2010/10/11
森ゆきえ「ブレイク☆カフェ」 - 俺の妹が≪ゴリラ≫なわけがない。または、『変態お兄ちゃんのことなんかぜんぜん好きじゃない』
参考リンク:Wikipedia「ブレイク・カフェ」
ギャグまんがの≪意味≫とは何か? それは『抑圧された意味』であって、それが抑圧されていることにも、また大いに『意味』がある。
そしてその、実は読者がちゃんと受けとっている『無意味の意味』。そのせっかく抑圧されている≪意味≫を、わざわざことばにしてしまうのも愚の骨頂ってもんかなあ…。とは、近ごろ少々思うのだけれど。
で、この森ゆきえ「ブレイク☆カフェ」という作品にもまた、とうぜん何らかの≪意味≫がある。その概要は、2004年からマーガレット掲載中のショートギャグ。単行本は、第5巻まで既刊(マーガレット・コミックス)。りぼんでのデビュー作「めだかの学校」(1996-2005, RMC全7巻)の大ロングランを描ききった作者が、掲載誌を替わって、ちょっぴりだけアダルティな内容(?)を描く『喫茶店まんが』。
どういうお話かというと。ヒロインの≪寿々子(すずこ)≫とヒーローの≪卓樹(たっき)≫、天涯孤独な四ツ谷兄妹が冒頭で、ふたりの念願の『YOTUYAカフェ』をオープンする。
ところが、バカの兄が不動産屋にだまされたせいで、そのカフェの立地は、自殺の名所の断崖絶壁の崖っぷち(!)。だからお客が、来にくい…というか、まったく来ない。
しかも開店にあたってバカ兄が、悪いところから高利の金を借りてしまったので、彼女らのカフェにはひんぴんと、ガラの悪~い借金取りが押しかけてくる。というか初期には、そいつらしか『お客』が来ない(!)。
で、この兄妹がボケツッコミを演じたり、まれに来るお客らをひどい目に遭わせたり、または借金取りをどうにかして追い返したり…といったようなことで、展開しているギャグ作品なのだが。
そして、冒頭以前の設定あたりですでに『ブレイク』しているヒーロー、われらの卓樹(タッキー)。彼は天才的なパティシエでもありつつ、おバカでしかも、たいへん変態なキャラクターなのだった。
どういう変態かって、まずはすぐ脱ぐ。店内等で、自信たっぷりに裸エプロンの『サービス』をやりやがる。今作の第2巻のカバーが、そのあでやかな姿のピンナップになっている(!)。
申し上げとくが、これはタッキーの変態行為としては初歩の部だ。説明しやすいので、まずはそこを見た。そしてこれは、かのこまわり君が、やたらその≪タマキン≫を誇示するギャグが、少女まんがとしてソフトに表現されたものだ。そしてタッキーがけっこうイイ体してやがるので、実はこれが『サービス』として成り立ってもいる。
すなわち、わりとさいきんのエピソード、YOTUYAカフェのPR用のホームページを作ろうというお話。するとタッキーはとうぜんのように、自マンの裸エプロンの写真をトップに掲載したがる。そこにまたとうぜんツッコミが入ったので、いさいは省くが『裸エプロンはまずい』とエプロンを除去し(!)、股間はモザイク処理として、そのページが公開されてしまう!
ところがそれが『なぜか』評判になって、お店に女性客が押し寄せてくる。すると彼女らはタッキーの実物を見て、『何よぉー、服を着てるじゃないのぉー』とがっかりしやがるのだった。
で、タッキーの奇行らがあまりに変態なので、ヒロインたる寿々子が兄へのツッコミに入ったら、何のようしゃも抑制もない。
むしろ人間とは思えないほどの怪力で、彼女は兄に制裁を加える。そして兄は血を吹きながらブッ飛んで、全身を骨折したりする…が、しかし数ページもすると治っているのが、ギャグまんチックでなかなかゆかい!
かつまた、高校をほとんど休んでお店にかかわっている寿々子は、一見まともな女の子のようなのだが。しかし見たようなすごいバカ力に加え、天才的に不器用なのだった。お店で包丁を扱わせたら『トントントン』と、まな板ごとさっくり食材を刻んでしまう。
さらにはボウルに向かって玉子を割る、ということさえができない。『ほわぁっ』!と叫んで彼女は猛然と、いきおいよくそれをつぶしてしまう(第2巻, p.35)。そんな場面でタッキーは、『俺の妹がこんなゴリラであるわけがない』、的なことを言うのだった。
で、この、喜劇とも悲劇とも言いがたい状況が、いったい≪何≫をさしているものなのかというと…?
超いきなりだが、はっきり申し上げてしまおう。このひとつのお話の、そのまた底流にあるお話はこうだ。
『社会から切り捨てられた兄妹が、孤絶した環境下で、とうとうタブーを破って愛しあってしまい、そして「トリスタンとイゾルデ」が望んだような≪甘き死≫を迎える』
よって『自殺の名所』に立てられた小さなお店は、言われた『孤絶した環境』でありつつ、そしてきわめて≪死≫に近い場所なのだ。
ちなみに兄がだまされたとき、悪徳不動産は崖っぷちの他に、『樹海の中』と『公衆トイレ』、という物件をも提示したそうだ(第3巻, p.35)。その『樹海』の意味するところもまた≪死≫であり、そして『公衆トイレ』は、近親相姦というタブー侵犯の汚辱を表す。
そしてその3択場面、『じゃあ 崖っぷちで!!』と即答した兄の判断は、まちがっているとはとても言えない。何せ、このジャンルこと『近親系少女まんが』の始源の大名作にも、もりたじゅん「うみどり」(1970)、とあるわけだから。
よって彼らが望んでいる≪甘き死≫の舞台に、どれがいちばんふさわしいかは、おのずと明らかだろう。…これもまた少女まんがであるものとして、絵づら的に。
だからもう、『だまされた』という表現も実はうそなのであって、彼たちは『それ』についての最高のスポットを手に入れたのだ。いろんなことらが『実は』、彼たちの思うつぼなのだ。
ただし彼らは、『意識』をしないままにこれらをなしているのだ。『兄と妹、ぞんぶんに愛しあって、そして2人で死にたい』とは、彼たちの無意識の欲望だ。
そしてその無意識の欲望が、ちらちらと…。というかきっぱりと、彼たちの行為や言表らに出てしまっているのだ。
かつまた。そうかといって、彼たちが一方で、意識的に考えていることには何の意味もないのかというと、そうも言わない。まずは2人のお店を繁盛させて、いずれは兄妹が、それぞれにまっとうな幸せを…という彼たちの意識的な希望が、ぜんぜん口先だけの偽りとも考えない。
むしろそうなので彼らは、意識的な希望と無意識の欲望とのはざまで苦しむのだ。現実の成功をおさめることもできず、またきれいに死んでいくこともできずして、ず~っとけいれん的にもがいてあがき続けるのだ。さきにちょっと見たような2人の変態性や異常性らは、その苦しみが肉体の動きとして表現されたものなのだ。
その作中の、また見やすい例。まったく意味もなさそうなこととして、兄はその裸っぽい姿を誇示して妹を挑発する。すると妹は『よしてよ!』いやがってみせるけれど、しかししんからいやなのではない(!)。だから彼女は、何かがきわまらない前に『ガツン!』と喰らわして、兄の危険な挑撥を止めさせるのだ。
そしてこの2人とも、自分らに生じていることを意識はしていない。はっきり申し上げれば、『近親相姦』というモチーフがここに出ていることを理解していない。
意識していないからこそ、卓樹は悪ふざけとしての挑撥に及ぶ。また意識していないからこそ、寿々子は過剰さもきわまった破壊力でそこにツッコミをかます。
いやむしろ寿々子は、無意識には、自分が兄から性交を迫られ気味なことを知っている。だからこそ、レイプに対する抵抗ぐらいの必死の力を、そこでふるうのだ。
かつまた、このバカ野郎の変態な兄にしたって、『すべてをガマンしない』、という態度に出ているのではない。この兄にしてもまた、近親相姦をしたいけれどするまいとして、多少は苦しんでいる…ということはあるのだ。いやむしろ、そうだからこそ彼は変態なのだ。
で、今作は、そのほとんど“ぜんぶ”がショッキングなお話だが。だからこそのりっぱな≪外傷的ギャグまんが≫だが、しかしその中でも、筆者がひじょうにショックをこうむったエピソードをご紹介。
変態のくせして意外とモテ気味なタッキー、『実は』過去、≪晴海≫という女性とつきあっていた。そしてお互い、実は大いに未練がある。
けれどもタッキーが、晴海とよりを戻したくない理由は、彼の生活の不安定さからであるらしい。それで晴海を苦しめたくない、などと人間なみのことを言いやがる。そして彼は、晴海と寿々子の目の前で叫ぶ(第3巻, p.127)。
【卓樹】 借金地獄の 道づれになるのは 寿々子1人で 充分だっ!!
…しかしだ! 卓樹が道づれにしたくない晴海と、道づれにしたい寿々子。彼がほんとうに愛して求めている女性は、はたしていずれであろうかッ? このところを諸姉兄よ、いかがお感じだろうか?
で、それから彼は、『ほっといてくれ…!!』と叫んで『だっ』と走りだし、そして店の裏の崖っぷちから、ザパーンと海に転落してしまう。それも、あやまって落ちた、とは形容できないほどのまっしぐらさで。
『ぜったいに寿々子を道づれにしたい!』とまでは強く考ええずして、そこでの卓樹は、独りでお空の星になってしまうのだ。これがギャグまんがだから、次の回ではへいきで復帰しているけれど(“笑”)、もしもシリアスだったりしたら、ここでふつうにエンドマークが出ているところだ!
そして、このように書いてくるとわかってくるのは。卓樹の側には、引き続いている『兄妹心中』の可能性、未然の悲劇について、その動機も証拠もじゅうぶんなのだが。しかし寿々子の側は、そんなでもないということだろうか。…あれ?
そういえばお話の中で、タッキーが死んでしまったかと思われるような場面が、さっき見た以外にもけっこうある。そしてそこでの寿々子の反応が、意外にあっさりしていることも、また印象的だ。
ところでこのヒロインについて、単に不器用で怪力だということを、通り越した特徴がある。その不器用さをおして、彼女が何とか料理らしきものを完成させると、それはドロドロの化け物になる(!)。ここらで今作は、ドタバタを通り越して≪不条理ギャグまんが≫になっている。
で、放っとくと、その化け物には目や口らしきものが生じ、そして奇声を発したり人語を操ったりし始める。ジョジョじゃないけど、『チュミミィ~ン!』みたいに。
かつこんな『料理』らが、口に入れたら死ぬほどマズく、しかも死ぬほどの猛毒であることは言うまでもない。ところが本人には何ともないせいもあってか、彼女は自信マンマン、へいきで人々にそれらをサーブする(!)。
そしてこれが出た時点で、いままでの構図は逆転する。バカ兄の卓樹はあっぱれな変態ではあるが、しかしふだんからろこつに有害な生き物、というほどではない。具体的には、人を物理的に傷つけるようなことはしない。
ところが寿々子は、放っておくと彼女の生み出した化け物で、人類を滅亡させることも辞さない。だからタッキーが、そこでツッコミ…というか止め役に廻らざるをえない。
それではまるで、化け物っぽい妹を人里はなれた場所に隔離して、兄が何とかそれを保護しているかのようなのだった(!)。寿々子は自分が兄を保護しているようにも考えているが、何とあのような兄から見ても、それが同じなのだ。
そして、その化け物とは何か…ということも、いちおう考えてみるべきで。われわれの用語では≪現実的なもの≫などと申すが、それはことばにはできないもの。さらには、意識できないどころか、無意識にさえも存在していないもの。かつその現れは、狂気の徴候であるもの。
その両親にあっさりと捨てられ、学校にも満足には通えず、恋愛やレクリエーションもろくにできないまま、バカ兄のお守りと日々の労働にいそしんでいる…そのような彼女のかかえた『黒いもの』が、そのドロドロの化け物として現れているのだ。そしてその意味するところをあえて言えば、『みんな死んでしまえばいい』(!)。
兄は妹といっしょの≪甘き死≫を願い、妹は兄を筆頭とする“みんな”の死を願っている。そして後者の望みについては、それが彼女の無意識から『さえも』排除されているので、徴候どころか“もの”として作品世界に現れる。このどうしようもない狂気のペアを閉じ込めた場所が、われらの見ている崖っぷちの珍名所、すなわち『YOTUYAカフェ』なのだ。
ちなみにラカン的な見方によって、≪倒錯者≫と≪精神病者≫とは排他的だ。だから兄は倒錯者であって精神病者ではなさそうで、その一方の妹は精神病者であっ(たとし)て、倒錯者ではない。
かつまた、ここでユッキー(森ゆきえ)先生の前作「めだかの学校」を参照すると、それがまたろこつな倒錯者の≪田中先生≫をヒーローとし、そして精神病者っぽいヒロイン≪めだか≫をフィーチャーしている。そのペアの再現、という感じも今作にはありつつ。ただし「めだ学」の作品世界がまるごと妄想っぽいのに比べたら、今作の方が、まだしも現実の中のお話という感じだが。
またここでわれわれは、少女まんが史上にさんぜんと輝きわたる永遠の超名作、かの崇高さをきわめた一条ゆかり「デザイナー」(1972)がどういうお話だったかを、思い出しておく必要もあるだろう。ネタバレをさけておぼろげに申し上げれば、それがまた、≪倒錯者≫たる兄と≪精神病者≫たる妹のペアを描いたようなお話として!
そして。かの一条ゆかり大先生は、その崇高であり華麗さをもきわめた創作歴のピークにおいて、タブーと狂気のせとぎわを『通り越した』人物らが、さわやかに破滅していく姿を描いておられた。そして、そのまさしく『通り越した』姿の美しさと荘厳さに撃たれて、われわれは惜しみようもない感動と感涙を、それらに注いできた。
ところが、その一方のわれらが「ブレイク☆カフェ」のヒロイン&ヒーローは、できるならば『通り越す』ということを『しない』ために、じたばたとあがいてもがき続けているのだ。そしてそのもがきようを、むざんにもわれわれは、≪ギャグ≫として受け止めているのだ。
ただしそのことを残酷とも言い切れないのは『逆に』、この「ブレイク☆カフェ」に対して笑いを返しているわれわれが、これらを他人ごととばかりも考えていないからだ。『いっそ通り越して、さわやかに破滅したい』…これもわれわれが考えていることであり、『そうは言っても破滅したくない』、これもまたわれわれの考えていることだ。
で、それぞれのことが、根は同じものでありながら、あまりにも対照的な反応を、われわれにもたらすのだ。それは、あまりにも通り越した一条作品が『荘厳』という印象を残すに対し、ひとつの線だけは通り越すまいとしている「ブレイク☆カフェ」が、りっぱな変態系のドタバタと不条理とを演出しちゃっているからだろうけれど。
だから、一条先生の近親シリーズと今作とは、それぞれ逆の方向から同じような効果を得ようとしているものか、という気もしてくる。一条作品を眺めた人々は、それを見て『気がすんだ』という境地にいたるかもしれない(=“カタルシス”)。一方の今作を眺めた人々は、それを見て『そのおかしさや危険さに気づいて、バカバカしくなった』という境地にいたるかもしれない。ともに、無意識の過程で。
これらはもちろん、『近親相姦は人々の無意識に求めてやまぬ、その“欲望”のコアである』を前提にしたことだ。ところでフロイト派ではないまでも、いまどこの“誰”がその正しいテーゼを否定できるのだろうか?
一条作品の愛読者さまらは、もとよりだ。その卓越しきった傑作群には及びもつかぬにしろ、いまのまんが界に『近親何とか』をモチーフにした作品らがクソほどもあり、それをたいへん多くの方々が、へいきのへいざで楽しんでおられるのだ(…いま細かいことは言わないが、それらはソフトな『倒錯者としての実践』)。
こんな世の中をフロイトやラカンたちが望んだのでは『ない』が、この現況が彼らのあまりな正しさを、うかつにも証明してしまっているのだ。そして愚かな“心理”学者とやらは、かんじんなことだけはぜったいに見ないまま、『そんなことより』と言ってネズミの実験に超はげんでいる。
そしてこうしたまんが界にあって、今作「ブレイク☆カフェ」は逆説的に、もっとも『正気』に近いものだと断言できよう。なぜならそれが、凡俗で通俗なまんが作品らの描いているうそっぱちを撥無し、かろうじての方法で『正しいこと』を描くもの、すなわち≪ギャグまんが≫であるからだ。
そして。それが破滅をさけようとしているものだけに、その物語には終わりがない。きれいな終わりようなど、あるわけないではないか? 狂気におちいってしまえばかんたんだが、誰にとっても正気であろうとする闘いは、死ぬまで続くのだ。
…そして。あまり言いたくはないことだが、狂気と正気とのはざまにて、≪倒錯≫という方面に逃避してみることが、少なくとも精神病者にならないための手段として、ぜんぜん有効でないとも言えないのではあった。
と、まずはそんなところまでを見て、このすばらしい創作の具体的な局面らは、追ってご紹介することといたしたい。
ところで以下は、筆者の個人的すぎる感慨でありかつ『反省文』。むか~し自分は『りぼん感想サイト』みたいなことをやっていて、そこにものすごい長文の『森ゆきえ「めだかの学校」論 序説』というものをポストした。
すると嬉しくも読者さまからプラスのご反応があり、『この勢いで、ぜひ「ブレイク☆カフェ」についても論じてみて!』のようなリクエストまでいただいたのだった。
命をかけても大断言できることとして、りぼんの愛読者さまたちは、このくだらない世界のまれなる輝き、その中のもっともすばらしい部分に他ならぬ。そしてその中にあった自分は、少なくともいまよりは、ぜんぜん幸せだった。ところが自分は…ってまあ、そんな話は個人的すぎだけど。
で、そのリクエストに対して自分が『応! イエース!』かなんか申し上げたのが、たぶん2006年の暮れくらいの時期なのだった。で、現在が2010年の秋で!
だがしかし、小坊のころから宿題なんてやったことのない自分としたら、約4年かかってもちゃんとそれを実行した分だけ! …なんて強弁は、さすがにいたさない。いや、実質的にはいたしてるけど!
にしても自分は、われらがユッキー(森ゆきえ)先生のお名前を見るたび、そして今作「ブレイク☆カフェ」を眺めたりその題名を聞いたりするたびに、そのお約束のことは思い出していたのだ。そして託された課題の大いさを想い、かつそれをなしえていないことへの自責にくれていたのだ。
…そのことだけは、見下げはてたクソ豚野郎にもなせる最低限の弁明として、心からのおわびとともに、ここに記させていただきたいのだった。オレの大尊敬いたす諸姉兄の前にてこの醜態、まったく恥じ入るばかりではござるが…っ!!
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