2010/02/17

野中英次「魁!! クロマティ高校」 - 『コワい顔』と笑いの関係・試論

 
参考リンク:Wikipedia「魁!! クロマティ高校」

略称「クロ高」こと今作は、万人が知っている大ヒット作なはずだが(KC少年マガジン, 全17巻)、意外と語りにくいものがある。どういうところで笑いをとってる作品かと考えれば、『コワい顔』という要素が見逃せない。

ばくぜんと見ていれば、今作の画面はバイオレンス劇画そのものかのようであり、そこに不良たちの『コワい顔』が、しこたま描かれている。で、その方々が落語チックなこっけいを演ずるにしろ、≪不条理≫なるものに直面して当惑するにしろ、われわれがそれを笑えるのは、『コワい顔』という要素とそれらとの対比効果による(…のでは?)。

その典型的な場面…といえそうなものを捜すのが意外にたいへんだったが、たとえば第3巻のp.30の2コマ目。おでこに青スジ立てたド不良5人サマの顔が描かれているのだが。
そこだけを見たなら、単なるコワい不良劇画の1コマだ。けれどもそれは、『日本番長選手権』の第1回戦が○×クイズだと聞いて(!)、かれらが当惑している姿を描いたものなのだった。

≪ギャグまんが≫を語っているわれわれにとって、ギャグっぽい絵で描かれたとしたら、ちっとも面白くない(=劇画っぽく描かれてるので笑える)、そんな作品があることはややふしぎだが、しかしこれがそうなのだ。で、そもそも『コワぃ顔』を見てヒトが笑う、ということ自体がふしぎかのようだが…。
しかし筆者の臆見によれば、もともとの性格として、『コワい顔』には、人の笑いを引き出す要素がある。

じっさいにわれわれのようなよい子たちや善良な市民らが、不良・ヤクザ・チンピラのような方々に囲まれたりカラまれたりしてるさい、その顔がふかしぎなニヤつきを示す…というコトがある。またはその反対っぽい例で、教師や上司らのお説教を喰らってるときにも、そのような笑いが出る。それが連中の気にさわるのだが、むろんわれわれはそんな時に、笑おうと思って笑っているのではない。

この笑いを分析することはむずかしいが、ひとまず次のように見れるのでは? 目の前の危機を過小評価(もしくは無視)したいという≪無意識≫の願望の効果により、意図せずして顔の筋肉がゆるむのだ、と。われわれの申す≪快感原則≫やら何やらの主張により、人は過度の緊張に長時間は耐ええないからだ。
つまり、交通事故のようなとっさの危機に直面したとき、人の顔はおそらくユルんでいないはずだが。しかし、E.A.ポー「陥穽と振り子」に描かれた振り子式死刑台のようなジワジワと迫ってくる危機やキョーフにさらされたとき、しまいには意外と人の顔はユルんでしまうのでは?…と見るのだ。
で、その笑いは、状況に対して主体が肉体的には屈服しているが、しかし精神的には屈服していない…ということをいったんは示しつつ。つまり内心の虚勢が、ついつい顔に出ちゃっているものでありつつ。

そういえばギャグに限らずまんが作品には、あんまりな恐怖やショックに直面した人が逆にゲハゲハと笑い出し、それきり≪狂気≫におちいってしまう…という場面がよくある。ほんとうにそんな症例があるのか、ということは知らないが、にしてもわれわれはその描写に、あるていどの説得力を感じている。
つまり過度の連続した緊張に耐ええない精神が、目の前のキョーフを過小評価(または無視)するための笑い、というものがあったとして。そしてその機制が固定されてしまえば、その主体には≪現実吟味≫が不可能となる(≪現実原則≫の停止)。気の毒なことだが、≪快感原則≫が暴走したような状態になる。そうした状態を1つの≪狂気≫としてありうるものと、われわれは考えているのだ。
(ご説明。快感原則、または快楽原則と呼ばれるフロイトの概念は、できるかぎり安楽平静でいたい、という心の傾向をさす。その一方のエキサイティングなお愉しみについて、精神分析は、≪快楽 pleasure≫ではなく≪享楽 enjoyment≫という用語をあてている)

で、ここにおいて、むかしから言われる『恐怖-と-笑い』の親近性の理由が、1つ説明されている。ボードレールの引用した格言に『<賢者>はおののきながらでなければ笑わない』と言うが、賢者ならざる常人においては、『≪おののき≫を笑いにすり換える』という機制が一般的にあるわけだ。
それは危機的状況に対して主体が、勝っているのか負けているのか、その判断を自主的にぼやかす機制に他ならない。このような笑いのきわまったところに、1つの≪狂気≫が生じる。
客観的には状況に対して屈服している人間が、心の中では『たかがこんなこと』…と考え(たがっ)ている。『目の前の危機を(だんこ、意地でも)過小評価し、または無視し続ける』という場面で発現してるものは、人の強さなのか弱さなのか…ということが分からない。かつ問題になっている主体においては、それをやりたくないからこそ≪現実吟味≫がなされない、ということをきっぱり見ておこう。
ただはっきりしていることは、どのようなところから出たものであっても『笑い(=緊張のゆるみ)』は、主体に対してびみょうにも快感をもたらす。この事実だ。

あまり関係ないようなことも言い出せば、19世紀前半のイタリアロマン派オペラには、『ヒロインの狂乱場面をウリにする』という趣向があった。どういうものかというと、演劇の例だがシェイクスピア「ハムレット」の≪オフェーリア≫の錯乱…あんなような場面が大の魅せ場だったのだ。
で、だいたいのところその≪狂乱のヒロイン≫たちは(オフェーリアと同様)、幼児的になりながらエッチっぽいことを口走る。
それを見て当時もいまも、オペラ劇場の観客たちは、薄倖のヒロインへの無償の同情と、プラス性的な興奮を同時にエンジョイするのだ。かつまた追っての19世紀末、仏の精神科医シャルコーがヒステリーの女性たちを魅せものにして社会的な評判を呼んだのは、それとりっぱにシンクロしていることだ。

で、そのようなわれらの≪狂乱のヒロイン≫たちは、単なるおバカさんになっているのでは、決してない! そこでは≪現実吟味≫の放棄(狂気)が、主体における決定的な≪外傷≫の発生現場へと、主体を永遠(とわ)に縛りつけている。この女性たちの場合には、幼時と近時のエッチな事件らがそこに現前し続け、そして見る者はそこにきざす≪真理≫をおぼろにも感じ、それへと心を撃たれるのだ。

また、それこれと考えていれば、緊張のあるべき場面で笑っているということは、部分的にもその緊張を解いてるということで。そしておなじみ「ジョジョの奇妙な冒険」を見ていると、一般に悪役らの方が妙に上きげんでケンカの最中によく笑い、そして負ける。
悪者らがヘラヘラしているのは、よゆうを見せて精神的優位に立つためのパフォーマンスでもありつつ。しかし結果はいつも、闘いに対してシリアスにのぞんでる善玉らが勝つ。

これはいままでのことを、逆に見ているのだ。むげなる『楽勝』の確信が、実は意外と精神的な逃避に他ならない(…緊張からの逃避, ≪快感原則≫の暴走)。そして勝利の結果として得られるべき『笑い=緊張のゆるみ=快感』を、独りがってに先取りしちゃった者は、逆に敗北に近づく。
すると、どうりでだ…。常に目の前の状況らを≪ギャグまんが≫の一片としか想えぬ筆者が社会を嘲笑しつつ、社会のりっぱな負け犬になり下がっていることが。なんて、だんだんと話が「クロ高」とは関係なさすぎてきたが。

ところで、ギャグまんがに対しての『劇画の画風』の導入ということについては、米沢嘉博氏の大名著「戦後ギャグマンガ史」(1982)にも指摘がある。そのお説によると、それをさいしょにやったのが「がきデカ」という作品の、わりと見えざる功績らしい(…筆者の臆見によれば、それ以前に「ハレンチ学園」の貢献が、死ぬほど見逃せない。しかし米沢氏の論調は「ハレンチ学園」に対し、ふしぎと全般的に否定的)。

そこで考えたら。さっき「ジョジョ」の題名が出てきたが、それについて筆者はひじょうに浅い、まったくさいきんからの愛読者であることを白状しつつ。そして「ジョジョ」についての最古の想い出というと、掲載誌に第3部が載っていたころ、ジョゼフかポルナレフが敵にいっぱい喰わされているこっけいな場面を見たような?
ゆえに筆者はそれから長い間、『まさに“奇妙”な作品、ギャグなのか劇画なのか分からない』…と、「ジョジョ」について考えていた。そしてその『ギャグなのか? 劇画なのか?』という境界がかき乱されている地点で、今作「クロ高」と「ジョジョ」とが出遭い(そこね)を演じている。
だいたい劇画の中のギャグ要素なんて、劇画の中にあるから『こそ』笑えるというものだ。今作「魁!! クロマティ高校」が題名の一部を借りている「魁!! 男塾」の脇役が、ここ一番の場面で放屁をかます、あれのように。そして「クロ高」はその効果を『逆に』、ギャグまんがのサイドから活用しているのだ。

そうして今作「クロ高」は、『劇画チックなギャグまんが』というサブジャンルにおける1コの革新を達成した作である…とまでは、少なくとも言えそう。しかし筆者がそれを愛するのは、毎回のサブタイトルが、たいてい古ぅ~い洋楽ロックの曲名になっている…そんなところへの共感、とかいう理由もある。これがまた、「ジョジョ」にひかれる理由の1つと同じだ。

筆者にはよく分からないことだが、「ジョジョ」シリーズの愛読者さま方は、≪クレイジー・ダイヤモンド≫や≪エコーズ≫が、もとはピンク・フロイドだということをご存じなのだろうか? かと思うと今作「クロ高」にも『Final Cut』とか『Show Must Go On』などという題名のエピソードがあり、この21世紀の初頭にピンク・フロイドはどうなのかと、筆者は遠~くに想いをはせるのだった。
まあ、われわれはギャグまんがを通じて≪狂気≫というものを考察しているので、そこでどうしてもフロイドの話が出そうな気もしつつ(…ピンク・フロイドの代表作"Dark Side of the Moon"の邦題が、「狂気」)。

かつ、「クロ高」のさいごのエピソードのサブタイトルが『The End』なのだが。いわば、『そのまんま』なのだが。しかしその内容とザ・ドアーズの唄との関係がなさすぎで、それこそりっぱな≪ギャグ≫だ、と考えざるをえない。
というところではっきり申せば、今シリーズ「クロ高」のさいごの方はけっこう低調だと思っていたが、しかしそこでぴたりと帳尻が合ったかも…という感じを受けたのだった。

【付記】 以上の堕文もまた、2009年の夏に書いていたものの再利用。しかしどういうわけなのか、このブログの記事には、ザ・ドアーズの名曲「ジ・エンド」、というネタが出すぎている。もちろん、わざとではないはずだがっ。

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