2010/10/08

亜太川ふみひろ「フルパワーMONKEY」 - 牛を殺し、角を矯める

亜太川ふみひろ「フルパワーMONKEY」第1巻 
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前記事(*)のフォローアップでイカしばし、公式略称「フルモン」こと「フルパワーMONKEY」の話でもしようじゃなイカ?

さてオムニバス作品の「フルモン」だが、それを代表するキャラクターは一般的に、≪インパラ君≫だと言われている。何せ全7巻すべてのカバーに出ているのは彼だけなので、文句なくそうかと思っておいて(…ただし、第3巻での出番は表4の位置)。
で、そのインパラ君とは、どういうキャラクターなのか? 第1巻の口絵にその紹介が出ているので、それを引用しておくと。

 ――― 登場人物紹介 ≪インパラ君≫ (第1巻, p.2) ―――
偶蹄目ウシ科に属し、アフリカの中部から南部にかけて分布しています。すぐれたジャンプ力と雄だけに見られる立派なつのが自慢ですが、肉食獣のえさになるために生まれてきたようなものだともいわれています。また、要領が悪いので、悪意はないのに無闇に自慢のつので他の動物を傷つけてしまう癖があるようです。

…『人物紹介』というふれこみの文章なのに、動物図鑑の説明みたいなことが書かれている。そしてその後半の話が、どこまで(一般的な)ほんとうかは分からない。
そしてこの紹介文の上に描かれたインパラ君は、さっそく肉食獣のエサになってしまったらしく、地面の上に横たわり、頭だけ残してさっぱりとがい骨になっている(!)。そしてぜんぜん何の意味もなく、その2本の角だけが、みょうにりっぱに中空へと向かってそそり立っているのだった。

で、偶蹄目という説明を聞いた後だと、そのインパラ君の手先の骨格がおかしいようだが、まあそれはいい。そもそもインパラ君のふだんの絵姿が、手先は人間と同様の5本指になっているので。
にしても主人公っぽいキャラクターが、いきなり口絵で喰い殺されている。これが「フルモン」という作品だ。以後もまったくその登場人物らには、ろくなことが起こりはしない。この特徴を、またちょっと『カフカ的』とも見ておいて。

では、そのインパラ君が『活躍』する最初期のエピソードでもご紹介してみよう。

【1】 学校の教室にて、学生のインパラ君。『起立!』でイスから立ち上がり、『礼!』で頭を下げたら、机の天板に角が『ズボ』とささってしまう。そして『着席!』で、ささった机が持ち上がり、その勢いで首ごと後ろへもっていかれて『グキッ』! さいごのコマでインパラ君は、首にぎちぎちとホータイを巻かれて病院のベッドの上(第1巻, p.4)。
【2】 バレーボールの試合中のインパラ君。敵のアタックをレシーブすべく跳んだら、反対側から跳んできたネコ君の頭に角がグサッ! それで手錠をかけられ、パトカーでしょっぴかれてしまう(同, p.9)。
【3】 その続き、取り調べ室のインパラ君。犬の刑事に『殺意が あったんだろ!!』ときびしく責められて、思わずインパラ君は、『殺意なんか ない!!』と叫んでバッと立ち上がる。するとその拍子に、彼の角が刑事の頭に突きささって『サックリ』! …それで、あわれインパラ君は、しましまの囚人服を着せられてろうやへ(同)。

…筆者の紹介がド下手くそなせいで(ただいま自分のテンションが低いし)、『ギャグまんがですよ~』というふんいきにならないっ!? ただし、じっさい「フルモン」はこういう作品なのだ、とも言いたくはある。
かつ、これらのことは、筆者が前の「フルモン」記事(*)で述べた、≪自爆≫の一大モチーフにかかわるものでもありつつ。

と、見たようにインパラ君の立派な2本の角は、ただ役に立たないどころの騒ぎではない。まったくもって、有害な出っ張りとしか言いようがない! だがしかし、その角があってこその『彼』なのだ。もしも彼からその角を取ったら、『キツネくん?』…とも言いがたい、何だかわからぬ生物になってしまう。
そして、これらのお話に『笑い』という反応を返す人々もまた、誰もがそのような≪角≫をそなえているのだ。それには何の実用性もないどころか、むしろ有害で自他を傷つけるようなものなのだが、しかしそれなくしては自分が自分でなくなってしまう、そのような≪角≫を。

ことわざの一種に、『角を矯(た)めて牛を殺す』と言う。これは『ささいな欠点を修正しようとして、全体をダメにしてしまう』という意味だそうだが、まったくよく言ったもので!
そのように、いまだ死んでいないわれわれ“誰も”は、さっき述べたような≪角≫、へんな角、役に立たない角を、修正もできないままにキープしつつ、何とか生きている。しかもこのおかしな角の、破壊力だけはムダにふしぎと十二分なのだ。
そして『虎は死んで皮を残す』というのもことわざだが、われらの代表であるインパラ君もまた、死んだら立派な角を残す。で、そのことに何の≪意味≫があるのだろうか?

そうして自分がこの堕文を書いていることがまた、とうぜんその≪角≫のようなもののなせることだ。これには人さまを傷つけるほどの鋭さはなさそうだが、しかし自分にとっては役に立たず、むしろ自分に対して有害かも知れず、しかもこれなしでは自分が自分でない。
そして自分がもしあした死んでも、この堕文がしばらくは人前っぽい場所に残ることだろう。で、それが≪何≫なのか?

…あ~あ、いくら堕文でも、ギャグまんがという面白系のお題がある以上、あんまりウツなことは書かないつもりでいたのに! すんませんでしたー!
そしてこのような、くだらなさもきわまったまんがの中に≪自分≫をうっかり見出してしまい、われわれはそのおののきを、『笑い』という肉体の反応によって吐き出す。そのときわれわれの前に、≪ギャグまんが≫というものが現前しているのだ。

そのように、筆者が申し上げているところの≪ギャグまんが≫とは、ものとしてそこに『在る』、というものではない。われわれがそれへと笑い(外傷的でけいれん的な笑い)を返すときにだけ『それ』は現前し、笑いやんだときにはもう消え失せている。しんきろうでなければ悪夢のようなものとして、それは機能だけして消える。

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