2010/02/15

吉永裕介「ランペイジ」 - 「三国志」関係のまんが その5

 
参考リンク:Wikipedia「ランペイジ」

これは有名な話として、掲載誌『ヤングマガジンアッパーズ』の休刊により、第3巻(アッパーズKC)まで出たところで惜しくも中絶とあいなった「三国志」関連まんが。そしてその特徴としては、珍しく張飛が主人公(今作では、ひょろっとした少年)。かつ、劉備玄徳が女性でヒロイン。
まあ今作は「一騎当千」のだいぶ後に出たものなので、もはや三国志ヒーローらの誰が女性になっていようと、あまり意外性も…と言えばそれまでだが。ついでに別の作品で、逆に関羽張飛が女性になっているnini「Dragon Sister! 三國志 百花繚乱」も、今作とほぼ同時期に出たもののようだ。

で、今作「ランペイジ」のお話は、単なるへなちょこな風来坊の張飛くんが、黄巾賊に襲われていた少女を救けようとして、逆にやられてしまうところから始まる。その死にかけの張飛くんを目に留めたのは2人の神仙、死を司る≪北斗≫と生を司る≪南斗≫だった。
その2人の気まぐれで張飛くんは蘇生し、ついでに強力な神仙武器である蛇矛を手に入れる。ところがその武器がくせもので、張飛くんの意思を乗っとって、無差別の殺りくを行おうとする。だから、乗っとられないように気をつけなければならない。

また一方、そんな張飛くんが身をよせていく劉備がまた訳ありの身の上で。何と今作では劉備が女性であるばかりか、かって幼いころ黄巾のボス張角といっしょに、神仙術の修行をしていた、というお話になっている。
そしてその張角も訳ありで、彼だけの意思で黄巾らを暴れさせているわけではないらしい。謎めいた仙女≪左慈≫が、その裏で糸を引いているようなのだが。
ところで≪左慈≫って、聞いたことあるよなあ…と思って調べたら、これは仙術で曹操をさんざんこけにする方術師でしたな!(筆者は「三国志」のお話に、実はたいへんうとい) もちろん一般には、男の老人とイメージされている。

さてその仙女の左慈は、実は何か気の毒な身の上で、張角は彼女を救うために何かしていたような感じもあるのだが。しかしそこらの事情がさっぱりよく分からないまま、張角が死んで黄巾討伐が一段落したところで、さいごの第3巻が終わってしまっている。
そんな短いお話になっているので、劉備たちと曹操たちとが仲よしのまま、エンドマークが出ている…これは新しい! いや新しいと言ってはうそだが、しかしちょっと見られないものを見たな、というお得感がなくはなかった。

ところで「三国志」のお話に関しては、『なぜに劉備に、豪傑たちをも民衆をも魅きつけるふしぎな求心力があったのか?』というポイントがある。「演義」に始まるその物語群はそれぞれに、その問いへと答えているはずだ。いわく、人徳、志の高さ、血統のよさ、その逆に凡人の典型だから、等々々々。
そうして今作の場合だと、その答は、『思わず守ってあげたくなるような、気品あり志操の高き美少女だから』…とでもなるのだろうか?
いちおうすじが通ってはいるけれど、しかしストレートすぎな答では、という気がしなくはない。さらに今作の場合、劉備は『絶対魅了』と呼ばれるチャームの魔法みたいな仙術を使えることになっていて、その答え方にはほんとうにストレートなものがある。

その一方で筆者は、今作が張飛を少年の≪張飛くん≫として描いたところには、目のつけどころのよさを感じないではない。少年の視点から三国志を描くような作品では、他に山原義人「龍狼伝」シリーズがあるが、それとはまた別のテイストなのでよいと思う。かつ、ありがちかも知れないが、自分の中にとりついた魔性とも闘うヒーロー、という設定も面白いと感じた。
けれど技法面のところで、張飛くんの内部的なステータスの変化等が、いまいちわかりやすく表現されていない…といううらみも残しつつ。全巻のクライマックスの張飛くん vs.張角のチャンバラが、もうひとつ盛り上がりきっていないのは、そのことによる。

そうしてさいごに1つの小ネタをふって、この堕文は終わる。今作「ランペイジ」には、劉備軍の武将の≪簡雍≫が、おネエことばを操るデブの小男、好漢として登場する。『ほんとうはどういう人だったっけ?』…と思って調べていたら、こんな逸話を知ることができた。

『劉備が禁酒令を出した際、酒造の器具を所有しているとして告発された者がいた。簡雍が劉備と共に成都の市街を歩いていた時のことである。簡雍は若い男女を見て、劉備に向かって「これは淫行に及ぶから取り締るように…」と言った。劉備が「何故か?」と訳を尋ねると簡雍は「あの2人は淫行の道具を持っておるから」と答えた。劉備は笑い出し、酒造器具の所有者を赦す事にしたという』(Wikipedia「簡雍」より)

いいなあ、このお話…!
しかしだ。よく考えたら、それにしか役に立たない人為の酒造器具と、はずすことができない天然の『淫行の道具』とを、同断に論じるのはおかしい。へりくつだ。
ところが一瞬でもそんなへりくつをなっとくさせるのが、フロイトも称揚している≪機知 Witz≫という知性の機能なのだろう。論理ではなく、笑うことの快さが劉備の気持ちを変化させているのだ。
かつまた簡雍のおしゃべりは、飲酒のやめがたさというものを、人の性欲の根深さと、強引にもこっそりと同列にして論じている。そこがまたその一瞬の説得力に寄与している、という気もする。かくて簡雍という人の頭の働き方は、なかなかに『フロイト的』だったなあ、と筆者は感じたのだった。

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