2010/10/20

亜太川ふみひろ「フルパワーMONKEY」 - カフカ「掟の門」 と スカトロギャグまんが

亜太川ふみひろ「フルパワーMONKEY」第2巻 
関連記事:ラベル「フルパワーMONKEY」

関連する記事で今作「フルパワーMONKEY」について、『まるで東欧文学のカフカやブルーノ・シュルツのようなふんいき、“孤立感”』ということを述べた(*)。
…が、とうとつな感じを与えていたかも知れない。カフカやシュルツのお文学と、フルモンのようなスカトロおげれつギャグまんがと、何の関係があんのバカじゃねえ?と、思われていないとも限らない(涙)。

1. あっちに『掟の門』、こっちに『暗号』

…カフカによるごく短い小説、もしくは寓話で、「掟の門」(1914)という作品がある。調べていたら『KAI-SAI ART』というブログにうまい要約があったので、まずそれを引用いたす(*)。

ここ(掟の前)にやってきたある男が、この門を通ろうと門番に掛け合うのだが、どうあがいても通してくれない。
何を言っても「今はだめだ」という。

だが門番は無理やり入ることを禁止してはいない。
とはいえ門番は屈強で、自分の後ろにはさらに強靭な門番が控えていることをほのめかす。
その脅しに男は怯えきって通ることができない。

「今は」という言葉に男は光明を感じ、いつとも知れない通行の許可を待ち続ける。

歳月は流れ、男の寿命は尽きかけていた。
その時門番は言った。

「他の誰ひとり、ここには入れない。
この門は、おまえひとりのためのものだった。
さあ、もうおれは行く。ここを閉めるぞ」

次に、それに対する「フルパワーMONKEY」から、ひとつの作例を見てみよう。

――― 亜太川ふみひろ「フルパワーMONKEY」より、『暗号』(第2巻, p.107) ―――
【野球帽の少年】(公衆トイレのドアを叩き、)早く出てくださーい
【中からなぞの声】 暗号を言いなさい
【少年】 (びっくりし、泣きながら、)暗号なんて 知らないよー!!
【声】 暗号が ちがいます
【少年】 (ついにお尻のあたりがこんもり、号泣して、)もれた――っ
【声】 (ギイイ、とドアを開けて、)OKです

トイレに入ろうとする人が、『もれた!』と叫ぶまで、トイレのドアが開かない。これがナンセンスであり、おかしい。何のためのトイレの存在か、わからない。
ただし、これをおかしいと感じて笑っている人々が、その背すじに感じている冷たいもの、ということも見ておきたい。それは、取り返しのつかない『事後』になってからでないと動かない機構が、この世にはすごいいっぱいある、という抑圧された認識だ。

それに対する、カフカの「掟の門」。これはずいぶん多様な解釈を許容しそうなお話だけど、いま見て筆者が感じたのは、『“誰も”が合法でなければならないが、合法たりえず』というところ。ドイツ語の原題(Vor dem Gesetz)を直訳すれば「掟の前で」なので、これはまず何よりも『掟』についてのお話だ、と受けとらないわけにはいかない。
そして掟の門は、入れば入れる門なのかもしれない。だがしかし、番人が『入れられぬ』と言っているところを通って、それで合法かと言ったらおかしい。

ただし、その門を実力行使で通り抜けて≪掟≫へといたる、という行き方も確かにある。オキテの起源には暴力による権力掌握があり、オキテの守護者は暴力を(特権的に)行使する。合法の根拠に何か必ず非合法くさいものがあり、秩序の背後には必ず暴力の装置がある。
(フロイト-ラカン的なりくつとして、“すべての”者が何とかをすべからず、といったオキテの立て方は、必ず例外者を言外に想定しているものらしい)

現にあるようなノーマルっぽい秩序は、いわゆる『自然状態』の暴力が横行している状況とも異なりながら、かといって“誰も”が許されているフェアな世界でもない。ここを甘く考えてはいけない。

太平洋戦争の後の、BC級戦犯の悲劇、といったことがいまも話題になるが、それはこういうことでもあろう。好きで兵役に応じた人間がそうはいたものとも思えず、応じなければ『非合法』、だから応じたものとして。
ところが暴力の応酬の結果、負けた側の行為がまるごと非合法だったような話になる。合法性を求めて行動した者が、非合法として裁かれる。これがまさしく、≪カフカ的状況≫というものだ。

だから、非合法だゾ、と言われて裁かれそうな人間は、いっそ自分の≪王国≫を作ってしまうといいかもしれぬ。自らが、≪掟≫になっちゃえばいいのでは? ただしカフカにしろ亜太川ふみひろ先生にしろ、そんな度胸などのない≪われわれ≫のことを描いているのだ。
ラカンが好んでおしゃべりに持ち出した、『奴隷と主人の弁証法』、というヘーゲルのたとえ話がある。それをここに応用すると、門番とケンカしてでも掟の門を通ってやる、という人間が≪主人≫になりうるもので、おとなしく許可を待っているようなわれわれは≪奴隷≫、ということらしい。

2. あっちに『掟の門』、こっちに『国境』

ここでフルモンの同じ巻から、ちょっと似たようなお話も見ておくと。

――― 亜太川ふみひろ「フルパワーMONKEY」より、『国境』(第2巻, p.74) ―――
【青年】(モノローグで、)オレは今 無断で国境を 越えようと… んっ
【なぞのマシーン】 (アームの先の光線銃をつきつけ、)入国許可証ヲ 見セナサイ
【青年】 あっ…ないです…
【マシーン】 国境ヲ 越エルト 射殺デス
【青年】 そ…そんな…(個室内に存在する、不可侵の国境。その向こうのトイレットペーパーに手が出せないので、便器に腰掛けたまま、青年は頭を抱えて苦悩!)

≪侵犯≫を、しなければいいとは分かっているのだが、しかしそれをしなければ身動きも取れない。ここまでを見てくると、分かってくることは…。同じく不条理な状況、大ジレンマを描いている作品らでありながら…。
一方のカフカ「掟の門」は、『“掟の門”に入ろうとして』という高尚なところからお話が始まっているけれど、また一方のフルモンは、人間の超低レベルな欲求充足のところから、お話が始まっている。それらの特徴が、ストレートに、作品らの印象につながっていよう。

けれどもカフカ作品について、そこに高尚さばかりを見るような読みは、はっきり言ったら間違っている。この「掟の門」にしてもそうで、その全訳はネットでも読めるので、それをご参照ありたし(*)。
掟の門の前で待ちくたびれた男は、だんだんへんになって、自分についているノミに門番の懐柔を頼む(!)、そんな心境にまでおちいるのだ。こういう細部に出ているナンセンスやユーモアこそを、ぜひ味わいたい。

――― 演劇「アメリカ」の演出家・松本修氏の談話から(*)―――
カフカの読者から、僕のやった舞台には「カフカにはないユーモアと、性的なものを付け加えた」と言われましたが、違うと思います。もともとカフカの中に性的なイメージやユーモアがたくさん書き込まれている。
日本でのカフカの読まれ方では、そこが重要視されていなかったかもしれませんが、演劇的にはそこがとても面白いと思いました。若い頃に『城』を読んで面白く思えなかったのはそこが読み取れなくて、観念的に受け止めていたからだというのがわかりました。

――― 第20回東京国際映画祭(2007), 山村浩二監督らの質疑応答から (*)―――
【山村浩二】 カフカを知らない人は世界中にいないですが、ちょっと難しいととらえられがちです。原作の中にエンターテインメント性を見出し、僕はユーモアとしてこの映画(短編アニメーション「カフカ 田舎医者」)をとらえている。もちろんブラックなユーモアの部分は強いんですけど。
【池内紀】 カフカは作品を読み聞かせるのが好きでした。「変身」を友人の前で音読んだ時は、自分でもおかしくて笑ってしまい「真面目に読め」と注意されたこともあったそう。カフカの文章は非常に明晰で、おかしみがあり朗読に適しています。
(註・『音読んだ』は、原文通り)

まさにしかり、『超禿同』というところ。そしてここでは(ブラック・)ユーモアと言われているけれど、しかし『ユーモアとは感情の節約である』というフロイト様の定義からはみだす部分が明らかにあり、それをわれわれは≪不条理ギャグ≫と呼びたいわけだ。

3. あっちの人は≪掟≫を求め、こっちの人はトイレを求め

そしてフルモンの場合、まったくあたりまえなことを遂行しようとして≪われわれ≫は、不可解なオキテとの直面によってつまづく。トイレ関係のトラブルは、たいがいの人が夜の夢にもみていることで、すなわち“誰も”がそこらに≪外傷≫をもつ。
そしてフルモンの場合、そこ(トイレ)は必ず理不尽なオキテや不条理なシステムのあるところであり、人が不可避に試みを受けるところであって、しかもその試みをうまく乗り切るものがいない。≪田舎医者≫がわが家に帰りつけず、≪ヨーゼフ・K≫は告訴されて弁明の機会も得られず、≪測量技師K≫は城にまでたどりつけない…それらのことに似て。

「掟の門」のヒーローは衰弱死の間ぎわ、『誰もが掟を求めているのに…』と言う。それと同様、トイレを必要としない人はいない。これを『同様』、と言い切るのもなんだが。
そして、「掟の門」に登場したのはヒーロー専用の門だったそうだが、フルモンに頻出するトイレらにもそういう性質がありげ。つまり、同じなんぎなトイレで、いろいろな人がリアクションをきそうような展開にはならないのだ。それらは、誰であれそこに出た人物への、それぞれ専用の試みの提示という感じなのだ。

ただし、誰もが失敗するのだから、その試みの個別性ということに何の意味があるのやら? 個別的には違いないのだが、しかし『個性』ということは問題になっていないわけだ。
それは「掟の門」のヒーローが、特に誰ということもない男なのと同じで。ここいらは、人間らの『個性』などシカトしきってやまないラカンのりくつに通じる感じもある。

ところでなんだが、≪掟≫の前でのつまづきを演じまくるカフカ作品とフルモンの人物らは、いちように男性だ。これはおそらく、偶然ではなく意味があることだ。
どうしてかって、スラヴォイ・ジジェクがいろいろな本でのカフカ論で書いているように、女性の場合は≪掟≫とのかかわり方が、また違うからだ。きわだったものとしてはジジェク「斜めから見る」(訳・鈴木晶, 1995, 青土社)の、『カフカ「審判」論』チックなチャプターをご参照。

4. あっちに「流刑地にて」の処刑マシーン、こっちには?

当初の意図ではもっと短く、さいしょの2つの引用を並べて『ほら?』というだけの記事にしたかったのに。それがもうずいぶん長いので、今回はこのくらいで。
何しろ『カフカ vs.フルモン』というお話は、へいきで無限にも続けられるものなので、どこかできりをつけなければならない。さ~て次回のフルモン記事は、フルモン vs.カフカ「流刑地にて」、というお話になる予定かも?

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