2010/02/26

内崎まさとし「らんぽう」 - よるべなきものたちへ

 
参考リンク:Wikipedia「らんぽう」

少年チャンピオン掲載のハイパーなドタバタギャグまんが。この作品「らんぽう」が出ていた時期(1978-87)はちょうど、パンク、ニューウェイブ、ディスコ、スカ、テクノポップ、インダストリアル、ニューロマンティクス、ヒップホップ、ハイエナジー(ユーロビート)、ゴシックロック、ネオアコ、ついでに『おマンチェ』(マンチェスターポップ)…といった≪ポップ≫の歴史を飾ることばたちが、あまりにもまぶしく輝いていた時代ではあった。
で、その掲載が終わった1987年がアシッドハウスの誕生年だったということも、また何かちょっと意味ありげだ。それまでの“すべて”の眺めを変えてしまった、アシッドハウスという≪ポップ≫の新登場。その大刷新の発生をきっかけとして(?)「らんぽう」が引っ込んでしまったことに、何かすばらしいいさぎよさを感じてよいような気もしつつ。

ではありながら、なぜいまというときに「らんぽう」の話かというと? 別に大した理由ではないのだが、いろいろとこっち側の理由はあるのだ。

まず。先週の週末に筆者は、親族内の法事というヤボ用に出かけた。そこで筆者が注目したのは、いとこ夫婦の次男坊の2歳の男の子だ。それこそまさしく≪オイディプス以前≫のジェネレーションなので、『何か』をやってくれそう…と思い、自分はその行動に注意していた。
するとその子がすかさず、控えの部屋の床の間にズカズカと上がっていって、そこの飾りの掛け軸をグイグイと引っ張ってくれた(!)。それを見てあわてるその母親と、叱られてキョトンとする子どもと、そしてさわやかに笑いころげるわれわれ傍観者。『こういうところにも“ギャグまんが”の原点みたいのはあるなあ』と、そこで筆者は考えるのだった。

そしてそこで思い出したのが、楳図かずお「まことちゃん」(1976)、今作こと内崎まさとし「らんぽう」(1978)、そして鳥山明「Dr.スランプ」(1980)といった、あまりにも元気ありすぎなキッズの大暴れを描く作品たちなのだった。で、それらの中でも自分がいちばん好きだったのが、今作「らんぽう」なのだった。むしろ「らんぽう」を先に見ていなかったら、「Dr.スランプ」を愉しむことはできなかっただろう…と感じる。

かつ、近ごろこのブログに米沢嘉博「戦後ギャグマンガ史」(1981)という書名をよく見るが。その本の記述が当時の最新の≪ギャグまんが≫の、「うる星やつら」、「らんぽう」、「Dr.スランプ」…というあたりで終わっている。で、わりと筆者が意外に感じたのは、そこで「らんぽう」の評価が意外に高いということだ。
…あ、いま確認してみたら、そんなには「らんぽう」をほめてなかった(ちくま文庫版, p.257)。ストレートに『幼稚!』とは言ってない、それだけ(!?)な感じだ。
にしてもいままで、筆者が「らんぽう」を好きだと告白すると、必ずや『幼稚!』と大断言されてきたもので。そうとまで直接は言っていないだけ、「戦後ギャグマンガ史」の記述を光るものと感じた、そんなことだったかも知れない。

では、ここらで作品「らんぽう」のあらましをご紹介しておこうかと。さいしょはふつうの中学生、というより目立った秀才くんだった主人公は、UFOにアブダクションされてから、どんぐりまなこに黄色い髪に赤い道着がトレードマークのスーパー野生児≪らんぽうクン≫になってしまう。
そして担任の≪角丸先生≫のアパートに上がりこんで帰らないので、迷惑に感じた先生がクラス名簿で彼の住所を確認すると、何とそれが先生の部屋になっている(!)。そうしてそこに居ついてしまったらんぽうクンが、天才ネズミの≪チュー太郎≫を子分として暴れまくる姿が描かれる。どうもこのチュー太郎クンについては、変身前のらんぽうクンが持っていた知性を受け継いだもの、という感じがある。
かつ作品の進行につれて、番長のカラ太郎(顔がカラスにそっくり)、近所のネコ軍団、マッドサイエンティストのDr.補佐望(ほさもち)、などなどがにぎやかにお話に参加してくる。そうしてわれらのらんぽうクンを一貫して見守っているのは、お話の最初からそれとなくいい仲のクラスメイト兼ヒロイン≪むつみたん≫だ。

むしろ今作はむつみのモノローグから始まっているので、その“すべて”を彼女が見たこと、とも読める。まっとうきわまるヒロインが、なぜか異常きわまるヒーローを温かく見守っている。
追って出たゆうきまさみ「究極超人あ~る」(1985)もそうだが、ついでにマイナーな作品だと吾妻ひでお「チョッキン」(1977)もやや近いが、こうした作品構造には注意していていい。われわれ読者は、その心やさしきヒロインをフィルターにして作品世界を見ている。
先だった「おそ松くん」や「オバケのQ太郎」、そして「ハレンチ学園」や「がきデカ」らにもヒロインっぽい女の子らが登場するけれど、それらに対して異なるものがあることは明らかだ。やや近いのは≪バカボンのママ≫というキャラクターの存在かも知れないが、しかし妻とか母親とかいうポジションになっていては、またちょっと違う感じ。

ところで筆者が「らんぽう」という作品で、いちばん共感をもって見ていたのは、ノラ犬の≪ヒマ犬≫と呼ばれるキャラクターなのだった。何せノラ犬なんて必ずヒマなものだろうと思えるが(そうかな?)、ともかく彼は、たいてい『ヒマじゃ~』と言いながら登場していた。
で、そのヒマ犬くんが主人公をつとめた1編が、ひじょうに心に残っているのだ。しかし本が手元にまったく残ってないので(持ってたのだが)、ぞんぶんに記憶『だけ』にたよってそれをご紹介すれば…。

ノラ犬といえども喰っていかねばならないとして、われらのヒマ犬くんは干してある洗たくもののパンティか何かを盗み、それをどこかの童貞っぽい少年に売りつけてお金にする。当時は『ブルセラショップ』なんてものはなかったはずだが、言わばそれを不法に先取りしたビジネスを展開する。
ところがそれを『刑事らんぽう』に摘発されて(そのお話に限り、らんぽうクンが刑事役をつとめている)、あわれヒマ犬くんは更正を誓ってやっと牢屋を出ることができる。しかし、われらのヒマ犬くんは吠える。そうとは言っても、ノラ犬にどういう『やるべきこと』があるのかと! さもなくば、どんな因果で人間どもにシッポをふって、飼いならされなければならないのかと!
悩んだ末に、彼はある家の飼い犬になる。そこのお坊ちゃんのおもちゃになって、エサをもらって犬小屋におさまって、『悪くもねェな』といったんは思ったが。しかし彼はその夜、『野生の血が騒ぐんでやんす』…とつぶやきながら、自分をつないだロープを喰いちぎる。
そうして夜の町に、『どろぼうよー!』という女性の悲鳴が響く。そこでらんぽう刑事が『またヒマ犬がやりやがったか!』と叫んで現場に急行すると、そこではわれらのヒマ犬くんが、別の人間の下着ドロボーをとり押さえているのだった。
というわけで、びみょうには更正できたようなヒマ犬くんだったが。しかしけっきょくのところ、ノラ犬という存在の生きにくさはまったく変わらない…のようなつぶやきで、お話は終わっているのだった。

どういうわけだか、いま思い出してもまったくもって、『これは自分のことだなあ』…と感じないではいられない。いや、筆者は下着ドロボーをやったことはないけれど!
通じているのは、このくそくだらない社会を心そこ軽蔑しながら、そのどん底で細々と生きているばかり、というところでか。そしてヒマ犬くんと同様に、自分もある種の『野生のキバ』を持っているような気がしつつ、だがそれは役に立たず使うことの許されないものなのだった。

ところでこのエピソードについては、付随する想い出話があって。才能もないのに筆者がパンクバンドをやっていたころ、たぶん練習スタジオの帰りか何かの機会、バンド仲間およびその友人らと、池袋の喫茶店でおしゃべりしていたときに。
どういうわけだか自分は上記のエピソードをとうとうと語り、そして『われらのヒマ犬くんは、ランボーでありムルソー(カミュ「異邦人」のヒーロー)なんだヨ!』くらいなことを、つい力説してしまったのだった。超・しまったッ!
いま思い出しても、そのときの人々の真っ白けな反応には身が縮む。しかもいま現在、この場においても『まったく同じこと』をやらかしているわけで…! 何せ筆者には、『人が聞きたがるようなことを話す』という能力が、ゼロ以下にしかない。えへん!

ああ…。かくて筆者とヒマ犬くんには永遠に、この世には身の置きどころがない。そして≪われわれ≫のごときノラ犬らのことを描いてくれた「らんぽう」という作品、それに対する想いが消えることも、たぶんまたないだろう。

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