2010/02/19

赤松健「魔法先生ネギま!」 - ≪ジャック・ラカン≫とラカンちゃま

 
参考リンク:Wikipedia「魔法先生ネギま!」
関連記事:「ネギま!」と「魔法陣グルグル」

赤松健「魔法先生ネギま!」に登場する≪ジャック・ラカン≫と、20世紀のフランスで町医者をいとなんでいたジャック・ラカン…われわれの敬愛してやまざるラカンちゃま。そして「ネギま!」の≪ラカン≫がどうして明らかに、ラカンちゃまの名前を借りているのか、という件。
という以前の記事で自分がふった話に、以下でひとつの見方を示しておく。

まず。実在したラカンちゃまと異なり、「ネギま!」作中のラカンは、やったら強くて過剰に男らしい。そこがぜんぜん異なるようでは…とまで、前の記事で見たわけだが。
しかし、実作にあたってみると。『お金が大好きそう』という特徴において、ラカンとラカンちゃまが共鳴しているような?
「ネギま!」第22巻(KC少年マガジン)収録の202話、なき父のライバルだったらしき魔法戦士の≪ラカン≫に対して、ヒーローのネギくんは亡父の話をおねだりする。するとラカンは、

 『俺の昔話はタダじゃ 聞かせられねぇぜ』

と言い、そして10分間について100万(!)、という法外そうな対価を要求しやがる。
100万『円』とは言ってないので、その単位はペソかも知れないが。しかしネギくんたちにはとても払えない金額ではあるようだ、彼らのリアクションを見ると。

これについて。さらにその先を読むと確認できるのかも知れないが、ようするにラカンは『その場では話したくない』と言っている感じだ。あたりまえだが、子どもたちからほんとうに『100万』を巻き上げようとしている感じがない。かつラカンは、『自分が話す』ということについての対価を要求している、ということを見ておこう。

一方のラカンちゃまは、まっこうからその正反対だ。彼は自分のクライアントたちから、それぞれに見合った安くない金額を、『ほんとうに』巻き上げていたが!
しかしそのことは、もちろん悪事でもないし、かといって善行でもない。彼は精神分析を、とりわけ善でも悪でもないニュートラルな実践に近づけるために、それを行っていたのだ。むろん大局的には善だろうけど、しかしその場での『慈善』にならぬよう、気を配っていたのだ。

そしてラカンちゃまはラカンとは反対に、『話を“聞く”』ということについて、対価を求めていたのであって(…精神分析の臨床とは、要するにクライアントが自由に話し、分析家は聞く、ということらしい)。
その反対に『自分が話す』ということは、彼においては無償の行為だった。彼が1953年から30年間近くも行った毎週の講義『セミネール』は、基本的には無料かつ“誰”でも聴講自由だったとか。

かつラカンちゃまに関しては、彼の『セミネール』が無料だったにしても、それを善行、ご奉仕、『サービス、サービスぅ!』、という気がまったくしない。ただ単に、話を聞いてお金をもらっている人間が、さらに話をしてお金をもらうのでは、バランスよくない…と、それだけな感じだ。むろん、『大局的には善』以外の何ものでもないが!
で。そのような『バランス』とは、どうしてそこまで配慮されるものなの?…という疑問が、ここで生じ気味かも知れない。それがひじょうに、精神分析においては重要なのだ。クライアントと分析家が『貸し借りなし』の状態が、そこでは目ざされねばならない。上下なしのニュートラルな関係がなくば、≪治療≫ができない。

話が戻って、「魔法先生ネギま!」作中のラカンにしても。おそらくは、求められたことをその場で話すのは、何かネギくんに対してよくないのでは、過剰な貸しを与えることになるのでは…という配慮があって、それを話さない方向に運んだのでは?
そしてそのことが、分析家が『慈善的な治療』を行わない理由、必ず相手のステータスに応じた対価を求める理由が、『精神分析において慈善的な≪治療≫などありえないから』、という事情にちょいと似て。

と、このように筆者は、≪ジャック・ラカン≫とラカンちゃまが、どのような地点で出遭(いそこな)っているかを見たのだった。もっとちゃんと「ネギま!」を読み込めば、さらに他のことも言えるのだろうが。けれどいかんせん、この作品が筆者にはひじょうに読みにくいのだった…!

【補足】 ラカンちゃまの臨床(面接, セッション)の実態については、次の文献を参照。そこからいろいろ書き出したいこともあったが、別に『ラカン論』じゃないので省いちゃった。
◆スチュアート・シュナイダーマン「ラカンの<死>-精神分析と死のレトリック」(原著・1983, 訳・石田浩之, 1985, 誠信書房)
◆ピエール・レー「ラカンのところで過ごした季節」(訳・小笠原晋也, 1994, 紀伊国屋書店)

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