく説明いたしている)

阿部幸弘氏の論を離れて独断的に申すと、その『何か』とは純粋(無垢)さ、それも『自分自身の失われた純粋(無垢)さ』なのだ。地上の天使みたいな存在をへんに追求している方々は、かって自分が天使だったことを想定し、そして『何とかして』その取り戻しをはかるのだ。

そしてその、阿部幸弘氏や古屋兎丸センセら等々が、幼女の中にあると想定している『何か』。それを、われらのギャグ漫画たる「百合星人ナオコサン」は、『幼女分』と名づけている。そして、『自分の幼女器を超えて 幼女分を 得ようと』すれば破滅、と描いているのだ(第2巻, 第25話)。

とまあ、そんな幼女論を外側から語っていそうな自分にしても。その「百合星人ナオコサン」の、『幼女は 一日一時間!』、というおギャグを笑える程度にはロリコンである、ということは認めながら。びみょうにもロリコンでなければ、このおギャグは笑えないはずなので。

で、そんなあたりで、『週刊・読書北海道』のサイトに出ている阿部幸弘氏のご文がつきてしまったので、自分のおしゃべりもそろそろひと区切りとして…。

〆くくりに、まいどまいどのギャグまん讃歌を申し上げれば。そうして人の妄執というものを、ねちねちと描いていくのもまんがの作業ではありながら。しかしその一方に、ごく小さな表現で、その妄執を突き抜け走り抜けていくものもある。それをわれわれは≪ギャグまんが≫、と呼ぶ。



ツイッターからの自己引用、終わり。見なおしてみると、筆者がいちばんさいしょにご紹介いたしたところ…。
『ポルノグラフィーには、(それを愉しむ人々の)性の実像とは、ある意味「まったく逆の絵」が描かれる』。また、『極限の快感の存在を暗示』するものとしてのエロ漫画。そこいらが、いちばん鋭い。いまからでも、むしろいまからこそ、大いに利用価値のありそうな知見だ。

が、それに対し、後半のロリコン論は、比較的どうでもいい(ッ!?)。どうでもいいって失礼きわまるけど、しかし自分にしてみれば、わりと『見えたこと』なので。…だからぶっちゃけ、町田・古屋らのお先生さま方、あちら側の作品傾向には、あまり興味が少ない。

かつまたこれらは、筆者による『伊藤潤二「富江」論』のイントロでもあるのだった。そっちの作中でバカな男どもは、超チャーミングなセクシーヒロイン≪富江≫の中に『何か=≪対象a≫、ゼロにして“すべて”であるもの』を見て、そしてその『取り出し』をはかる。
ところが、どうなるか?…というお話。けれども「富江」については、いずれ別稿でしっかり見ていきたいというわけで!

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