2010/10/11

喜国雅彦+国樹由香「この花はわたしです。」 - 君の名は? そして、君の欲望は?

喜国+国樹「この花はわたしです。」第1巻 
参考リンク:Wikipedia「喜国雅彦」

今作こと「この花はわたしです。」は、変態ギャグの旗手として名をはせた喜国雅彦先生が、国樹由香先生との合作で描かれた変態ギャグまんが。2000年からサンデーGXに掲載、単行本は全3巻(サンデーGXコミックス)。

で、おかしなことをいきなり申し上げるようだが。これも一種の『フェチ』なのだろうか、自分は女性らの名前というものに、何だかとくべつな興味がある。
逆に申し上げたら、『名もない女性』というものに興味がない。ところがそんな人はいないので、その点では自分は困らないけれど。
しかし、『こういう名前が好き』というのが、そんなにはふしぎとない。が、どちらかというと、今のアニメのヒロインみたいなあざとい名前は好きじゃない。むしろ『サエコ』とか『リツコ』とか、地味めだがダサすぎるほどでもない、というラインがいい感じ。

で、どうしてそんなことに興味があるのかな…って、自己分析したらこういうことかも? つまり彼女の両親が、欲望の結果に対してまたいだいた≪欲望≫が、その名前からすけて見えている。つまり、『美子』なら美人になるように、『正子』なら正しい子になるように、と。
その、『すけて見えている欲望』、というところに自分の興味があるらしいのだ。だから、その欲望が≪何≫であるかはいちおう二の次なのだ。

そういえば、現代にはないことだが、上代では女性が男性に名前を教えるということが、ひじょうに決定的だったような話がある(性的な意味で!)。だからその時代の娘らには、教えてもいいような通り名があったような話も聞こえる。かつそれらのことが、古代のニッポンに限った話ではないようだし。
よって筆者が、女性らそれぞれの名前自体に何か性的っぽい≪意味≫、さもなくば機能というかニュアンスというか、そんなものがありげと感じることも、単なる変質者のたわごとではない…ような気がするのだが!

と、そんなことを見てから、「この花はわたしです。」の話に戻ると。
まず、今作にはひとつの定まったしかけがあり、それが全編のお話を成り立たせている。

 【1】 花にはそれぞれ、『花言葉』という≪意味≫がある。
 【2】 花の名前を名前として、親から与えられた女の子たちがいる。
 【3】 するとその子たちは、その花の花言葉を体現するものとして生きる。

第2項までは単なる事実で、第3項の『体現する』というところに飛躍があるわけだが。どういうことか、第1話『すみれの場合』を作例として見よう。するとすみれの花言葉が『無邪気な愛』なので、作中の≪すみれちゃん≫が、それを体現してたいへんにむじゃきな女の子なのだった。
むじゃきというより、チャイルディッシュ(ガキっぽい)ということばのほうが、作例を見ていると思い浮かぶ。だからその彼氏が欲望している男女的なイベントが、まったく発生しない。

そこで彼氏は、作中の花言葉ハカセである≪花咲くん≫の助言を受けて、むじゃきという彼女の特徴をついていく。そこで子どものように『お医者さんゴッコしない?』…と申し出ると、すかさず彼女が喰いついてくれる!(第1巻, p.10)
で、そこからコミカルでエッチなイベントがいくつかあった上で。とつぜんすみれが自分の体について、『痛い、痛いです!』などと言い出す。それをゴッコのお芝居かと思っていたら、ほんとうに彼女は救急車で搬送されていく! そしてその何らかの病気の療養のため、どこかの田舎で暮らすことに。

追って後日、彼氏は再び花咲くんの講釈を聞くのだ。『そういえばすみれには、もうひとつの花言葉もあった。いわく、“イナカの幸福”』。
だからすみれは、もはやイナカから戻ってくることはないだろう…という見込みが示されて、このエピソードは『完』。こんなお話らが全3巻、みっちりと描かれているのだ。続いた作例からもいくつか、紹介しやすいところをご紹介しとけば。

◇くるみ◇ 花言葉は、『謀略』。彼女のいる男子を誘惑しようとして、いろいろにエッチな謀略をこらす。
◇ せり ◇ 花言葉は、『貧しくても高潔』。心は高潔だが貧しすぎて、その制服のあちこちに穴が開き気味。そこで意図しないのに、エッチな気持ちを周りに発生させる。
◇ぼたん◇ 花言葉は、『恥じらい』。彼氏との初エッチにさいし、あまりにも恥じらいすぎて、逆におかしな変態プレイに及ぶハメに。

…いやその、言ってみれば花言葉という要素は、「この花はわたしです。」のお話らについて、いわば口実として機能しているので。何だかんだでいつもの変態ギャグに突入するための、とっかかりにすぎぬ…と言えば、まあそうなのでもあり。
で、この作品が、読んで1回は笑えるのだが。いわば、ちゃんとした商品ではあるのだが…(つても筆者は、キクニ大先生のご本はブックオフ105円でしか買わぬ主義)。

けれども読み返すと、『よくもま』…という苦笑しかないのは、それがいまいち≪真理≫にかすっていないからだろうか? 名前のふしぎを描くことを、『花言葉』という思いつきだけによって押し切りすぎ、そこに込められた≪欲望≫という次元をシカトしすぎ、かつまた≪固有名≫というもののかけがえなさをも無視しすぎ、だからだろうか?
けれども筆者は、花のことなど知らないがきらいではないだけに、花と女の子との匂い立つような(?)組み合わせを描いた今作もまた、たまに思い出す程度には、きらいじゃない。よって、この記事がある。

佐藤まさき「超無気力戦隊ジャパファイブ」第1巻そういえば、キクニ大先生を追ってヤングサンデーに登場した佐藤まさき先生、その「超無気力戦隊ジャパファイブ」(2005)には、確かこんなエピソードが…(超ウロ憶えだけど!)。
主人公の恋がたきのイヤなヤツが、海外土産にと、ヒロインに現地のエキゾチックな花を渡す。するとヒロインが喜ぶので、ヒーローは面白くない。
そこで思いあまって、こんなことを言ってしまうのだった。『ようするに花なんか、人体の部位でいったら≪性器≫じゃないか!』…と。

その発言の≪言表内容≫は正しいが、しかし、その場でそれを言うという≪言表行為≫が、あまりにも正しくない。知っていたって、“誰も”が言わないことがある(外傷的な認識)。このことを「ジャパファイブ」のヒーローは、追ってイヤというほど思い知るのだ。

そして、それが大失言ということは別にして、ここで話がつながっている。

 【オレの告白】 女性の名前に、何か性的『意味』がある気もする。
 【上代のむかし話】 女性の名前は、恥部に等しい記号である。
 【キクニ+国樹】 花の名前は、花言葉で機能する。
 【ジャパファイブ】 花は、性器である。

だからいっそのこと、すべての名前は性器である、とも言える。かつ、すべての名前は、『姓』という茎の上に咲いた花『である』。
さらにそういうことを考えていると、『顔』と『性器』の記号作用があんまし変わらないではないか、という気までしてくる。それは『顔-人体』に対する『花-茎』の位置関係の等しさを見た上で、『花は性器である』を適用すればそうなる。

と、こうして≪何か≫が明らかになってきそうなところで、キクニ+国樹のテーゼだけ、しょうもない作りごとなのだった。それは『名前-と-花』というところを結びつけているところだけ創造性があり、『花言葉』という要素に何の意味もない。いや、ここでの話の展開上。

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