2010/02/22

つのだじろう「新うしろの百太郎」 - またはそういう意味でのホラー

 
参考リンク:Wikipedia「うしろの百太郎」

ご存じのホラーまんがの1つの古典「うしろの百太郎」、今回はその『新』がつくシリーズについて(1975, KCスペシャル, 全6巻)。さいきんの記事の「悪魔と俺 特盛り」がいろいろと濃すぎたので、ちょっと目先を変えてみようかと。

ところがだ。しかしその作品がまた、目もくらむようにどぎついしろものと、言えば言える。
どういうところにそのどぎつさを感じるか、というと。そのKCスペシャル版の第1巻の冒頭(p.6-13)から、ちょいとご紹介すれば。

 『死後の世界は 百パーセント 確実に 存在する! 
 そう断言 している ロス教授(例の「死ぬ瞬間」の著者キューブラー・ロス) は‥‥
 (中略)蘇生にかんする 研究で たいへんな 権威なのだ!』
 『(超能力について)外国では 長年 研究を かさねた権威ある
 科学者が 百パーセント ある‥‥と 断言している!』

というわけで、日本じゃない外国では、死後の世界や超能力らの実在は、すでに常識である(!)、とみた上で。

 『(オカルトに対して)この五年‥‥ 十年のあいだに
 日本人の考え方も じつは 大きく かわってきつつ あるんだ!』

と、主人公である一太郎クンのパパが言う根拠は、1984/08/20付の読売新聞より、『八〇年代国民意識の流れ』という世論調査の集計だ。その紙面が画面に貼り込まれており、『「神秘」大好き都会っ子』などという見出しらが見えている。
その記事の要旨を筆者が説明すると、まず宗教を信じている人は全体のたった3割足らずなのに、オカルト(的なこと)を信じている人は大いに増えている。特に、都市部および若年層においてその傾向が顕著、とのこと。
ちなみに調査対象は『有権者』なので、10代は含まれていない。そこを含めればオカルト信奉者はもっと多くなるはずと、パパさんは言う。それはそうだろうと、筆者もそこは同感する。そして。

 『この データの しめしている ものは
 科学は 万能ではない! この世には 現代科学でも
 解明できない ものが たくさんある!
 ‥‥という 正しい認識をする 進歩的な考えの 人々が‥‥
 都会や 若い層に ひじょうに 多くなっている‥‥
 反対に 古い常識に こだわり ガンコに
 理由のない 否定をつづける 人は‥‥ 田舎や 老人に多い(←!!)』

とまで引用してきて思ったのだが、どうして少年マガジンは他で見ない『‥』(2点リーダー)なのだろうか? と思ってから、前の記事の野中英次+亜桜まる「だぶるじぇい」第1巻を見て確認したら、そこでは一般的な『…』(3点リーダー)に変わってやがるし。
ありゃりゃりゃ。同じKC少年マガジンで、2009年5月刊の氏家ト全「生徒会役員共」第2巻では、『‥』だが。まあ、それはいいが。

まあともかくも、一太郎クンのパパの怪気炎の、さいごのところをご紹介しておこう。

 『霊魂は 存在するのだ! 現代の科学では その論を 否定できない
 ところまで きている! それは 世界の趨勢だ!
 ノーベル賞 受賞者を含む 大勢の科学者が 徹底的に 研究を
 かさねたデータが つぎつぎに 発表されて いるからね!』

まったくもって、目もくらむような電波談義としか申しようがない。こんなでは、どうして自分が≪1999年7の月≫の後にまで生きているのか、ほんとうに今年は2010年なのか、という疑問さえが生じ気味だ。
いや別に自分は後出しジャンケンとして、それからもう25年以上、いまだオカルトの実在がぜんぜん証明されてはいない、ということを述べようとはしていない。25年だろうが100年だろうが、そんなものが証明される見込みはないし。

そんなことに関係なく、さいしょからパパさんのりくつは『感情』に向けて『想像』を訴えているばかりで、ごく小さな論拠にもとづいて大きな論拠を斥けているばかりで、まったくもって論理性がなさすぎる。
それを信じている人々は、『信じたいから』それを信じているにすぎない。ただしパパさんの言うような主張が、世論調査にも見えている1つの時代の風潮にのったものではあった、ということも確かでありながら。

にしても、パパさんの言っている≪科学≫とは何なのだろうか? あるとき彼は『権威ある科学者がオカルトOKと言っているので、それはある』と言い、大多数派の≪権威ある科学者≫らが『オカルト、笑止!』と言っていることは気にもとめない。またあるとき彼は『科学は万能ではない!』と言い、別のところでは『大勢の科学者が 徹底的に 研究を かさねたデータ』がそれを証明している、と言う。
ようするに科学であろうが神話や伝説であろうが、彼には『信じたいものを信じる』、以外の態度はない。かくて、そんなにおバカさんとも思えぬ人間が、ある局面ではここまで≪批判精神≫をドブに捨てることができる…という恐ろしい1つの実例を、ここでわれわれは見ているのだ。
独りがってな『想像』の世界に生きている人間らにとって、事実および≪真理≫らの値打ちは馬のふん(=1ゴールド)ほどにも『ない』。これこそが幽霊や妖怪の出現どころでない、真の≪ホラー≫なのではあるまいか?

…ところでだ。筆者がひじょうに興味をもっている、精神分析というものがあるのだが。その世界の1匹のボスだったラカンちゃまが『分析理論のみちびくところにより、オカルト絶対否定!』と教えているので、そういうわけだが。
そうしてその精神分析について、『それは科学なのか? または別のものなのか?』という問いは、その内部の問題として存在する(外部からの同じ問いは、とくに問題とするに値しない)。
で、ラカンちゃまのそれについてのテーゼは、『精神分析は、“科学であることを目ざす言説”である』、のようなことだが…。

昨2009年の秋ごろ筆者は、その『科学とは何か?』ということを、ちょっと研究していたような記憶がある。ようはポパーが「科学的発見の論理」(1934)で『反証可能性』の有無によって科学を定義しようとした試みが、1962年のクーン「科学革命の構造」、ファイヤアーベント「説明、還元、経験主義」といった著作らで大粉砕されている。かつ、この1962年という『科学観革命』の年が≪ギャグまんが第1号≫こと「おそ松くん」誕生の年と同じであることを、ただの偶然と考えるには及ばない。
かくて『論理実証的』な科学観の崩壊した後に、科学を定義するには、『ワールドワイドの科学コミュニティ(または科学ギルド)の内部で行われ、そこで“科学である”と認定された活動が科学である』…などとしか言いようがない。
この言い方は、フロイトが発案者として≪性感帯≫という概念を説明した言い方を思わせる。いわく、『性感帯とは、人間が“性感帯だ”と思っている部位である』。

そもそも精神分析は『臨床医学』かつ『精神医学』の中の1つの『医術』と考えられ、そうしてそれらが実証科学と言えるものなのか、ということ自体が、1つの大問題なのでもあり(ポパー的には、ぜんぜん落第)。ゆえにわれわれは、『精神分析ごとき、“実証的”でないので非科学的だ』、などとぬかして悦ぶおバカさんたちが死ぬほど勉強不足であることを、そのあんまりな反省のなさを、しんそこ軽蔑してもよいが。
(ところで精神分析を否定する方々は、その末流で廉価版コピーである『カウンセリング』とやらの療法をも全面否定した方がいい。いまどきは血税をもって『カウンセラー』が雇われることもあるらしいので、否定派の方々は行政訴訟を起こした方がいい。そして心の悩みに苦しむ方々には、悩む余力もなくなるまで向精神薬をたらふく喰わせとけばいい…というわけだ! オーレイ、実証科学ばんざい!)

かと言ってわれわれに『実証性』が足りてないことを、そのりくつに『超越論的』な性格のあることを、まったく気にもしないでは、一太郎パパさんと同じになり気味かなあ…と、ここで筆者はため息をつくのだった。その言う『正しい認識』とは、『進歩的な考え』とは、いったい≪何≫なのだろうか?
『論理実証主義は崩壊した、よって考えるな、さあ踊れ!』…ということをわれわれが言いたいのでは、まったくないし。とはいえ『だんこ踊らないぞ!』、とも言わないし。また、分析ならぬ『深層心理学』とやらを言う一派においては『論理実証主義の崩壊』大歓迎だろうけれど、われわれにおいては別に嬉しくもないし。

かってフロイトは、いずれ努力の末に、精神分析がふつうに科学の一角に落ち着くだろう、と考えていた。ラカンもまたその線を追いながら、しかしその生きている間に、リファレンスたるべき≪科学≫のイメージがあっさり崩壊してしまった。
そして晩年のラカンの追求は、そうした科学観の革命に惜しくも追いつけていないというか、ズレている、という感じはある。まったくもって申したくないことだが、『現代最先端の数学や物理学の学説が補強するところにより、わたしの理論の正しさは明らかなのです!』みたいなことをおっしゃる晩年のラカンちゃまの口ぶりが、一太郎パパさんにぜんぜん似ていないと言っては、筆者がうそつきの偽善者になってしまう。ああ…。
だいたい筆者は一太郎パパさんをさきのように申してきて、そしてさいごに『それはわたしだ』と、付け加えたいような気がしているのだった。精神分析という異端でマイナーですでに搾取されきった1つの何かを、どうしてむきになって擁護しているのだろうか、この人は? みょうに誰かのことを熱心に話していると、『それは自分だ』としまいに気づく。そういう気づきの仕方は、とりあえず『精神分析的』であろうかと。ああ…。

ところで、「新うしろの百太郎」という作品の話に戻り。別に筆者はそれを、電波チックなおもしろ話のかたまり、とだけ言いたいのではない。
いまさらそれをほめても説得力ないかもしれないが、みょうにときどき『ほんとうのこと』が描かれている。たとえば第2巻の序盤すぎあたりに、『寝ている最中の霊体験』、という題材の短編がある。そして作中で、それに悩む15歳の少女からの手紙(たぶん本物)が紹介されている。

 『実を言うと私もオナニーのくせがあります。
 幼い頃から性への快感も味わっていて、週に3、4回はオナニーをしていました。
 私もいつか霊にとりつかれるのではないかと いつも思っていました。
 夜、寝ようと思うとあそこの部分が(中略)
 やはりイヤラシイ霊がとりついているのでしょうか』(第2巻, p.62)

この手紙の特徴として、『私も』、『快感も』、『やはり霊が』、と、何らかの先例をフォローしていそうな書き方になっている理由が、筆者にはよく分からないが。しかしこれに類するような訴えの『先例』として、フロイト「あるヒステリー分析の断片」(1905)が紹介している≪症例ドラ≫、というものは思い当たる。
いやはっきり申して、これはわれわれがよく知っていることに関係ありすぎる。かつ、ほんとうにいたましい悩みだと感じないではいられない!

そして、ここにて痛感されることとして。アカデミーのうちわでゆかいなおしゃべりに興じる方々には死ぬまで分からない、そもそもわかる必要のないことがある。フロイトやラカンという人々を、何か学者とか思想家とかのようにみる考えは、ほんとうに死ぬほどバカげている。
そうではない! 彼らが偉大だと言いうるのはまず、この手紙に類するような人々の苦しみ、はた目には少々らちもないような(?)苦しみに、終生つきあい続けたことによる。まずそこを見ないでは、精神分析のせの字も分かるわけがない。
…が、かといって、彼らは苦しむ人々に『なれあった』のでもない。また、臨床べったりの素朴な経験主義に徹したのでもない。そこらがかんじんだろうが(そこから分析特有の方法や理論が生まれるのだが)、それはまた別の話としておいて。

そしてだ。その手紙を見て、われらの一太郎クンは『この例は、霊とは関係なさそう』のように、珍しく冷静なことを言う。かつ霊の研究者である≪東先生≫もまた、

 『この少女の 場合は(自慰について)ひそかな 罪悪感を もっていて‥
 そのおびえを 霊のせい‥‥ ということに 結びつけて いるにすぎ ない!』

と、まったくごもっともなことを言ってくれるのだった! しかもそうは言いながら、『やはりイヤラシイ霊が』悪さをすることもある、というお話になっているのだが!
(…かつ、霊のしわざじゃなければ問題はない、ということはぜんぜんない。だが、いまはこの作品の文脈によりそってみて、そこまでは見ない)

かくて何ともこの作品「新うしろの百太郎」には、ひとすじなわではいかないところがある。はっきり申して中み的に玉石混交もいいところ、しかし矛盾をものともしないところが『逆に』面白い、と、筆者の感じ方は、ここらで変わってくるのだ。

そしてその第4巻の大部分をしめる『ファラオの呪い編』こそ、そうした面白さの典型であり1つの骨頂か、と言いたい気はする。これは主人公たちが、超自然的なトリップと飛行機の旅行と両方で、(古代の)エジプトにおもむくというお話で。ついでに作者たちもエジプトに取材しているので、いろいろなレベルの『事実』とらちもない空想とが、こんぜん一体に描かれている。
じっさいのツタンカーメンに関する記述も詳細で、知的な興味もそそられる。特に筆者が感心したのは、作中人物がアクナテンに関する『病蹟学』的な考証を一蹴するところ(p.148)。こっちの話として、『精神分析的な批評』が作者に関しての病蹟的考証になっている場合があるが、あれもほんとうに『作品』というものを知らざる臆見でくだらない(!)。そこらで大いに、共感したりもしつつ。

にもかかわらず、そのお話がとんだ大電波の発信として終わっていること。それを筆者は、ゆかいだと言いきってよいのやらどうなのやら…。
ちなみに続く第5巻の『謎の地下底都市編』はカッパドキアを扱ったもので、やはりその興味深さプラス強力な『面白さ』は、エジプト編に匹敵する。いろいろな意味で。

ほめるにしたってけなすにしたって、作品は『作品』として扱われねばならない。そうなのだが。しかしここまでを見てきて筆者は、次のように思うのだった。
さきにわれわれがちらと見た、15歳の少女からの手紙。そこに書かれた『霊』のお話はないことだが、しかし彼女の訴えの中には真実がある。と同様に、『ないこと』にまみれたこのお話の中にもまた、何らかの真実の気配は大いにある。そしてそれぞれの中の真実を見きわめるためのリテラシーが、われわれには求められているのかな…と。
と、何だかしっけい気味な話にしてしまって申し訳ないが。ともあれ、これをまったく驚くべき作品であるとは断言できる。ほんとうにいろいろな意味で…!

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