2010/02/09

樹なつみ「八雲立つ」 - あなた、≪オイディプス≫になりなさい

 
参考リンク:Wikipedia「八雲立つ」

いまからわれらが見ようとしている作品、樹なつみ「八雲立つ」。それは『LaLa』掲載の伝奇系アクションまんが(花とゆめコミックス, 全19巻)であり、そしてはえある『講談社漫画賞』の受賞作(1997年度)なのだとか。だがその≪内容≫を見る前に、ちょっと余談から。

  【Ch.1】 “ジーザスの息子”であるべくして

むかし筆者が、何か冗談のようなハードコアパンクバンドをやっていたころ、その仲間と、次のような談義にふけったことがある。
『ザ・ドアーズの「ジ・エンド」とヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「ヘロイン」とでは、どっちの方が、より名曲なのか?』

…お題からして時代性があまりにも濃厚でありつつ、しかも、いまになってそれを考えたら、『どっちもひじょうにすばらしい、でいいじゃないか』としか思えない。少なくとも、『優劣』という次元で比べるべきものとは思えない。
だけれど、そういうことを議論したい年ごろというものがあるようで。それを近年の用語では≪中二病≫とかいうらしいが、ま、それはともかく。

で、その談義において、自分は「ヘロイン」を、相手の方は「ジ・エンド」を、それぞれ推すという立場だったのだが。しかしいま、『当時の自分が、どのようなことばをもって「ヘロイン」を支持していたのか?』…という点がほとんど思い出せないのは、なかなかにいら立たしいことだ。
「ヘロイン」の作者のルー・リードの作風について、この世の最底辺と至上の崇高さとの強引きわまる同一視が、常にしかけられているのがゆかい…ということは、ずっと前から思っているが。けれどもそのときその場にて、そのような主張をしたような気が『しない』のだ。
あとまあ、自分は何かびみょうに『穴』のあるような表現の方をいつも好むので、ドアーズの作品のすきのないところが(相対的に、)ちょっと。それに対して、深刻ぶっているようでも常にどことなく『まんが的』な感じがしているのが、ルー・リードのいいところ(!?)だと思うけど。そしてその『まんが的』という感じが、続いて出てきたいわゆる『グラムロック』の、こっけい気味な様式性を導いたのだが(…以上は、Late 1960'sからEarly 1970'sのロック史のおさらい。何とも死ぬほどふっるいお話…)。

話を戻して、その議論のときのこと。自分の主張はほとんど思い出せないのだが、「ジ・エンド」を推していた相手が言っていたことの方は、わりとよく憶えているのだった。
『「ヘロイン」の歌詞で、“それをぶち込むとジーザスの息子のような気分になれる”、とか言ってっけどさ。でもオレはヤクやったことないしキリスト教徒でもないから、ちょっとよく分かんないんじゃん?
で、それに比べて「ジ・エンド」の、“オヤジを殺してオフクロを犯してやる”というテーマ性はごく身近なことだし、何ンか共感できる、オレにも分かる気がするのよ』

…言うまでもなく、『どっちが“より”、すぐれた名曲なのか?』、という問題は問題でない。けれど無意味そうな談義にふけりつつも、そこでのことばたちの流れから、ほんとうの『問題』が転がり出てくることもあるのでは?
さてその、「ジ・エンド」の歌詞中の『オヤジを殺してオフクロを犯してやる』というフレーズについて。これがフロイトによる概念≪エディプス・コンプレックス≫というものとは、まったく何の関係もありはしない…とお考えの方は、たぶんおられぬものと前提して。

そうして≪エディプス・コンプレックス≫ということについて言うと、『自分にはそれがある』とすっきり断言できるような人は、まったくただ者ではない。『それについて考えるのはあまりにも苦痛なので、考えないようにしよう』というのが、常人の構え方だ。そうした≪抑圧≫のある状態こそが、実はノーマルなのだ。
そういうところで筆者は「ジ・エンド」の、『オヤジを殺してオフクロを犯してやる』というフレーズに、ストレートな『共感』をできたことがない。そしてそうした『共感のなさ』をどう解釈するかが問題で、そんな談義をしていた幼きころの自分は、精神分析に対して大いに懐疑的だった。

かくて。元祖たるソポクレスの悲劇の主人公をはじめ、それぞれにりっぱな≪オイディプス≫であるところのわれわれは、自らの足もとという場所を見ないままに、むしろそこだけは絶対に見ないままに、『どこに“オイディプス”というやつがいるってのか!? 誰がこのけがれなき地を大罪によって汚したのか!?』と、少々かわいげなくもなき大騒ぎを演じ続けているのだ。
そしてそのような人々に対して、『あなた方こそが“オイディプス”なのです』などと告げるのは、基本的にはまったく通じない言葉に他ならない。だから盲目の予言者テイレシアスは、オイディプスに対して『あなたこそが“オイディプス”なのです』と告げることを、大いにためらったのだった。

そうして再び「ジ・エンド」と「ヘロイン」との比較に戻り、強引だがそれぞれの楽曲を『自己治療の記録』とでも見たとするならば、成功しているのは「ヘロイン」のルー・リードであり、一方の「ジ・エンド」の作者たるジム・モリソンは大失敗をとげている。ルーがそれからこんにちまでにドラッグをやめ、ゲイであることもやめて妻帯したりと、ずいぶん健康的なアーティストになっている(!?)ことに比し、追ってモリソンが破滅的な死に方をしたのは、皆さまもご存じの通りだし。

だから。≪フロイトの理論≫というものは『治療に向けての理論』でなければ何の存在理由もないしろものであって、アカデミックな心理学の『理論』などとは1つも関係がない。が、そういうものとしても、そのりくつ(分析理論)の前に屈服してみせる…ということは、別に≪治療≫とは関係がない。
さらによけいなことも述べるといまや筆者は、ルー・リード派でもなくドアーズ派でもない。それらもいいけどしかしそれ以上に、イギー・ポップの単にくだらなく気品も知性も創意工夫もなく、ただただしつように『ヤリてぇよォ、ヤリてぇんだよォ~!』と連呼してるばかりかのような作風に、もっとも心が動く。
(…何をいまさらの説明だが、ザ・ドアーズのジム・モリソン、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのルー・リード、そしてついでにイギー・ポップらは、いずれもLate 1960'sの米国に現れた暗黒系のロック歌手。モリソン以外の2人は、いま現在も健在で活躍中)

  【Ch.2】 ≪男×男Love≫による再生?

さて、樹なつみ「八雲立つ」である(…筆者がよく見るサッカー系サイトのライターがこういう言い方を多用するので、思わずまねして)。

今作は化け物退治の使命を負った主人公≪闇己(くらき)クン≫のヒロイックな行動を追うという『伝奇もの』なのだが、しかしそういうものとしては、あまり魅力が『ない』。化け物の描写やアクションシーンらに、まったく迫力がない…という特徴を有するのは、逆にこの手の作品としてはすごいかも。
重ねて画面のことを、もう1つ指摘いたすと。数十年間にもわたって≪少女まんが≫を見ている者としての筆者は、ここにあるようにそっけなくも淡白な瞳の描き方には、大いに反発を感じないではいられない。

かつそれと重なることだが、今作「八雲立つ」のまた別の特徴として、『女性肯定』という感じがまったくない。というか、むしろめっきり『女性否定』的だ。
それはただ、その主人公の闇己クンがきっぱりと女ぎらいなので…という設定によるものだけではない。そうでなくそれは今作の全般において、絵的にもきわめてあっさりと描かれた女性キャラクターたちが、特に『ヒロイン的』と言えるようなことをまったくやらない、ということによる。
その、いちじるしく魅力のない女性キャラクターたちの中で、相対的に筆者がもっとも好感をもてたのは、さいしょ敵側で登場する傭兵の女性だ。つまり今作に描かれた女性らの中では、もっとも女性らしくないことをやっている人物が、もっとも人間としてまともに見える、逆説的に『やや』女性らしく見える…とは、大いにふしぎなことではなかろうか?

とまで見てくると、1つ分かることがある。今作ラストの大詰めシーンで、化け物界の大ボス的なもの、『同心円に放射状の線』として描かれた巨大かつモヤモヤした存在に、ヒーローとその相棒が対峙する見開きについて(第19巻, p.70-71)。
まずその化け物の形象は、大きく開かれたヴァギナと、その奥の子宮口を表している。『そのようには見えない』という方々はその認識を≪抑圧≫されているわけで、別にそれはそれでよい。
で、それに対してヒーローたちの男子2人は、何か神聖なものらしき≪剣≫を突き立てる。この剣が分析用語の≪ファルス(象徴化されたペニス)≫であり、その行為は性交の象徴だとは、申しててさみしいほどにふつうの見方すぎる。そして『ネタバレ』を避けようとしておぼろに言うと、その行為を介して、われらのヒーローは死と再生をとげる。

そして、≪誕生≫にかかわる何らかの秘密を象徴的に描くものとしたら、この作品は大いにねじくれ曲がっている。すなわち、≪女-男≫の間の性交が生命を再生産する…という認識をまず抑圧し、それをむりにでも≪男-男≫の間のことかのように描いている。ゆえに大詰めシーンの締めくくりでは、相棒の少年が闇己クンの体を剣で貫いて、彼をその再生に導く。これはつまり、≪男-男≫の性行為を(、主人公を『受け』として)、象徴的に描いたものだ。
それこれで、あえて申せばこの「八雲立つ」という作品には、そのヒーローがいつもブスッとしていて不きげんで不幸そうなのは、彼が≪女-男≫の性交の結果として生まれてしまったからだ…という認識が描かれていそうなのだ。そして今作の描いた彼の死と再生は、その不幸の根源に対する修正なのだ。

  【Ch.3】 われわれ“誰も”は、≪オイディプス≫でありつつ

ところで今作が、『伝奇もの』としてはあまり面白くない(!?)、と思える一方で。全19巻というその長丁場、自分という読者の興味をつないだのは、『主人公一家の家庭内のゴタゴタ』という要素だ。
つまり今作「八雲立つ」は、バトルうんぬんよりも『ホームドラマ』でもあるというところに読める要素がある。そうしてそこらで、意外と『少女まんが』っぽい…という感じがする。

ではその主人公一家の複雑な事情を、ざっと説明いたすと。まずその一家は出雲の奥地の伝統ある神職一族の本家で、その構成要素は父親と姉と闇己クン。…すると一見したところ、母がいない以外はふつうそうだが(?)、どうしてそんなものではない。
まず実は闇己クンが、その父親の実子ではない。何と『その父親』の弟が、兄の妻とかけおちしてできた子が、闇己クンなのだ。ゆえにその一家には母が不在であり、そして闇己クンの父は実は義父であり、同じくその姉は異父姉弟、ということになっている。
で、どうしてそのような『不義の子』の闇己クンを、その義父がちゃんといつくしみながら育てているかというと? ここは複雑なところで、この父には、逃げた女房や無頼の弟らへの言いつくせぬ想いもありつつ。
そして何よりも、『本家』たる彼の一家には男子の跡継ぎが必要だ、という事情があるのだ。ゆえにその逃げた女房は、追って劇中の現在に登場したときに、かって赤ん坊の闇己クンをその一家に押しつけたことを、逆に『いいことした』かのように語ってみせるのだ。

で、そのような家庭に育った闇己クンは、表面的にはとても優秀ないい子でありながら…補足すれば、家庭内ではいい子でありながら。実はその内面に、ひじょうにドス黒いモヤモヤをかかえているのだった。彼はその育った家庭のかた苦しいふんいきと、彼の実の両親であるきわめてアナーキーな男女から受けついだ血と、その間で2つに引き裂かれているのだ。
で、そのような彼の家庭の中に『事件』らが起こる。

その第1は、作の冒頭すぎでいきなり、闇己クンに対してその義父が、『俺を殺してくれ』と迫ってくる(!)。どうしてかというと、彼ら一族のしきたりとして、その宗主が49歳になったら跡継ぎがその首をはねて、そして代替わりをすることになっているのだとか。そして闇己クンは、ともかくもそれを実行して、そして一族の宗主におさまる。
追って第2には全編の中盤で、異父姉の≪寧子(やすこ)≫が闇己クンに対して、女として迫ってくる(!)。もの心ついたころから1度として、弟を『弟』として見たことはなかった、などとすごいことを言いながら。そして闇己クンは、それを退ける。

かくしてここに、父殺しと近親相姦という≪オイディプス≫物語の2大モチーフが現れる。それらが『逆に』押しつけられてくるものとして、そして主人公にはいずれも『まったくやりたくないこと』として、「八雲立つ」の作中に現れるのだ。まるでそこには、『さあ、あなたも“オイディプス”になりなさい』という命令が、どこからか聞こえているかのように。
ところで、『われわれ“誰も”はオイディプスである』とは言いながら、なろうと思ってそれになる人はいない。いつの間にか、“誰も”がそうなっているのだ。そして≪オイディプス≫であることは病理的なことでもありながら、しかもいっこうにノーマルなことなのだ。かくして『父殺しと近親相姦』は、『誰もがやりたくて仕方がないこと』でありながら、しかも『考えるもおぞましい究極の悪事』、という両面感情の対象であり続ける。

またその一方、この物語は『何となくそこにいるもの』としての邪悪な化け物らを退治するお話でありつつ、それを邪魔する目の前の敵キャラクターは、何とうわさの人物、闇己クンの実父なのだ。つまりこのヒーローは、一方では一族の≪義≫によって義父を自分の手で殺し、その一方で再び『一族の≪義≫によって』、実父には自分からケンカを売る。
かつ、追って登場する彼の母の態度のずいぶんなクールさも印象的。つまり『義父+姉』のペアと、彼を捨てた『実父+母』のペアとでは、闇己クンへの態度があまりにも対照的すぎるのだ。形式的な家庭は闇己クンに対して熱烈に接しながら『ひじょうにいやなこと』の実行を彼に迫り、それに対して血のつながった両親は、闇己クンに対しての関心がなさすぎる。
そして、闇己クンの実父について補足。兄の妻を犯し、やくざチックな無頼の稼業に従事し、そして見さかいもなく化け物らを野に放とうとするこの人物は、われわれが言うところの≪象徴的去勢≫を受けざる者であり『非-オイディプス的な人格』だ。つまり、『父を殺し母を犯す』的なことを実行して恥じず悔いないような人間は、≪オイディプス≫で『さえもない』。これこそまったく病理的な状態であり、よってこの実父も作中で(必然的に)破滅している。

かくてわれらのヒーローは、『オイディプスでありすぎること』と『オイディプスでなさすぎること』との間で引き裂かれ、大いなる苦痛を味わっているのだ。平たく言い直せば、彼は義父のような生き方を引き受けながら、実は実父のアナーキーな生き方にもひかれてやまないのだ。で、そのような彼の通常モードが『不きげん』であることについて、これでは大いになっとくせざるをえない。
そうしてそれへの解決めいたもの(!?)としてラストで提示されているのは、彼が≪女-男≫の性交の結果として生まれてきたこと、それへの否定なのだ。すごい大胆な『解決』かのようだが、しかしそれを今日のことばで言えば≪BL(ボーイズラブ)≫、『“BL”が解決である』、ということだ。もちろんそれは、『想像的』というにもほどがある『解決』ではありながら。
つまりこんにちのBL作品らが、『“BL”が解決である』ということをとうぜんの前提(!)として描かれているのに対して、古くMid 1990'sの創作である今作「八雲立つ」は、苦労して苦労して『“BL”が解決である』という結論を導きだしているのだ。そしてそのご苦労さに、そしてその『解決』があまりな『想像』であることに、思わず大びっくり…というのが、今作のラストを見ての筆者の感想なのだった。

ところでギャグまんがの話にすると、少年マガジン系の媒体の作品で、やきうどん「主将!! 地院家若美」という現在進行中の大傑作がある(2005-, KC少年マガジン, 刊行中)。『BL系格闘ギャグまんが』というキャッチフレーズの付されたそれはまさしく、いままで見てきた「八雲立つ」という作品に対して『向きあっている』ものだ。
すなわちその主人公もまた、歴史ある一族の使命の重苦しさに耐えかね、そのようなものを終わらせようとして≪BL≫に走る。当の本人は『私は生まれつきの美少年好きなのよ~ん』と言うが、しかしそうは見ていない人々も、その作中に存在するのだ。
と、そのようなやり方で彼は、≪オイディプス≫であることの苦しみから逃れようとしているわけだが。が、それがそのままうまくいくかどうか!?…というところに1つの興味がある。それこれあわせてひじょうにすばらしい作品なので、ぜひとも「地院家若美」のご一読を乞いながら!

0 件のコメント:

コメントを投稿