2010/02/15

喜国雅彦「日本一の男の魂」 - パンチラは≪真理≫の顕現である、かどうか

 
参考リンク:Wikipedia「日本一の男の魂」

ギャグに限らずまんがというものの、どういうところが評価されるべきなのか? 筆者が重要視するのは、≪フレッシュネス≫というポイントだ。
そんなところから申せば、変態ギャグまんがの巨匠・喜国雅彦センセの近作には、フレッシュネスが異様にない。 そのパターン化された変態話らがもはや、読者に対してショックを与えてはいない限りで。
…といっても、3年か5年も活躍できれば超上でき、かという≪ギャグまんが家≫の1人として、もはや20年近くも現役でやっておられるので。ソコへ『フレッシュでない』などという批判を、別にいたしたくもない。そういえば、かの偉大なる赤塚不二夫や山上たつひこでさえも、第一線の≪ギャグまんが家≫であられたのは、ホンの10年ばかりの間ではあり。

にしてもフレッシュネスのなさが否めないが、しかし笑えるところがなくもないし…といって筆者は、ブックオフで105円で今シリーズを買ってきて、読んで『多少は笑えたな』といっては、それを積んであるまんが本らの下の方にネジ込む(!)。にしても自分が既読の最新刊は18巻(2007)なんだけど、これは1ヶ所も笑えなかった。
なんて失礼の限りを申すようだけど、逆に巨匠に対しては許されるかと想うわけで。かつそのように言いながら、今作とてもずいぶんと巻を重ねてるわけだから、おそらく多くの読者さまらに何らかの感動を与えてきたにはちがいなく、そこらへのリスペクトはいだきつつ。

とまあ、そんなことより、筆者的な今作の注目点を書いておく。『まいどまいどの変態バナシかYO!』…と想って見てると急展開し、わりに意外な結末を見せてくれる…というパターンがある。たいへんだが本を掘り出して、その作例を捜してみたら。

3人組の少年の中の1人が、海でクラゲに刺されてしまう。そこへかれらの学校の美人の保健の先生が通りかかり、『そういうときは(患部に)おしっこ かけるのよ』といって、岩陰でその処置を施してくれる(…別にいいけど、ほんとうに治るの?)。
それを見た残りの子ども2人は猛然と海中にダッシュし、そして『ぼくらも クラゲに…』と言って戻ってくる。その1人は陰のうを、また1人は鼻先を腫らしている。
すると先生は、片方を処置したとこで尿がつきてしまう。そこで通りすがりの女の子をつかまえ、少年らと同年代の彼女に、ラスト1人の顔面を処置してもらおうということになる。

さすがに少しはためらって、しかし嬉しそうに少年が、 『い、いいの…?』と問いかけると、善意の少女は『人助けだから…』的なことを言い、そして恥じらいに頬を染めながらもうなずく。
…というところでシーケンスの≪切断≫が生じ、どこぞの仲良し夫婦がニコニコと肩を並べながら、『それが パパとママの 出会いだ。』と、自分らの娘に告げている。それを聞いた少女は、耳を両手でふさぎながら『いやあー!!』と泣き叫ぶ(第7巻, p.38)。

そういえば、オチのコマで登場人物(ら)が涙を流してる…『命名:泣きオチ』、というのは、かって喜国先生の出世作「傷だらけの天使たち」でよく見た眺めだが。それって、喜国センセの独創だったのかな? またはもっと以前に、いがらしみきお、なんきんらのセンセが描いてたっけ? 
ま、それは考えたって分からぬことなので、さておいて(…いま見たら相原コージ「コージ苑 第一版」にも『泣きオチ』は、なくもない。が、「傷天」ほどのキレはない)。

…話を戻し。かくて、 1ピキの人の起源には、どうしようもないものとしての≪享楽≫が、ありてあるのだった。何か大昔の母親たちは息子らに対し、『オマエは父ちゃんが酔ってた時の子だから、デキが悪い』なんて平気で言ったらしいが(!)。
にしても『自らの起源』とはふつう聞きたくない≪外傷的≫な話に他ならず、よってこれおよびシリーズ中の同工異曲なエピソードら…『命名:変態なれそめシリーズ』は、筆者の申し上ぐる≪外傷的≫ギャグの1つの見本ではある。

もう1つ、また別のことを。今作の同じ第7巻に、『日本一のパンチラ男』というエピソードがある(p.111)。そこではまず、≪パンチラ≫というものを熱愛なさる紳士らが大集合し、どこかの会堂で決起集会を開いて、

 『パンチラに こそ真実が ある!』

…等々と叫んで、気勢を上げておられる。
というものを見て筆者は、かって自らが、『ラカンの理論の主張として、“パンチラは≪真理≫の顕現である”』…などとフイてきたことを想い出すのだった。なんでまたそうなるかというと、われらがラカンの超メイ著「精神分析の四基本概念」(1964, 訳・小出他, 2000, 岩波書店)に、次のようにあり。

『精神分析の基礎について。基礎(fondement)という語はユダヤ教では、神の顕現の様式をも意味する。かつ、神の顕現は≪恥部≫と同一視されている。われわれが分析のディスクールでこだわってきたのがまた、この≪恥部≫に他ならない。基礎はおそらくこの場にては、≪下着 dessous≫という形をとる…ただしこの≪下着≫が、あらかじめむき出しになっているわけではない、という条件のもとで』(邦訳書, p.7より、要約)

英語でも下着のことをファンデーション(foundation=基礎)と言うが、つまりはそういうわけだ。ついでの主張で≪foundation≫と言うならば、『見出されるべきもの』…とも言いたくなるところだが、それは英語に詳しい方からツッコまれそうな臆見やも知れぬ。

しかしラカンによるネタ本をあらためて見てみたら、そこに≪真理≫という語など出てはおりませんでした(!)。まあ、そんなことは分かっていて言っていたような気もしつつ。
すると、そうではなく。むしろ『パンチラは、精神分析の基礎である』とでも言い直し、そして分析が明らかにすべきもの…すなわち≪真理≫とは、パンツの中の≪恥部≫なのだろうか?
んぬぬぅ…。どちらかというと、『中身』ではなく表層に≪真理≫がある、と言った方が、ラカンチックなのだが。

で、喜国雅彦「日本一の男の魂」の作例の話に戻り。そうして≪恥部≫ではなくパンチラを!…などと叫んで盛り上がった後、その紳士らの中の1匹は、渋谷センター街の一隅で、パンツ丸見え状態で路上に座っている少女らの痴態をこっそりと、ショーウィンドーの反射を利用して観察されている。また例によって、『泣きオチ』の態勢で。
よくは分からないが、この紳士は、『パンチラならざるパンモロごときはまったく見たくもねェ』、とも言えぬ…という自らの心弱さを恥じて、泣いておられるのだろうか?

話をさらに戻してエピソードの半ば、大会を開催中の紳士らは≪パンチラ≫について、『チラ』であることをきわめようとする。つまりパンチラ写真にしても、ほとんど見えてないようなものこそ『趣きがある』と、無意味に≪通≫っぽい意見が一同の賛同を得る。
ところがわれらの紳士たるおっさんは、≪通≫に徹しきれない。言い換えて、『パンツの向こうに“恥部”がある』、『表層の奥に何かがある』、『記号の彼岸に“もの”がある』、といったことらを疑いきれない。また言い換えてこれを、いわゆる『ポストモダニスト』になれていない、と言ってもよさげ。まあ、いまどきは、誰もそんなものになろうとしていないにしろ。

そして≪恥部≫に関しての問いかけは再び、『自らの起源』についての問いかけではありげ。筆者はポストモダニズムなんてさっぱり知らないのだが、それがおそらく『起源などはない、ただ反復があるばかり』などと主張していそうなところで、しかしわれらの紳士は、『けれども“自らの起源”がどこかになくてはならない!』と、信じて活動し続けるのだ。

 『われわれが分析のディスクールでこだわってきたのがまた、この≪恥部≫に他ならない』

そうしてその追求が、『自らの起源』に接近したときの≪外傷≫の反復をなす。ゆえにこのパンチラ紳士が涙を流しているのは、クラゲのエピソードのオチで少女が泣いていることの≪反復≫だと言える。

というわけで喜国センセのご創作はこんにちにいたるまで常に、いいところをついていそうなものではある。そしてほんとうに肝心なところまでは描かない、というその遠慮深さが、作家としての長寿のひけつなのかなあ…などと、やっぱり皮肉っぽいことを申してしまいながら!

【付記】 数日前の記事で「月光の囁き」を取り上げたときに、過去に人知れず今作「日本一の男の魂」のレビューを書いていたことを思い出した。以上の堕文は、それ(筆・2009年9月)の再利用だが。
けれどもそのままではぜんぜん使えなかったので、再利用のための加筆修正に、1から書くのと同じくらいの時間がかかってしまった。堕文にしたってバカっぽくも投げ出しすぎなことを書いていた過去の自分を、ぞんぶんに責めたい!

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