2010/10/25

川島よしお「O-HA-YO」 - ありし日の人類どもへ

川島よしお「O-HA-YO」第2巻 
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この「O-HA-YO」は川島よしお先生の、「グルームパーティー」に続いた週刊少年チャンピオン連載作(1999-2001)。単行本は、少年チャンピオン・コミックス全2巻。
そしてこのタイトルは、たぶん小津安二郎「お早よう」(1959)からいただいちゃってるもの。そこらから邪推すれば、前シリーズから少々トーンを変えて、いわゆる『大船調』っぽいヌルコメ路線に挑んだもの…かという気もしつつ。

まあじっさい、何かヌルくはなっている気がするのだった。特に今シリーズのさいごの方は、なぜなのか『デブ』というモチーフが目立ちすぎ。よっぽどの≪デブ専≫でない限り、おつきあいしかねるものが? …などと言っている間にひとつ、心に残るネタをめっけたので、それをご紹介しとくと。

――― 川島よしお「O-HA-YO」第2巻より, 『ドツキ漫才』(p.121) ―――
寄席の舞台のセンターマイクの両サイドに、蝶ネクタイをつけたロボットらが現れ、それぞれに『純でーす』、『正作でーす』、と名のる。
次に、その2体の間に割って入ってきた太めのロボ。これはSF映画の名作「禁断の惑星」の、≪ロビィ≫に似たような姿のやつ。
それが『三波春夫デ ゴザイマス』…と言った拍子に、両サイドのロボットの腹部の機構が発動。そして『バチーン』とすごい音を立てて、真ん中のロボをペチャンコにプレスしてしまう!
そうすると視点が逆転し、ここまでを舞台下から見ていた演出家ロボが、『ちがう ちが~う もっとキツく どつかなきゃ~』とダメ出し。それでロボットの1体は『すいません!!』と恐縮してみせ、プレスされたロボは内心で『ツライ…』とグチる。

これ自体がすでにむかしの作品にしたって、≪レッツゴー3匹≫のネタとは、ほんとうに『キツく』て『ツライ』。…という問題点はともかくも、これがみょうに筆者はおかしい気がしたのだ。なぜだろうか?
まず舞台がテーマなので、小津映画だと松竹の「お早よう」より、自分の好きな大映の「浮草」(1959)にふんいきが近い。かつ、レトロな漫才にレトロ・フューチャーな造型のロボット、という組み合わせのよさ。そして、『なぜロボットらが漫才をしているのか?』というところに何の説明もないわけだが、それもそれでよい感じ。

そうして筆者はこれについて、人類が滅亡したその後に残されたロボットらが、まったく意味も分からずに、ありし日の人類どもの営為らを、無意味に≪反復≫してるのかなあ…などと考えるのだった。
たぶんこのロボたちは≪三波春夫≫って何ものなのか、知らないで言っているだけなのでは?(オレだって、よくは知らねェ!) そーやって彼らは、おかしいとも思わないのに漫才をやり、生産もしないのに働き、喰いもしないのに何かを料理し、そして性欲もないのに性交のまねごとを遂行し…等々々々。

とまで申せば、それはすでにわれわれのことではなかろうか?…という気もしてくるのだった。われわれ自体が、かっての人類のまねをしてるだけ、かって生きていたと伝えられる人類の営為らを表面的に、薄ボンヤリと、『意味』も分からずに≪反復≫してるだけなのでは?
かつまた、映画マニアの“ナベちゃん”先生のお作が話題なだけに、ここまで映画の話題が多くなっているわけだが。そこで人類が滅んだ後も、小津やら溝口やらのフィルムが映写機にかかって、見るものもないままに人類の営為をスクリーン上で≪反復≫し続けたとして。それと現況と、いったい何の違いがあるのだろうか…などと、ペシミストの筆者は考えてしまうのだった。

そういえば自分のことだが、小津映画の「浮草」という題名がとっさに出てこず、思い出せたのは約7時間後、いちど寝て起きてからだった。ともかく自力で思い出せたので、かろうじてシャレになるって感じだが。
人類の行く末などは知らず、それ以前にオレ自身の存在が、レトロ・フューチャー(?)なポンコツになりつつありげ! やばし。

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