2010/02/14

大西巷一「女禍 JOKER」 - 「三国志」関係のまんが その4

 
参考リンク:Wikipedia「大西巷一」

題名中の『禍』という字は、ほんとうは『女』偏。それは何のことかというと、中国の建国神話に登場する、女面蛇身の神の名前。
そしてその『女禍(じょか)』と書いてジョーカーと読ませる、このセンスがいい。だじゃれ! 何せ筆者は、仏語の『ノン・ド・ペール(父の名)』を『父による“否(ノン)”』と解釈させるだじゃれの帝王(ラカン)を、心の師匠にあおいでいる関係上。

そんなことはともかく、今作(全4巻, KCアフタヌーン)が三国志のどこらへんを描いているか、というところから見ておくと。まずプロローグには曹操による徐州大虐殺と、それによって幼き孔明とその一家が亡命するところが描かれている。これが193年(以下すべて西暦)のイベントかと思われる。
今作の主人公たる孔明(181-234)はそのとき12歳だったはずだが、それらは調べて補っている。そしてたいへん大まかに見てしまうと、その次はもう『三顧の礼』(207)というお話になる。それで、第1巻・完。
その次のエピソードは、曹操軍の『八門金鎖の陣』を徐庶の指揮する劉備軍が撃破した『新野城外戦』(207)。これが第3巻の終盤までみっちりと描かれて、全編の中盤のピークになっている。ただしこの新野城外戦について、主人公はその場にはいない。
そうしてさいごの第4巻は、今作独自のエピソードかと思うのだが、何と孔明が単身で許都に潜入し(208)、曹操の暗殺をはかる(!)。都の知識人No.1で孔子の子孫の孔融が、このさいにあっさり孔明の手下として使われ、そして死んだというお話になっている(一般には孔融は、曹操への悪口がすぎたので処刑されたとされる。208年の没は、通説どおり)。
だが曹操の暗殺に失敗して、孔明は再び劉備のもとへ戻る。そうして『長坂の戦い』(208)が始まろうかというところで、全編が終わっている。

かくて。一般的な三国志物語では、『新野城外戦』→徐庶が劉備軍を離脱・後任に孔明を推薦→『三顧の礼』、というお話の流れになっているが、今作ではその一部が入れ替わっている。…と、今作を読み直しながら上記数行ばかりのことを確認していたら、あっという間に半日近くが経ってしまっていたのにびっくり(!)。
だめなところは、筆者が「三国志」のお話を、あまり把握していないことだ。似たようなイベントが多すぎる、と言いたいような気もする。しかも、史書と『演義』で細部が異なっているわけだし。冒頭の曹操による徐州攻撃も200年のそれかと、さいしょはとり違えていたし。
かつ、今作「JOKER」の描き方も複雑で情報量がひじょうに大、そして独自要素ありまくりなので、ほんの短いお話とも言えるのに、『どういうことが描かれているか』を把握するのがたいへんだった。これを書くために今作を再読したわけだが、初読の時点では『じっさいのところ、誰と誰が戦っているのか?』を、よく分かっていなかった気がする。

で、分かったつもりになったところで、説明しなおせば…。

プロローグの徐州からの脱出の場面にて、孔明少年は凄惨な虐殺現場に生き残りの少女を見つける。ショックのせいなのか名前も思い出せない少女を彼は≪恚(けい)≫と名づけ、彼らはきょうだい同然に仲むつまじく育つ。
ところがこの恚という少女が実はただものではなくて、その素性は、徐州に存在する中国有数の霊峰・泰山の秘密の村が育てた、『生ける呪術兵器』なのだった。言い換えて、妖怪や邪神や幽鬼の群れを背負った爆弾みたいなしろものなのだった。
≪ホウ統≫(ホウの字は广+龍)からそれを知らされた孔明は、彼女が大きな禍いのもとになるかとみて恚を殺そうとするが、しかし果たせない。そして臥龍庵にひきこもり、学問を積んでこの問題を解決しようとし、かつ恚との結婚の予定も立てる。しかし孔明は恚の放っている妖気か何かに当てられて衰弱し、やがて死んでしまう(!)。

ところが恚は孔明の死を信じず、錯乱しながらその死体を見守りつつ、ものすごい妖気を発する。それで他の兄弟たちもほとんど死んでしまった後、恚は冥府まで孔明を迎えに行くが、彼の霊を連れて帰ることはできない。その代わりに恚は、『自分が孔明なのだと思い込んでいる自分』を連れて、現世に戻ってくる。
というところへ『三顧の礼』のイベントの3度目が発生して、劉備らがその場を訪れる。そうすると恚は臥龍庵に火を放って『孔明である自分が恚を火葬した』と考えながら、顔いっぱいに『非』の字の呪的なペイントをほどこし古代的な衣装をまとって、劉備の前に現れる。そして『私が諸葛亮孔明です、私を軍師に使いなさい』と、劉備に告げるのだった。
ここで劉備らは、恚であるところの者が孔明を名乗っていることを理解しているので、彼女に対して引き気味の態度をとっている(もっともだ!)。ところがそこへ、新野城に曹操軍が迫っているの知らせが届く。そこでいちおう再会を約しつつ、劉備らはそそくさとそこを去る。
そうするとその場にホウ統はじめ、司馬徽(水鏡)の一門が現れる。孔明と徐庶もかっては水鏡門下生だったが、この時点までには離れているという設定。そうして彼らは儒者のつとめとして、危険きわまる呪力を持つ恚を『禁ずる』と言い放ち、彼女に襲いかかるのだった…!(第1巻・完)

とはもう、まったくものすごい『三国志物語』があったものだ! もはや明らかなことだが今作は、三国志の戦乱を『呪術の戦争』として再解釈しているのだった。もともと三国志には呪術・仙術の要素がなくないが、今作は三国志の知性派キャラクターのほとんどを呪術師と設定し直し、その活躍と暗躍を描いているのだった。
そして人間らが行使する呪術の背後には、制御しきれぬ≪神々≫の意思が存在するのだった。さいしょはよく分からないのだが、これまた呪術師である荀彧と曹操とのコンビは、ただ単に呪力を使って中国の制覇をもくろんでいるのではない。それをやった上で古代的な邪神らいっさいを封じ込めて、そうして中国に新しいクリーンな神秘的秩序を築こうとしているのだった。
ところが孔明になりすました恚は、どちらかといえばその『古代的な邪神ら』の側に立つものとして、曹操らと闘うのだ。彼女は題名に言われた創世神≪女禍≫の生まれ変わりであり、そしてその意思するところは、かって始源に世界そのものを生み出した闘いを、『祭り=祀り』として反復することなのだ。そしてその『再現としての闘い』が、『JOKER』でもあるところの神々の戯れが、つまりこの世を引き続く戦乱にみちびくのだが!

というわけで今作は、何しろものすごい作品ではある。構想力と情報量において、明らかにずばぬけている。かつ、『三国志』、『呪術・妖怪・邪神』、そして『神秘的なヒロイン像』と、こんにちのまんが作品としてうけそうな要素らをそなえたものでもありつつ。

だがしかし、今作「女禍 JOKER」がたったの全4巻で終わっているのは、予定通りの展開ではなかったようだ。『もっと続けたかったのですが』と、第4巻カバー袖の『作者のことば』にも書いてある。そういえば第3巻の巻末あたりで初登場の陸遜、褐色の肌の美青年として描かれた彼も呪術師なのだが、そこで自己紹介だけしてそれきり出てこないのがひじょうにさびしい!
疲れ気味の筆者はここでことばを選ぶこともせず、『人気不足で打ち切られたらしい』と、この現象を見て。『惜しいなあ、ひじょうにいい創作なのに!』…とは考えつつも、しかしその人気不足について、思い当たるところはある。
何しろ、筆者においても今作は、一読の印象はそんなによくはなかったのだ。『すごいのはすごいが、なぜか“引き込まれる”という感じに乏しい』というのが、そのときの感想だった。そしてどうしてそのように感じられたのか、いまは少しは分析できている。

まず主人公の孔明をかたる恚が、何を目的に行動しているかよく分からず、そしてそれが分かったとしても、ふつうの読者はその目的に共感できない…そこだ。かつ目的以前に、恚という人物があまりにも禍々しいふんいきで、『神秘的ヒロイン』というにもくせがありすぎる気味あり。
そして今作は、三国志物語の中でも徐庶や荀彧などの地味系キャラクターらを『逆に』かっこよく描いている、それはいいが。しかしその『逆に』おなじみのヒーローたちの描き方には、ひじょうに精彩が乏しい。かの諸葛孔明の本人が、まったく何もせぬ間に死んでしまう、というハイパーな描き方をその筆頭として。別にそれをよくないとも言えないが、しかしふつうの三国志ファンには、あまりよく思われない要素ではありげ。

なおまた、この物語の背景には当然のことながら、劉備と曹操の対立があるわけだが。今作においてはそのどちらが正義というわけでもなく、ひじょうに灰色の争いになっている。今作に限ったお話として、いちじ曹操はほんとうに劉備をかわいがって頼りにしていたのに離反されたので、愛憎きわまり怒り心頭…という珍しい設定になっているが、そうかといっても読者から見て、その灰色のもようが変わらない。
別に『勧善懲悪』がいいというのでもないが、そうとはしても、このお話の全般には≪善≫が乏しすぎるとは感じられる。よって、戦乱の物語の中にもちょっとは≪善≫の輝きを見たいといった、ふつうの読者の入っていけるスペースが存在しない。物語の冒頭でみずみずしい少年の孔明は、『悲惨な戦争をなくすにはどうすれば?』と考えて水鏡に弟子入りする。ところがその孔明があっさり死んでしまい、そしてその亡き後に孔明を名のった恚は、その問題意識をまったく継承しはしない。
それどころか。彼女自身が戦場に荒れ狂う憎しみと狂気の犠牲者であるにもかかわらず、恚はそのような狂気を平気で自身にまとい、そしてそれを人々にも伝染させていくのだ。『そういうこともあるな』とは思うのだが、しかしこういうお話が、広い読者層に好かれるものかどうか?

などと、欠点のような問題点のようなところを見てもみたが。そうとはしても今作「女禍 JOKER」は、数ある三国志まんがの中の、1つのめざましき達成だとは考えられる。そのすごいところをこの堕文がいくぶんかでも伝えられていたら、幸いだと存ずる。

…ところでさいごに、今作の細部で、筆者が少々気になったことを。この物語の中には、甘夫人の出産を軸として、劉備の家庭の事情がちらほらと描かれている。そしてどういうわけなのか、第2夫人の糜氏の姿が明らかに、いわゆる『ロリ』っぽい。
とくに根拠もなさそうなのに、どうして糜夫人がロリなのだろうか? まさか『萌え』とかそういう狙いでもなさそうなので、ひじょうにふしぎに感じるのだ。一方の甘夫人がふつうにアダルトなので、それと対照的な姿にしてみたばかりかも知れないが。
そしてこの部分がなぜなのか、片山まさゆき「SWEET三国志」の劉備ファミリーの描き方とシンクロしていることを、筆者は面白く思うのだった。そちらでは、劉備の正妻が芙蓉姫(吉川英治「三国志」序盤のヒロイン)で側室が貂蝉(!)だが。しかし一方の貂蝉がムチムチの美女で一方の芙蓉姫がロリ系、という組み合わせが同じで、そしてロリの方は口うるさい。
で、いずれの作品においてもひじょうに幼げな細君に叱られている劉備の姿が、『これこそいかにも劉備だなあ』と、筆者にふかしぎななっとくをさせているのだった。そして『どうしてそれが劉備らしいのか』という問題は、こうした堕文を書き続けることで、いずれ分かるのかも知れない。

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